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一通り写真を撮ったあと、ハルは壁と電柱の間の隙間から大きな通りを窺う。
ゴミ捨て場の建物と大きな通りの前に立てられた電柱の向こうで、どこかしょげたようなアキの姿が目に入る。
「どうかしたのか?」
声をかけてみると、アキは主人に呼ばれた犬みたいに、ぱっと顔を上げてこちらを見る。
が、どうやら彼の方からはハルは影になって見えていないようだ。
アキは一度俯くと、少し言いにくそうに顔を少し上げる。
「なぁハル。俺って、役立たず?」
「は?」
思ってもみなかった返事に、ハルが変な声をだす。
「根暗オタクはネット関係とかコンピュータに詳しいじゃん。
クリスも街中のカメラをハッキングして、色んなものを監視できるじゃん。
リサだって病院の情報探ったり、治療したり、変な爆弾作ったりできるじゃん。
あいつらはあいつらにしか出来ねぇことやってんのに、俺って何の役にも立ってねぇじゃんって……」
かつて獅子と比喩されるほどに恐れられた男が道端で凹む姿を、珍しいものを見たと言わんばかりにハルが写真に取る。
特に事件には関係ないのだが。
何だかんだで一番繊細なんだよな、アキは。と、聞こえないようにハルは呟く。
「情報収集とか頑張ってくれているだろ。
あと脅したり走ったり、俺を抜かせば唯一の肉体労働担当じゃないか」
「俺がどんなに強くなったって、お前には敵わないじゃん。
ていうか俺ができることなんて、お前が全部簡単完璧にできることばっかりじゃん。
俺って必要なくない?」
完全に拗ねているらしい。
そのうち座りだして人差し指でのの字でも書き出さないか不安になるほどに。
ただでさえ目立つ様相をしているのに、そんなことをされたら目立つどころじゃない。
(嫌なら降りればいいのに。……って言ったら、泣き出すかな)
ハルはこめかみを軽く抑えてため息をつく。
リッパーズ・ストリートでハルのために動く人間が、アキを始めとして数人いる。
だが、どこぞのギャングのように、規律や規則のようなものはほとんど存在しない。
働きたいというから、ハルが勝手に役割を振って使っている。
だから誰かが降りたとしても、それを責める気はまるで無い。
そもそも手を貸されること自体、ハルにとっては不本意なのだ。
自分のしていることに他人を巻き込みたくはなかった。
それでも行動を共にするのを許しているのは、そうしなければ彼らが、最悪死を選ぶ可能性があるからである。
誰からも見捨てられた絶望の淵から、ほんの僅か離れた場所に彼らは立っている。
いや、ハルを追いかけ、追いすがるようにして、やっとそこまで戻ることができたのだ。
本当ならば、この役はもっと『別の誰か』がすべきなのだろうと、ハル自身は思っている。
だがその『別の誰か』は、そう簡単には現れない。
ハル自身、そうであるように。
「もしも降りねばならない事態になったら、迷わずこちらを切り捨てろ」と、強制したことといえば唯一このことくらいだ。
彼らは様々な事件でハルと出会い、そして彼の目的のために行動を共にしている。
ただひとつの秘密を共有しながら。
ともかく、だからといってこちらから降りろ、と言うのはその気がなくとも戦力外通告になりかねず、今のアキに言うのは逆の方向に効果が強そうだ。
「じゃ、ちょっと頭脳労働してみるか? こっちに来い」
ハルはカメラをパーカーのポケットに押しこむと、アキを電柱の影から呼ぶ。
少しの間答えが返って来なかったことに不安を覚えたのか、アキは言われると顔を上げてすぐにハルの前に姿を表した。
「なになに?」
「ここが第二問目の答え」
ハルが長い裾で隠れた手の甲で、彼の背の丈より少し高めに書かれたコードをこんこんと叩く。
そこには[2930194809]という数字が羅列している。
「おー」
「で、この場所で『Ripper』による第二の切り裂き事件が起こった」
「ふむふむ」
次に裾から出た白い指先でハルが自身の足元を指し示す。
アキはそれを追って地面に視線を落とした。
「今までの情報と、ここに来て分かった情報を組み合わせてみろ。
どうだ、色々面白い事が分かっただろ?」
「え? えぇ?」
たったそれだけの情報で何がどう分かったというのか、アキは再び疑問符を頭に浮かべる。
ハルがそれを見て、電柱の前から一歩後ろに下がる。
どうやらそこに立て、ということらしい。
その意図通り、アキが電柱の前に立ってみる。
完全に大きな道から死角となった場所だが、こちらからは向こう側を窺うことは出来る。
電柱にも目をやってみる。
誰かに言われなければ、まずこんな場所は見ないだろう。
そんな場所に、薄くボールペンでコードが書かれている。
だがそれだけだ。
「なら、あと三つヒント。
まず一つ、今までのコードハント開始から終了までの平均時間は、およそ一ヶ月」
アキの後ろから、ハルの声が聞こえる。
「そして二つ目。
コードハントの問題数は多くて十五問。
平均大体で十問前後。
……さて、分かったか?」
「え、えぇ? それだけ?」
片手で額を抑えながらアキが呻く。
「えーと、問題数と場所と、あとえーと、なんだっけ……」
ヒントを聞いたせいで、ますます訳が分からなくなったらしい。
唸ったまま電柱に頭を押し付けているアキを見て、ハルが彼に気づかれない程度にわずかに動く。
「ヒント三つ目。
これは体感してみるか?」
「は? ……うわっ!!」
ハルの声とともに、アキの右肩がいきなり後ろに強く引っ張られる。
なんだ、という言葉を出すより先に、背中に鋭い衝撃が走り、息が詰まる。
考え事をしていたアキはバランスを崩してその力に逆らえず、そのまま壁に叩き付けられたようだ。
「ぐぅっ!!」
アキは反射的に手が出そうになるが、いつの間にか抜かれた自分の警棒を直角に喉を強く押し付けられ、出しかけた手はそれを外そうともがく。
しかしその行動は、独特の重さを持つハルの声に縛られた。
「動くんじゃねぇ。喉潰れるぞ」
警棒の下から覗いた、奥の深い瞳がアキの視線を捉える。
まるで無駄のない動きで、ハルは自分より大きなアキを警棒一本で壁に押さえつける。
何かを問いかけようとしたが、警棒を押し付けられたアキの喉から出てきたのは、ただの唸り声だった。
まさかハルが本気で殺しにかかるとは思っていない。
だが、アキの眼の前にある、何も語らないハルの視線が体を硬直させる。
手がしびれたかのように、力が入らなかった。
警棒自体にそれほど力は入っていないようだが、急所を捉えているのか上手い具合に気道を塞がれ、息を吸うことも出来なかった。
「かはっ!」
不意に力が抜かれたかと思うと、間髪入れずに襟元をぐいっとひっぱられ、アキは地面に引きずり倒される。
受け身はとれたもの、急に肺に入ってきた空気で思わず咳き込む。
アキは地面に這うような格好で片手を地面に、片手を喉に当てて、しばらく息を整える。
生理的な涙が一滴パタッと地面を濡らす。
「ほら」
だいぶ息が整ってきた頃、アキの頭上からハルの声が聞こえる。
アキは体を反転させて地面に座り直して涙目を向けると、そこにはなぜか数枚の紙幣を指の間に挟んだ友人が見える。
「お前にしては結構持っているな、今日は。一万五千円か」
「え? あれ!?」
その言葉に、アキがポケットに入れてあった財布を開く。
入れてあった一万円札一枚、千円札五枚が、札入れからごっそり消えていた。
「どうだ? なにか分かったか?」
細い指の間で紙幣が揺れているのを見て、アキが眉を寄せる。
どうやらハルは、片手で警棒を使ってアキの体を固定し、それに注意がいっている隙に、もう片方の手で財布から紙幣をスリ取ったらしい。
「えっと……なんか、お前の仲間になった時のことを思い出した」
ハルの問いに、まるで走馬灯でも見たかのように、ぼうっとしながらアキが答える。
「……あ?」
まるで見当違いな答えに、ハルが一拍置いてから聞き返す。
「あの時も俺、自分の警棒でお前に殺されかけたんだよな、って」
「……あれ、もしかして根に持ってる?」
顔はそのままだが、若干バツの悪そうな声がハルから漏れる。
どうやら二人が仲間になった経緯は、それほど穏やかではなかったらしい。
「いや、それはねぇけど。
なんか、懐かしい気持ちに……はは、あの時から俺、お前に頼りっぱなしだよなぁ」
(……打ちどころ悪かったかな)
半殺しにされた過去でさえ、彼の中では良い思い出の類に入っているのだろうか。
涙目のままふっと遠い目をして感傷に浸るアキを見て、苦笑を噛み殺しつつも少し反省するハル。
「いや、あのな。そこまで遡らなくてもいいから。
今回の事件について、分かったことで頼む」
額を抑えながら、ハルがもう一度問うてみる。
「……もしかしたら、お前が俺のこと、嫌いかもしれないと思った」
あまりに役に立たないからシメられたとでも思ったのか、しょぼんとしながらアキが再び見当違いな答えを返すと、一瞬きょとんとハルが目を丸くしてため息をつく。
「馬鹿、違うよ。仕方ないな、もう」
ハルは背を向けていた壁にもたれかかって肩をすくめる。
「やっぱりお前に頭脳労働は無理だな。
こういう時は諦めが肝心だ。
諦めろ。逆に迷惑。頼むから勘弁してくれ」
「うぐっ」
ハルが見下したまま断言する。
壁を背にしたまま、アキの目線までハルがずるっとしゃがみ込む。
どうやら彼のために、ここまでの推理を聞かせてくれるようだ。




