第2話 予兆
「皆様、筆を止め、しばし耳を傾けてくだされ」
突然、主催者である鎮安侯――静蘭の父親の声が響き、にぎやかだった庭園が水を打ったように静まり返った。
「本日の詩会にあたり、我が邸にまことに畏き賓客をお迎えすることができた。
皆様ご承知の通り、光真帝の系譜を引く、慈愛深き長楽公主殿下であらせられる。
本日は特別に、我々が紡ぐ雅な集いへ、その身を運んでくださった」
侯爵の言葉に合わせて、一斉に平伏する貴族たち。
「公主殿下、どうぞ皆の前へお進みください」
その間を通り抜けるようにして、一人の若きお姫様が現れた。
肩を覆う半臂には星屑を散りばめたような細工がなされ、気品と可憐さを同時に引き立てている。
胸元を彩る牡丹の花を思わせる、鮮烈な真紅と漆黒の対比が目を引く豪奢な大袖の衣装を纏っている。贅沢な金糸で大輪の花々が刺繍された襟元は、公主の毅然とした美しい首筋をいっそう際立たせていた。牡丹の文様は、熟練の職人がひと針ひと針縫い上げた金糸。歩くたびに微かな光を放ち、その神々しさに誰もが息を呑む。
艶やかな黒髪は高く結い上げられ、顔立ちの美しさを際立たせている。眉間を飾る花鈿は、希少なカワセミの羽と純金を重ねた鳳凰の紋様。吸い込まれるような青緑の色彩が、彼女の冷徹なまでの美貌をいっそう引き立て、まるで春の女神が舞い降りたかのような艶やかさだ。
宮廷の中で、若くして強い発言力を持っている公主。今日は侯爵からの度重なる熱心な招きに応じる形で、この場に足を運んでいた。
「本日は美しい詩歌の数々、誠に楽しませていただきました。侯爵が催されるこの宴は、いつも東風の如く心地よろしゅうございますね。皆さまの紡ぐ言葉には、宮廷の庭園に咲く花々よりも鮮やかな情景が浮かびます。引き続き、素晴らしいひとときをご一緒させていただけますと幸いです」
鈴が転がるような美しい声で皆に挨拶を済ませた公主は、そのまま、人だかりができていた文机へと歩み寄った。
そこにあったのは、先ほど静蘭とライバルの彩霞が完成させた、あの詩と書が重なった一枚の紙だ。
公主はその作品を、しばらく静かに見つめていた。
その横顔を隣でじっと見守る静蘭の胸に、小さな緊張が走る。
やがて公主は、優しく、けれどどこか寂しさを含んだ声で語りかけた。
「……見事なものですね。清雅帝がまだ健やかであられた頃も、こうして若い才ある者たちが、美しい言葉の花を咲かせていたと聞き及んでいます」
公主の瞳に、ふっと冷たい影がよぎった。
柔らかな微笑みをたたえた唇とは裏腹に、その瞳の奥からだけ、すっと温もりが消え去っていく。まるで春の日差しを一切跳ね返す、底知れない深淵のような冷たさだった。
「けれど……その美しさへの想いが行き過ぎてしまったことが、今のこの宮廷を引き裂く、争いの種になってしまいました。美しいものは、時として、毒にもなるのですね」
ハッとして、静蘭と彩霞は思わず顔を上げた。
公主はそんな二人の様子を見て微笑みながら、そっと二人の手を引き寄せ、重ね合わせた。重なった彩霞の指先は、驚くほど冷たく、けれどかすかに震えていた。
「あなたたちの筆が、この国を照らす光になるのか。それとも、かつてのように、この国を惑わせる引き金になってしまうのか……わたくしは、楽しみに見ていますよ」
それだけを告げると、公主はしなやかに背を向けた。
息を呑む貴族たちが作る道を、絢爛な衣装の裾を静かに引いて歩み去っていく。振り返ることもないその凛とした後姿と、衣が擦れるかすかな音だけが、庭園の静寂を静かに支配していた。
残された静蘭は、重なっていた手を、ゆっくりと離した。
彩霞もまた、何かを堪えるように自分の手を強く握りしめている。
――彼女も、きっと同じことを感じているのかもしれない。
そう思うと、静蘭の胸に、言葉にできない親しみのようなものが、静かに広がった。
やがて緑豊かな庭に、いつもの和やかな賑わいが戻ってきた。
扇子の陰で誰かが小さく笑い、極上の茶の香りを勧め合う声が響く。その心地よい空気のなか、少し離れた場所に集う貴族たちの、こんな世間話がふいに耳に届いた。
「そういえば、近頃、都で妙な詩が流行っているそうですよ」
「ほう、それはまた……はてさて、どんな詩なのやら」
「晩生にも教示くだされ」
「なんでも、『光真尽』だの『血』だのとおどろおどろしい言葉が並んでいるとか……」
深い意味などなさそうな、軽い調子の会話。静蘭はそれを、特に気に留めることもなく聞き流したはずだった。
だが――なぜか脳裏から離れない。
(『光真』……現皇帝ご自身のお名前が、『尽きる』ですと……?)
言葉そのものの異様さもさることながら、書を嗜む者としての本能が、静かに警鐘を鳴らしていた。もしそれが単なる戯れ言ではなく、誰かの手によって紙の上に「書かれた」ものなのだとしたら。どんな墨で、どのような歪んだ筆圧によって叩きつけられた文字なのか――。
一筆の滑りや掠れの中に潜む狂気の気配が、肌を刺すような寒気となって静蘭の背を駆け抜けた。
ふと強い視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所に立つ父である鎮安侯と目が合った。
鎮安侯はいつもの厳めしい顔のまま、鉄のように硬い口元を、ほんの一筋だけ和らげている。
だがその眼差しには、我が子への密かな誇りと共に、これから静蘭を待ち受けるであろう過酷な運命を懸念するような、重い影が落ちていた。
父は一瞬だけ深く眉根を寄せると、静かに目を逸らし、他の客人たちのほうへと向き直った。
(父様……? 何か、懸念があるのですか……?)
胸の奥で、言葉にならないざわめきが冷たく広がっていく。
庭園の向こうでは、まだ冷たさを残す春の浅い風に誘われて、白木蓮の白い花びらが一枚、また一枚と、名残惜しそうに静かに地面へ落ちていく。その潔い白の落花は、まるで先ほどまでの美しい書の余白に、そっと添えられた最後の点画のようであった。
澄み切った水面に一滴の濁った墨が落ち、静かに滲んでいくかのように――。
これから起こるただならぬ出来事の気配が、人々の笑い声の裏側で、ゆっくりと宮廷を蝕み始めていた。




