第1話 重なる筆
春はまだ浅く、庭の白木蓮が、ようやくほころび始めた頃だった。
鎮安侯爵邸で開かれた、今年はじめての詩会。
文机には墨と硯が並び、集まった貴族たちの衣擦れの音が、楽しげな笑い声に混じって静かに響いていた。
詩会は、詩歌を創作し、節をつけて声高く吟じる朗詠をして互いに鑑賞や批評を行う集まりで、先代の第六代帝である清雅帝のころから宮廷や貴族、知識人たちの間で盛んに行われていた。
鎮安侯の娘である白静蘭は筆を持つ手を止め、隣に座る娘の横顔を、そっと盗み見た。
父たちが政敵と呼び、顔を合わせるたびに鋭い言葉をぶつけ合っている、あの家の娘――ライバルの朱彩霞だった。
ほんの少し前まで、二人は父親たち、抑える派の鎮安侯と推す派の崇文侯の立場をめぐって、静かに、けれど熱く言い合っていたのだ。
「我が国の予算を、これ以上、古い書物の修復や絵画の買い付けに使うべきではありません。
今すべきなのは、飢えている地方の民を救うための実務的な施策なのです」
静蘭が冷静に告げると、彩霞はふっと細い眉をひそめて反論した。
「お腹が満たされるだけで、そこに美しき煌めきなき国など、ただ形骸として息を繋ぐ泥人形に過ぎませんわ。私たちが今、この手で育んでいるのは——何千年の星霜を経ようとも決して色褪せず、この国の誉れとなり続ける不滅の魂なのです」
お互いに譲らない、冷たく、けれど熱い火花。
それなのに、いざ詩会というひとつの盤面に向き合った瞬間、二人の間に不思議な変化が起きたのだ。
本日のお題は「春の兆し」。
彩霞がすらすらと書き連ねたのは、冬の冷たい氷が、あたたかな春の光によって優しく溶かされ、やがてさらさらと川へ流れ出していく情景を歌った、とても瑞々しい詩だった。
――その詩に引き寄せられるように、静蘭の指先が動く。
普段、父の教えに従って書く文字は、国を治めるための四角くて硬い、力強い文字だ。
けれど、彩霞の詠んだ言葉に触れた瞬間、静蘭が操る筆先は、まるで春の陽光を浴びた氷が淡く解けゆくかのように、しなやかで、どこまでも優しい軌跡を描いていた。一文字ごとに、侯爵令嬢・静蘭の指先から凛とした春風が吹き抜けるかのような、見事な筆運びであった。
筆を置いた瞬間、机を囲む人々がどよめいた。
彩霞が詠んだ美しい詩に、静蘭の書いた優美で流麗な文字が重なった一枚の紙。
それはまるで、はじめから一つの同じ心が生み出した、完璧な美術品のように見えたのだ。
対立し合っていたはずの二人の呼吸が、白い紙の上で完全に重なり合っていた。
「……悔しいけれど、やっぱりあなたの字は繊細でうっとりするほど綺麗ね」
彩霞が、ふっと笑った。
皮肉のようでいて、どこか自分の詩を最高に輝かせてもらったことを喜ぶような、愛らしい笑みだった。
まわりの貴族たちは、「抑える派の娘と、推す派の娘が、こんなに美しいものを一緒に作るなんて」と、口々にささやき合っている。見る者には息をのませるほどの芸術そのものであった。
二人は何も言わず、ただ静かに視線を交わした。
詩会の輪から少し離れた場所で、蘇如意は、白檀の香る扇子をそっと口元に添え、その陰で、彼女は春の陽だまりのような笑みを浮かべていた。
政治の話になるとすぐに火花を散らす静蘭と彩霞が、筆を持った途端に、世界で一番息の合った二人になるのを、如意はもう何度も見てきたからだ。
「相変わらず、型破りで生意気な書を書くのね、あなたは」
彩霞がフンと鼻を鳴らす。だが、その瞳には誇らしさが満ちていた。
「彩霞のあの言葉の言い換えがなければ、私の書もただの墨の塊でしたわ。あなたこそ、最高の詩人ですこと」
如意が携えてきた甘く清らかな香りが、ふわりと先立って空間を包み込む。まるでおだやかな春風を纏うかのように、彼女は二人の張り詰めた空気を解きほぐしながら、助け舟を出すかのように、そっと歩み寄った。
「今日はどちらが先に音を上げるのかしらって、思っていたけれど。お二人とも、本当に見事だったわ。
この素敵な春の詩と書を、わたしの一番いいお香の煙で、きれいに清めさせてちょうだい。
お二人の間にあるこの気持ちに、これ以上のお祝いはないものね」
如意の明るい声に、立ち上る甘く清らかな香りが重なり、張り詰めていた二人の肩から、すっと力が抜けていった。
「……ちょっと如意、お祝いだなんて気が早いですわ。音を上げるだなんて、誰が言いましたの? 私はただ、この型にはまらない生意気な書を正して差し上げようとしただけですのよ」
彩霞は、照れくささを隠すようにふいと横を向き、手に持った扇子でパタパタと胸元をあおいでみせた。けれど、その瞳が誇らしげに揺れ、如意の焚いた香りを密かに愛おしそうに吸い込んでいるのを、静蘭は見逃さなかった。
「ふふ、でも彩霞。あんなに熱のこもった眼差しで私の筆を追いかけてくださったではありませんか。呼吸を合わせる音が、私には確かに聞こえましたわ」
静蘭が柔らかく微笑むと、彩霞は頬をすっと朱に染めて振り返った。
「な、何を言い出すかと思えば……! 呆れて息を呑んでいただけですわよ。勘違いしないでくださる?」
「ええ、でも、その呆れるほどの私の筆遣いを、あなたの美しい言葉が完璧に受け止めてくれたでしょう? だから私……今日はとても、心が踊りましたの」
まっすぐに自分を認め、穏やかな瞳で見つめてくる静蘭に、彩霞はすっかり毒気を抜かれたように言葉を詰まらせた。
「……本当、あなたという人は。相変わらず調子が狂いますわ」
彩霞は、「ふう」、と小さく息を漏らし、呆れたように首を振ってみせた。しかし、その瞳にはすでに柔らかな光が宿っており、口元に浮かんだふっと悪戯めいた笑みが、彼女の本当の心地よさを雄弁に物語っていた。
「あらあら、また二人だけの世界に入ってしまって。わたしの尊きお香も形無しねぇ。静蘭、私のお香はどうかしら」
「ええ、如意のお香のおかげで、心までほぐれましたわ。ありがとう」
みんなが作品を囲んで盛り上がっているあいだ、静蘭は、指先についた薄い墨をじっと見つめながら、静かに思い返していた。
父の名前を出さずに、ただの「自分」としていられる場所は、この広い都の中でも、詩会だけだった。
「抑える派」だとか「推す派」だとかいう、息苦しい呼び名が消えて、ただ白い紙と、そこに新しく刻まれた黒い墨の言葉だけが、静かに残る。
(私とお父様たちの進む道は、きっと間違っていない。
けれど、あの子たちが守ろうとしているこの『美しさ』を、私は本当に、すべて切り捨ててしまって良いのだろうか……)
割り切れない思いを胸に抱きながら、静蘭の引き締まった視線の先には、完璧な一線が描かれた、凛とした文字の姿がある。胸の高鳴りをそっと抑えながら、彼女はただ、目の前にある美しい書を、壊れ物を扱うかのように愛おしそうに見つめるのだった。




