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6-10

「リ、ク……?」


 一瞬、ハルは見間違えたのかと思った。

 だが数メートル先の路上に立ち、肩で息をしているのは間違いなく弟だ。

 ということはつまり、このブロックをマガミに投げたのは、あのリクなのか。

 あの臆病で弱虫で泣き虫の弟が、この街で一番手を出してはいけない男に向かって攻撃した?


 酸素の届かない脳で、唖然としながらハルは弟を見上げる。

 人の頭ほどもある血に濡れた石の塊が、ハルの指先にざらりと当たる。

 雨のせいか、自分の行動か、目の前にいるマガミか、それとも殺されかけていた兄の姿にか、リクの唇が震えていた。


 しかしその唇は、意外なほどしっかりとした口調で、


「兄貴に、触るな」


 そう低く告げる。

 顔に滴る雨を袖で拭いながらハルとマガミを睨む彼の目は、確固とした芯のある光があった。


 しかし、手を出した男がまずかった。


 ピクリとマガミの指が地面を掻くように動く。

 彼の復活をいち早く察したハルが弟に向かって叫ぶ。 


「リクっ! 逃げろ!」


 ハルの声と同時に、マガミの巨体がゆらりと起きる。

 染み付かせた雨と泥を全身から滴らせて俯いたマガミの表情は、いつもの獣の笑みが貼りついていた。


「だーれだぁ?

 邪魔する悪い子は? あぁ!?」


「ひっ!」


 彼は首だけを傾け、光る瞳孔でリクを捉える。

 兄のためにと興奮状態になっていたリクの精神が、それだけで心臓を両側から押しつぶされたように縮む。

 目をリクから離さずに、マガミがゆっくりと体を反転させて、歩を進めようとする。


「がっ!」


 しかしそれより先に、先ほどのブロックの塊が再度マガミの後頭部を襲った。

 ターゲットが外れた一瞬でハルが投げたものだ。

 寸分違わず先ほどの傷口を直撃したためか、マガミの体が一瞬仰け反るようにして、前のめりに倒れて膝をつく。


「行け! 早く!」


 そんなマガミを抑えるように、彼の肩口に足をかけて体重を乗せたまま、ハルがリクを指さして怒鳴る。


「け、けど! 兄貴も……!」

「お前がいたら俺が逃げらんねぇんだよ!

 すぐに行くから、俺の部屋で待ってろ!」


 普段表情を崩さない兄の必死の形相を見て、リクが後ずさる。

 ここにいてもハルの足手まといにしかならないのは、彼も重々承知だった。


「わ、分かった!

 絶対だぞ! 怪我するなよ!

 俺、待ってるからな!」


「当たり前だ、馬鹿!

 誰にモノ言ってやがる。行け!」


 ハルの指示に、リクが路上に落とした傘も拾わずに道路を走りだし、そして視界から消える。

 それを確認した直後、足元から地に響くような唸り声が鳴る。

 唸り声が咆哮に変わるのと同時に、マガミが跳ね上げるようにして上半身をがばりと起こした。


「おっと」


 振り落とされる前に、彼の体を蹴ってハルが地面に降りる。

 俯いたまま状態を確認するようにマガミが頭を軽く横に振る。

 雨や泥水と一緒に、赤い血が混じって飛ぶが、当の彼はまったく気にしていないようだ。

 完全に頭を割る勢いでハルはブロックをぶつけたのだが、無残なままに砕け散ったのはブロックの方だった。


「あー、くそ。痛ぇ」


 普通は痛いじゃ済まされない。

 流石は殴っても刺しても落としても撃っても死ななかった不死身の王様だ。

 この程度では動きを止めることしか出来ないらしい。


 いつ襲ってきてもいいようにとハルは身構えるが、マガミは首をコキコキと鳴らしている。

 どうやら疑問と興味で、先程までの狂気のような感情は吹き飛んだらしい。

 気分が変わりやすいのも、王様の特徴の一つだ。

 んー? と首を傾げながら、先程走り去っていった少年を思い出す。


「ありゃ何だ?

 兄貴、とか言ってたなぁ。

 まさかハルちゃんの弟か?」


「見りゃ分かるだろ」


 そんなマガミにハルは警戒解かず、簡単に答える。

 平然と言ってのけるハルに、マガミが口に苦笑いを浮かべた。


「お前とヤツの面を見て兄弟だと分かったら、そいつぁエスパーだ」

「なんでだよ。

 俺に似て天使のような顔してんじゃねぇか。

 どこから見ても俺の身内だろ」


 やはり当然という顔で言われ、マガミが今度は喉の奥で呆れたように笑う。


「現実と鏡を見ろよ、ハルちゃん。

 大丈夫、人間は顔じゃねぇから」

「てめぇ、俺のような美形に何てこと言いやがる」

「いやお前じゃなくてだな……」

「あぁ?

 じゃあ、俺の弟が可愛くないとでも言うのか?

 ヤスリで眼球のレンズ磨いてやろうか?」

「いらねぇよ。

 っていうか、ハルちゃんさぁ」


 未だ降り続く雨空を仰ぐようにしてマガミが上を向き、どこか感慨深そうに一つ息をつく。

 高い鼻く形の良い鼻に当たる雨粒や水分を含んで額に引っ付く前髪を鬱陶しそうに、顔を振る。

 再び何か考えるように、マガミは低く唸る。


「ハルちゃんのあんな顔、久々に見たなぁ。

 ……なるほど?

 弟のためとなると、お前でもあんな風になるんだ?」


 少し遠い目をして思い出し、意外そうな口調でマガミが言う。

 何か含みを持たせた言い方だった。

 その意図を早々に察したハルは、黙ったまま自然な動作で雨と泥水を吸い込んだパーカーの下に手を滑らす。


「なぁ? もし俺が、あの弟ぶっ殺したらさぁ?

 お前……」


 お前、どうするんだ?


 そうマガミの目が面白そうに細められ、顔を上に向けたままでハルの方に視線を落とした。


 が、そこに目当ての姿は無かった。


「うぉっ!」


 かわりに一歩手前で水が跳ね上がり、一瞬後に鋭い風が首元で薙ぎ払われる。

 強い殺意を伴ったそれを、マガミが紙一重で後ろに飛んで避ける。

 先ほどまでマガミがいた場所に、逆手で黒いサバイバルナイフの柄を握ったハルがいた。


 既に次の攻撃のため、ハルは顔を刃で隠すようにしてナイフを構えている。


「おいおい……マジかよ」


 マガミの言葉ひとつで一瞬にして殺意を剥きだしたハルに、驚きで口を歪める。

 しかし王様の目はどこか楽しそうだった。


「『弟を殺したら』、だと?

 『お前も殺す』以外の答えあるなら教えてくれ」


 対するハルは静かな目を細めて、マガミの問いに短くそう答えた。

 その答えに、にぃっとマガミの口角が上がる。


「あは、ははは!

 やっとこっち向いたなぁ、ハル。

 いいね、いいねぇ! すげぇいい!」


 マガミが構ってもらえた子どものように手を広げて喜ぶ。


 思えば、ハルはいつだって会えば逃げてばかりだ。

 それもマガミにとっては気に食わないことの一つだった。


 昔のように向かい合うこともせず、かといって敵対も憎み合いもしない。

 いっそ、ハルが敵意むき出しで襲い掛かってきたら、どれだけ楽しいかといつも考えていた。

 唯一自分が認めた男が、自分のためだけに感情を剥き出しにするのだ。

 そんなに贅沢なことが、他に存在するだろうか?


 その願いが、たった一言で叶ったのだ。


 黒い柄をハルがゆっくりと一本一本指を折って握り直す。

 マガミが目を細めて、その動作を視線で追う。


「なぁ、ハル? 

 マジで殺ってやろうか、弟。

 そしたらさぁ、お前、毎日毎日そんな目ぇして、俺のこと追いかけて殺そうとしてくれるのか? 

 なぁ?」


 身を乗り出して嬉しそうにマガミが言うと、濁ったハルの目が僅かに冷たい光が揺らめく。

 今か今かと、マガミはハルの感情があふれる瞬間を待つ。


「………」

「なぁ、ほら?

 大切な大切な兄弟が、俺に殺されちゃうぞー?」


 黙ったままのハルの方に向かって、マガミが満面の凶悪な笑みを浮かべながら指を鳴らす。

 それでもハルはその体勢のまま動かなかった。

 次第に痺れを切らしたのか、マガミが唇を尖らせる。


「おーい、ハルちゃんー?

 殺っちゃうぞー?

 本気だぞー?」


 駄々っ子のような言い方で挑発するマガミ。

 そんな彼に、やっとハルが口を開く。

 

「俺は」

「あ?」


 ハルの冷たく暗い、だが心臓をつかむような独特の音調がマガミの挑発を遮る。


「俺は、お前が嫌いだ」


 しかしその言葉は意外なものだった。

 期待していたものとは違った回答に、マガミも面食らったように真顔になる。


「何だよ、急に」


 そんなマガミに構わず、ハルは続ける。


「お前が嫌いだ。

 思考回路が滅茶苦茶で、自分勝手で、傲慢で。

 品性下劣でうるさくてうっとおしくて放浪癖あるし仕事もしねぇし掃除もできねぇ生活能力皆無で図々しくて人の領域に土足で入ってきやがって」


 途中から息継ぎを放棄して、あらん限りの思いのたけを吐き出すハル。

 

「……ハル?」

「女好きで金使いが荒くて居丈高で横暴でアッタマ悪くて自分勝手で自分勝手で自分勝手でうっとおしくてイラつくし本っ当うっとおしいし」


 言い尽くせなかった分も付け足し、段々と怒気が加わり始めた自分への暴言に、身に覚えがありすぎるマガミはバツが悪そうに声をかける。


「……あの、ハルさん?」

「あークッソ本当腹立つ。

 言葉にして改めて気づいたけど、本当腹立つわ。

 昔っから本当そういうところが死ぬほど嫌い、死ね、マジで今ここで俺の前で」


 あくまで真顔でそう言い切って、ハルは自分の目の前の地面を親指で指さす。

 自分への思いを剥き出しにしてほしかったが、そういう意味じゃない。

 マガミはいたたまれない気持ちでいっぱいになる。


「……あの、なんかその、ごめんな?」


 ついでに殺気をも引っ込めて、若干罪悪感混じりの表情でマガミは一歩引く。

 ハルの目にあった光も消え、いつものように濁った色に戻っていた。

 ナイフを構えていた右手をぶらんと落とし、首を振りながら背筋を伸ばして、ハルは雨に顔を当てるようにして天を仰ぐ。


 そのまま頭を冷やすように、静かに目を閉じて落ちる水滴を肌に浴びる。

 そして薄く目を開くと、彼はわずかに開いた口からため息をこぼす。


「俺はお前が心底嫌いだ。

 俺にとってお前は最低で最悪で。

 ……でも、だけど。

 数少ない己の人生に哲学を持って生きる獣だと思っている」


「あー…んん?

 それは、褒めてるのか?」


 言葉の意図が分からずマガミが肩をすくめると、ハルは軽く首を振って目の前の男を見据える。


「そうじゃない。俺を馬鹿にするなって言ってるんだ。

 お前の言ってることは、その哲学に反している。

 それくらい俺だって分かる」

「俺はそんなことはしない、ってか?

 本気だったらどうする」


 その問いに、今度はハルが肩をすくめる。


「ただ失望するだけだ」


 事も無げに言って、ハルはパーカーの裾で隠れた右腿のホルダーに、慣れた手つきナイフをしまう。

 完全に戦意をなくしたハルを見て目を数回瞬かせると、マガミは先ほどとは違った、今度は本当に子供のような笑い声を出す。


「あっははは!

 もーつまんねぇなぁ、ちょっとくらい乗ってくれるかと思ったのによぅ! 

 でもその通りだぜ。

 俺の方を向く理由が俺じゃねぇとか、有り得ねぇよ」


 濡れてへばりついた前髪をかきあげながら、朗らかとしか言いようのない笑い声を出すマガミを、どこか眩しそうにハルが目を細めて見る。


「あーあ。

 せっかく良い感じだったけど、なんか白けちゃったなぁ。

 今日はやめとこっか。

 ハルちゃんも本調子じゃないみてぇだし。

 俺も暇じゃねぇし」


 珍しく休戦宣言をする王様の言葉に、ハルが呆れた顔をする。


「……今現在、暇を極めて楽しんでいらっしゃるじゃねぇか」

「暇じゃありませんー。

 王様は忙しいんですー。

 ただ仕事してないだけですー」

「しろよ仕事」

「だってハルちゃんいないし。つまんねぇ」

「やれよ!

 俺がいなくてもやりなさい! 

 お前なんかどうでもいいけどな、カラスさんの疲れた顔見ると、罪悪感が半端無ぇんだよ!」


 口を尖らせて子供のような抗議をするマガミに、思わず母親のような口調になるハル。

 目を吊り上げて手を組んで鋭い声を飛ばす彼に、ますますマガミが笑う。

 まるで昔良く見た顔だ、とでも言うように懐かしげな顔をされ、ハルが一瞬少し目を開いて、バツが悪そうに視線をそらす。


 そんなハルに大股で近づくと、ぽんと大きな手を頭に乗せる。


「!」


 一瞬びくりとハルが顔をあげようとするが、押さえつけられるようにぐしゃりと頭を撫で付けられる。

 子どものように頭を撫でられて上目遣いで睨むが、


「次はちゃんと、殺しても死なねぇような、いつものハルちゃんでいてくれよな?」


 にっこり笑われてそう言われ、思わずハルが舌打ちで返す。

 いつもどおりの苛立った表情を見て、マガミは満足そうにハルの髪をくしゃくしゃと撫ぜると、


「じゃあね、ハルちゃん」


 我が子にでもするようにハルの濡れた髪の上に軽く唇を落とし、そして濡れたコートの裾を翻すと、先ほどと同じように大股で去っていく。

 その行動になにか言い返そうとハルは顔を上げたが、数歩先でひらひらと手を振る、かつての友人の後ろ姿を見て、軽く目をつぶってため息をひとつついた。


 とりあえず危機は去った。


「さて、次はアイツだな」


 ハルはマガミの大きな後ろ姿が消えるのを待って、弟が待つ部屋へと足を踏み出した。


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