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6-9


「待てよハルちゃん!

 あっそぼうぜぇーーっ!」

「……あー、うっぜぇぇ」


 ハルの喉の奥から絞り出されるような声が出る。


 人混みを避けるように住宅街を駆け抜け、ハルの足は廃工場が多い幽霊団地近くまで迫っていた。

 目的はしつこく追ってくるマガミから逃れるため。

 そして、人目を避けるためだ。

 そのために住民でも迷うような複雑な路地を何度も曲がって撒いているのに、なぜかマガミは匂いを嗅ぎ分けるようにして直感で位置を探り、そして邪魔な障害を、時に物理的に突破して直線距離で差を縮めてくる。


 カイが言っていたように、出かけるときに怪しかった雲行きは、予告通りとばかりに雨粒を滴らせる。

 アスファルトが雨粒で塗りつぶされる頃になって、ようやくひとつの建設現場がハルの目に入る。

 どうやら二階建ての簡素なアパートのようだ。

 実際には何年も前に建設が放棄され、造りかけのブロック塀と鉄骨の骨組み、そして造られてすぐに取り止められた粗末な壁がある程度だ。


 走りながらハルが鼻先から滴る雨粒を長い袖で拭う。

 強い雨の匂いがした。


「……!」


 ずきり、と頭の奥に鈍い痛みを感じる。

 こんな雨の日は、いつもそうだ。

 自分のすべてを奪ったあの日が、体の奥から這い上がってくる。


 雨粒で濃く染まったパーカーに目を落として、彼は奥歯を噛む。

 こみ上げそうになる感情を舌打ちで打ち消す。


「……本当、うぜぇなぁ」


 最悪なタイミングで、最悪な男が後ろから迫ってくる。

 耳の上あたりで疼き出す痛みを抑えるように片目をしかめる。

 早々に逃げ切らなければと、眼前に迫った建設途中のアパートへと目を向ける。


「っと」


 ハルが建設途中のブロック塀を身軽に飛び乗り、そのまま数メートル離れた鉄骨に飛び移る。

 そのまま雨に濡れた上の鉄骨に手をかけて身を上げてひょいひょいと登り、一番上の鉄骨に手をかける。

 身をかがめたまま奥行きを窺うと、途中から床のない二階部分を上から見下ろす事ができた。


 このまま逆側に出られれば、体の大きいマガミはこのアパートを遠回りするしか無い。

 そうなれば流石のあの男ももはや追いつけない。

 その隙に姿をくらますことができるだろう。


 ハルが靴幅よりも細い鉄骨の上に手を添えて飛び移ろうとした時だった。


「!」


 頼りない足場が轟音とともに激しく揺れる。

 ハルが下を見ると、楽しくて楽しく仕方がないというような顔のマガミが、蹴りあげた足を鉄骨に乗せて手を振っていた。

 どうやら鉄骨を揺らして振り落とそうという、分かりやすい算段らしい。

 分かりやすいが、雨という天候とそれに伴うハルの状態も相まって、今の彼には最も有効的である。


「Come Down, Come Down, My Little Kitty~♪」


 ハルが慌てて鉄骨に添えた手に力を入れるが、マガミは楽しそうに歌を口ずさみながら、さらに連続で衝撃を加える。


「止めろ、クソ野郎が!

 ついでにその歌も止めねぇと鉛玉食わすぞ、クソキング!」


 毒づくハルの耳と体だったが、下の男は意にも介さない。

 ただでさえ不安定な鉄骨がギチギチと音を立て始める。

 それと一緒に、ハル自身の体調にも変化が起こり始めた。


 先程までは鈍いだけだった頭の奥の頭痛が、雨の音と匂いで広がり始める。

 ずきん、ずきんと脈打つ度にその強さは増していき、吐き気さえも覚え始める。


「う……クソが」


 なぜこんな時に、と奥歯をかみしめる。

 目を開けることも出来ないほどの内側からの激痛に、ハルが手で歪んだ顔を覆うようにして抑えた。


 そこに、地上から鉄骨に決定打が蹴り出された。


「くっ!」


 ゴゥンと鉄骨が家ごと揺さぶられ、幾つかの骨組みが部品を飛び散らせながら宙に放り出される。


 ハルが慌てて手を添えようとしたが、雨で濡れた鉄がそれを拒む。

 高さにして二階ほどの高所から、ハルの華奢な体が投げ出される。


「くっそが!」


 手を伸ばして別の鉄骨に掴まろうとする。

 が、掴んだ瞬間、先程の一撃で緩んだ部品が外れ、勢いだけを殺して掴んだ鉄骨と一緒に背中から地面に叩け付けられる。


 肺を潰されるような感覚と、激痛。

 息すらできない程の痛みに呻くことすらできなかったが、それでもハルは身を起こそうと体に力を入れる。

 しかし、暗い空にさらに影を落とすようにして、上からマガミの長身が覗き込むのを見て、やめた。

 距離があるならいざ知らず、ここまで詰められて、しかも状態は心身共に最悪だ。

 悪あがきは悪手にしかならない。


 マガミは大層満足そうな顔をして、ハルの様子を観察している。


「駄目だよなぁ?

 やりあってるときにさぁ、余計なこと考えるのとか」


 どうやらハルが別の何かに気を取られていたのは、マガミも感づいていたらしい。

 こっちだって考えたくて考えているわけじゃない、とそんな声も出せそうもなかった。


「やぁっと観念したか? ハールちゃん」


 子どものように笑いながら屈みこんだマガミがハルの頬に手を伸ばす。

 ハルはその手を、最後の力で思いっきり叩き払う。

 それに一瞬、マガミはぽかんとした顔をした。

 が、すぐに先ほどのような、だが獰猛な獣の匂いを帯びた笑みを顔に貼り付ける。


 そして今度は一度腕を振り上げて、しならせるようにして手の平をハルの首に叩きこむ。


「っ!」


 長い指をハルの細い首にめり込ませ、まるで人形でも持ち上げるかのように軽々とその体を引き上げる。

 そのまま造り掛けで崩れかけた壁に、ハルの体ごと叩きつける。

 動きを封じられ呼吸すら奪われたハルは、首を掴む大きな手に指をかけることしかできなかった。

 ぶらりと垂れ下がった足にも力が入らず、二三度空を掻くように揺れる。


 首を絞めあげられたまま呻き声一つ出せないハルの眼前で、マガミの口元が歪む。

 瞳孔の開いた獣の目が、ハルのすぐそばにあった。

 周囲の感覚をシャットダウンさせて、その場に貼り付けるような強い目。

 狂気とも思える強さの象徴。

 かつてこの街で、ハルが一番初めに欲しがった武器。


「なぁ?

 どうしてお前は分からねぇのかなぁ?


 お前の場所は、『ここ』以外有り得ねぇんだよ」


「………」


 喉を封じられたハルはその言葉に答えられないし、たとえ喋れたとしても、何も言わなかっただろう。

 だがマガミは構わず、低い声で続ける。


「お前さぁ。

 俺たちが出会うまで、俺がどんな生活をしてたか、覚えてるよなぁ?」 


 打ち付ける雨が、鉄骨にあたって固い金属音を幾つも響かせる。

 静かで低いマガミの声が、ハルの耳に重く落ちる。


「色んなヤツが俺を欲しがった。

 だが俺は人の下にはつけねぇ。

 自分以下の人間を見上げるなんて、俺ぁ死んでも出来ねぇ。

 生きるために負けるなんて、クソ喰らえだ。

 ……そんな俺を、ヤツらは処刑しにかかってきた」


 当然ハルは知っていた。


 まるで生き物を殺す為だけに作られたような驚異的な肉体を持つマガミは、彼が肩書一つ持たないただの若者であった時から有名だった。

 当然の如く裏社会の連中からは勧誘の嵐だったが、彼はそれを鼻で笑って一蹴した。

 そんな彼に暴力組織が次にとった行動は、他の組織に取られる前に片を付けることだった。

 逃げるを良しとせず、追われる身でありながら類まれなカリスマ性で彼を慕う人々の間を渡り歩き、時に裏社会の連中と殺し合う。


 だが、そんな日々も重なると、彼もさすがに嫌気がさす。

 自慢だった自身の能力も、実は持て余しているだけだと気付き、厭うようにさえなる。

 自分のせいで他人が傷つくと、何のための能力かと吐き気さえ覚える。


 やがて彼は一人になることを選んだ。


 そんなマガミが会ったのが、まだ中学生だったハルだ。

 幽霊団地に身を隠していた彼の前に、傷だらけの小さな影はふらりと現れた。

 その場にふさわしい、ほとんど死んだような体と目をした少年は、しかしはっきりとマガミに告げた。

 『この街に復讐したい。なんでも好きなモノをやるから、手を貸せ』と。


 彼は初めて、自分と同じ種族と会った気がした。

 だから久しぶりに笑って、『あれが欲しい』と答えた。

 この街のどこからでも見える、街で一番強大だった暴力団が所有していた高層ビル、『城』を指さして。


 そして二人は『共犯者』となった。


 それと同時に、彼らは互いに『道しるべ』でもあった。

 他人が理解できない力を臆することなく受け入れ、立ち向かい、利用し、そして指さして導く。


 ハルが黒狼を離れた日、マガミにとって確かな、そして唯一の光が消えたのだった。



 歪んだハルの顔に、くっつくくらいにマガミが顔を寄せる。


「なぁ、あの時はさ。

 俺を殺そうとするヤツらの気が知れなかった。

 ガキ一匹に、何をムキになってやがんだってな。

 他にやることがあるじゃねぇかってよ」


 ハルの首に掛けた手に、さらに力がこもる。

 ハルの顔が歪むが、それ以上にマガミの顔も歪んでいた。


「今なら分かるぜ。

 お前の力は誰より俺が知っている。

 それをおいそれと他人には明け渡せねぇ。

 お前の力を他の人間に使わせるわけにはいかねえ。


 ……だがな。

 だがなにより、他の場所で俺以外のヤツに、お前の時間を、お前の行動を共有させてるっつぅのがな、どうしても俺は許せねぇ」


 それは友人や仲間へというよりも、まるで親に向けるかのような歪んだ執着心だった。

 マガミの髪を伝った雨が、呼吸の出来ないハルの鼻先に落ちる。

 まるで泣いているかのようだ、と霞んでいく目でハルは笑いながら泣くような歪んだ表情を見る。


 首を絞める手はさらに力が強くなる。

 もはや絞めるという段階ですらない。

 首ごと握りつぶされるのも時間の問題だろう。


 あぁ、これは駄目かな。

 ハルは自分でも意外なくらい冷静に死を覚悟していた。


 言いたいことは山ほどあった。

 だが、まぁ、これで終わりだというなら、それもありだろうか。

 そんな考えがふとハルの頭をよぎる。

 生きている限り、自分にはやらねばならないことがある。

 だが、それも生きている限り、だ。


 おそらく自分の全てに引導を渡すのは、目の前の男だと、出会った時からうっすらと考えていた。

 だからこそ、そんな彼が欲しかったのだ。


「誰かにやるっつぅならよ。

 お前をこのまま離すくれぇだったらよ。


 俺が、このまま…………」


 首にかかる力が更に強くなり、マガミの眼が一層目が開く。


 が、


「!?」


 雨の音に紛れて、どこかで鈍く重い何かが落ちる音がハルの耳にかすかに聞こえた。


 彼は不自然に言葉を切ったまま、その体勢で停止する。

 次の瞬間。


「か、は……っ!」


 どしゃ、と突如マガミの大きな身体が崩れ落ち、雨が溜まったコンクリートに沈む。

 マガミの手から開放されたハルの喉が、悲鳴を上げるように音を鳴らして酸素を吸い込む。


 手を離され、マガミと同時に地面に落ちたハルの手元には、血で濡れたブロックの塊と衝撃で飛んだマガミの銀縁メガネが落ちている。

 角が赤く染まったブロックはおそらく、造りかけの塀の傍に落ちていたものだろう。

 つまり、この石の塊がマガミの頭を直撃したおかげで、ハルは助かったのだ。


 だがなぜ。


 ヒューヒューとなる喉を抑えて、ハルが現状を把握しようと息を大きく吸う。

 力を入れて覆いかぶさるような重いマガミの体を除け、涙と雨で滲む目を凝らす。


 そして、そこに予想だにしなかった人物がいることに、目を見開いて驚愕する。



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