第9話 明くる朝に、ただ泉のごとく
彩霞が朗々と紡ぎ上げた真実の情景と、静蘭が躍動させた書を前に、大広間全体が息を呑む静寂に包まれていた。
金糸を織り込んだ龍袍を纏い、精巧な彫刻が施された玉座に君臨する光真帝は、呆然と紙上の書を見つめていた。
(……そうだ。そうだったのだ。)
帝の目から、ひと筋の熱い涙が零れ落ち、黒檀の床へと滴り落ちた。
脳裏に鮮やかに蘇ったのは、三拾数年もの昔の、痛ましくも愛おしい記憶。
――かつて、先代・清雅帝の御世。
宮廷は美と芸術に溺れるあまり歪みきり、詩歌や書は純粋な芸術ではなく、派閥抗争の道具や権力者に与する政治パフォーマンスとして消費されていた。
当時、まだ幼名・暁(と呼ばれていた若き日の帝は、朝の庭園で目にした圧倒的な朝焼けに心を震わせ、純粋な歓喜のままにあの詩を紡いだのだった。
だが、幼き皇子の傑出しすぎた詩才に目をつけたのは、先代の側近や野心を抱く貴族たちだった。
「この詩を皇帝陛下への献上歌とし、我が派閥の忠誠の証としよう」
「皇子の名でこの詩を広めれば、我らの政敵を言葉の刃で追い落とせる」
朝焼けの美しさに純粋に感動しただけの幼い歌は、瞬く間に大人たちの薄汚い欲望に引きちぎられ、権力争いの道具として歪められていった。自分の紡いだ言葉が、誰かを追い詰め、誰かを傷つける刃に変えられていく恐怖。
「……やめてくれ。言葉を、私の歌を、そんなことに使わないでくれ!」
叫んでも、政争に必死だった大人たちは、無邪気な子供の心にまで気が回らなかった。
追い詰められた幼き日の光真帝は、夜陰に紛れて一人、宮廷の記録庫へと忍び込んだ。
知識を守る古参の職人に、涙を隠しながら命令したのだ。
「私の名前を、この詩からすべて消してほしい。この詩から私の名を奪い、ただの『作者不明の景色を詠んだ歌』にしてくれ。……言葉を政治の道具にさせないために」
職人は涙を呑み、幼い皇子のあまりに悲痛な命令に応えた。
ページを乱暴に破り捨てるのではない。皇子の紡いだ純粋な言葉、そのものへ敬意を払い、職人の刃で、一字一字丁寧に、名前の痕跡だけを綺麗に削り落としたのだった。
――誰のものでもない、ただの美しい朝焼けの歌として残すために。
(朕は……己の手で名を消すことで、あの歌を守ったつもりでいた。だが、いつしか美そのものを恐れ、言葉を遠ざけるようになってしまっていたのだな。今思えば、なんて愚かだったことか……)
言葉を政治の道具にさせないために、自ら歴史から消した自作の歌。
それが今、三拾数年の時を経て、二人の少女のやさしい言い換えと圧倒的な書によって、誰かを脅かす呪いなどではなく、すべての人を包み込む光として、完全に救い出されたのだ。
長安皇子は、袖の中で握りしめていたシワだらけの紙をゆっくりと手放した。先代の影や美の呪いに怯える必要など、どこにもなかったのだ。父が守ろうとしたのは、ただの美しい心だったのだから。
「……見事だ。実に見事である」
皇帝の言葉に、ひれ伏していた静蘭たちがゆっくりと顔を上げる。帝は震える声で呟いた。
「朕は美を恐れるあまり、言葉を遠ざけようとしていた。だが……言葉は毒ではない。正しく解釈し、正しく想いを乗せて届ければ、これほどまでに人の心を救う光となるのだな。これにて退朝!」
帝、玉座の前に立ち、静蘭たちを見下ろす。その声には深い慈悲と称賛がこもっている。
帝は、奥の宮殿へと歩き出す。それを見て司令監は一歩前に出て、全体に響き渡る声で叫ぶ。
「これにて退朝——!」
百官が一斉に伏服し、「わが帝、万歳、万歳、万々歳!」「わが帝、万歳、万歳、万々歳!」と繰り返し称賛した。
静蘭の父・鎮安侯も、彩霞の父・崇文侯も、長年対立してきた互いの顔を見合わせ、深く深く頷き合っていた。
数日後。
延期されることなく「国の大祭」が厳かに執り行われていた。
無駄遣いを省き、民の暮らしを守る実務によって整えられた美しい祭壇。その中央には、静蘭と彩霞が共作した力強い「朝焼けの書」が掲げられていた。その横には、六人が導き出したやさい言葉が添えられていた。
民衆はその書とやさしい言葉を仰ぎ見、恐れることなく、新しき時代への祈りを捧げている。
宮廷の回廊からその光景を見下ろしていたのは、長楽公主と長安皇子であった。
「見事なものね」
長楽公主が晴れやかな笑顔で呟く。
「抑える派こと実務派の正しさと、推す派こと芸術派の美しさ。どちらか一方を排除するのではなく、互いを高め合って『新しい言葉』を生み出す……これこそが、この国が進むべき道だわ」
「まあ、見てください。この桃の花、あなたの瞳と同じくらい綺麗に咲いていますよ。ねえ長安、最近は書庫にばかり籠もっていないで、たまには私とこうしてお茶でも飲みましょう」
「まったく、姉上は相変わらずですね。父上より、姉上の方がよっぽど厳しい小言を言うんですよ」
「ふふっ、将来を心配しての言葉です。ほら、特製の茶菓子を用意しましたから、これを食べて頭を休めてください」
長安皇子もまた、先代の影から解き放たれたように、穏やかな表情で頷いていた。
大祭の賑わいから少し離れた宮廷の中庭。
そこには、今回の騒動を共に駆け抜けた少女たちが集まっていた。
「相変わらず、型破りで生意気な書を書くのね、あなたは」
彩霞がフンと鼻を鳴らす。だが、その瞳には誇らしさが満ちていた。
「彩霞のあの言葉の言い換えがなければ、私の書もただの墨の塊でしたわ。あなたこそ、最高の詩人ですこと」
静蘭が微笑むと、二人を囲むように知古、恪礼、如意、知微も柔らかく笑い合った。
立場や役割は違っても、彼女たちの魂は固く結ばれていた。
そこへ長楽公主が、長安皇子を伴って静かに歩み寄ってきた。
「そなたたち全員に、話しがある」
公主は一人ひとりの顔をまっすぐに見つめた。
「歴史を読み解く知古。法と論理を司る恪礼。市井の風を届ける如意。実務を支える知微《ちび》。そして、想いを言葉となす彩霞と、それを形にする静蘭……」
長楽公主は優しく、しかし確固たる意志を込めて告げた。
「この朝廷を立て直すには、そなたたちのような型破りな知恵が必要なの。私のブレーンとして、時には遠慮なく苦言を呈してほしい。官位は変わらないが私と共に、新しい時代の礎を築く手伝いをしてくれないかしら?」
「殿下、身に余る光栄なお言葉、まことにありがとうございます。……ですが、わたくしには、すでに崇文侯――父のブレーンという役目がございます。両方に軸足を置いては、どちらにも真心を尽くせなくなってしまいますわ」
「彩霞……」
静蘭が、思わずその名を呼ぶ。彩霞は、静蘭へとまっすぐ向き直った。
「そんな顔をなさらないで、静蘭。……わたくしがどちらの陣営にいようとも、私たちの結びつきが変わることなど、決してございませんもの」
「ええ、彩霞。……あなたの言う通りだわ」
静蘭は、静かに微笑み返した。
「立場が違っても、私たちの魂は、これからも重なり続けるのですものね」
「ふふ、分かっているじゃない」
彩霞が、いつものように、悪戯っぽく笑った。
長楽公主も長安皇子と共にまた、その様子を、優しい眼差しで見守っていた。
「そう。……ならば、彩霞。そなたとは、これからも、立場を越えて、力を貸し借りする間柄でいましょう」
「はい、殿下。喜んで」
彩霞が、深く一礼する。
そして、静蘭が代表して答えた。
「恐れながら申し上げます。姫様の描く未来、この眼で見てみたくなりました。お供いたします」
全員の重ねあわせた声が、新しき朝の光が満ちる青空へと、どこまでも高く溶けていった。
「「「「喜んで、殿下。」」」」




