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第311話 コンマ一秒の攻防

 王立魔法学園の卒業まで、残すところあと三日となった。


 窓の外では、春を待つ柔らかな日差しが校庭を照らしているが、校舎内はどこか浮き足立ったような、それでいて寂寥感の漂う空気に包まれている。


 主要なカリキュラムはすべて修了し、もはや登校の義務はない。生徒たちに残された最後の大行事は、卒業式の夜に催されるダンスパーティーのみ。


 王家と敵対関係にある俺のような日陰者は、そんな華やかな社交の場など欠席して、自室で研究に没頭するのが常道だろう。


 だが、今回はそうもいかない理由がある。


 かつて視た『未来視』の残像。

 ダンスパーティーの最中、本来の「主人公」であるリアム王子が殺害されるという確定した破滅を分かっていながら、見過ごすわけにはいかないからだ。


「……アシュラフ、あいつはどう動くつもりだ?」


 一人、書斎で呟く。


 アシュラフは現在、便宜上は俺の使い魔という契約関係にある。

 だが、奴は純然たる魔人だ。強大な魔力と、それ以上に制御不能な自我を持っている。俺の命令に忠実に従うような殊勝なタマではないだろう。


 もし俺がリアム王子の生存に手を貸せば、あいつの予定を正面から狂わせることになる。そうなれば、これまで保ってきた危うい協力関係は崩れ、敵対関係が鮮明になることも十分に考えられた。


 その厄介な「内憂」に対処する前に、片付けておくべき「外患」がある。


 魔界の有力者であり、現時点における最大の仮想敵――

 『雷轟らいごうのヴォルテックス』の討伐だ。


 俺は自室のクローゼットから、魔導繊維で編み上げられた黒い戦闘服を取り出した。肌を滑る生地の感触が、戦いへのスイッチを強制的に入れる。腰に愛剣を差し、各種魔石の補充を確認する。


 準備は整った。


 転移先は、以前から密かにマーキングしておいたヴォルテックスの縄張り――

 魔界の上空、常に黒雲が渦巻き、雷鳴が轟く絶界だ。


「魔界へ転移すれば、すぐに殺し合いが始まるだろうな……」


 最悪の事態を想定し、奥歯を噛み締めて覚悟を決める。

 俺は空間の座標を固定し、一気に魔力を流し込んだ。



 ***


 転移した瞬間、肺に流れ込んできたのは、焼け付くようなオゾン臭と、心臓を直接握りつぶされるような重圧感だった。


 視界が開けるのと同時、脳内に埋め込まれた『危険感知』のスキルが、鼓膜を突き破らんばかりの警鐘を鳴らす。


(……来たな!)


 俺は事前に、危険感知が反応した瞬間に特定の術式が起動するよう、多重のトリガーを組んでいた。戦闘開始のコンマ数秒というラグを埋めるための、死線から学んだ知恵だ。


「メタモルフォーゼ――『タイプ・フェノメノン』」


 呟きが終わるより早く、俺の肉体は組成を根本から変質させた。


 バチバチという激しい放電と共に、俺の皮膚、血管、細胞の一つ一つが、光を飲み込む漆黒の稲妻へと書き換えられていく。


 今の俺は、もはや生物ではない。

 物理的な質量と概念的なエネルギーの狭間に位置する「現象」そのものだ。


 知覚が爆発的に拡張される。


 周囲の景色は止まったかのように緩慢になり、空気中に舞う塵の動きさえも手に取るように分かる。


 その灰色の静止した世界の中を、一条のまばゆい青白い閃光が、光速に近い速度で俺へと肉薄してくるのが見えた。


 雷轟のヴォルテックス。


 奴もまた、自身を雷へと変質させている。

 だが、奴の纏うのは自然界のそれと同じ青白い雷だ。対して、俺の全身を支配するのは、闇属性の魔力によって黒く変色した呪わしい黒雷。


 ヴォルテックスは敵意を剥き出しにし、雷撃を纏った拳をこちらへ突き出してきた。



 ***


 ドォォォォォォォォッ!!


 衝突の瞬間、本来なら音速を超える衝撃波が発生するはずだが、俺たちの意識速度においてはそれさえも遅すぎる。


 俺は黒雷の粒子を加速させ、紙一重の差でヴォルテックスの拳を回避した。

 頬のすぐ横を、太陽の表面温度に匹敵する熱量が通り抜けていく。


「――甘いな」


 回避と同時、俺は自らの右拳を敵の懐へと叩き込む。


 物理的な衝突ではない。

 雷と雷、魔力と魔力のぶつかり合い。


 だが、この攻撃には俺にしか使えない「毒」が混じっている。


 ドゴッ!!


 俺の拳がヴォルテックスの顔面にめり込む。


 雷に変身しているとはいえ、互いに「人型」という概念を維持している以上、そこには確かな衝撃が伝わる。


 光速のクロスカウンター。


 同時に、俺の体の表面を覆う『魔封印』の薄膜が、ヴォルテックスの体に触れた。


 魔封印――

 それは触れた魔法を強制的に霧散させる特殊能力。


 雷そのものとなって攻防を繰り広げるヴォルテックスにとって、それは「存在そのものを削り取られる」に等しい苦痛を意味していた。


「う、うぐぁあああああああああ!!」


 青白い電撃が、魔封印の干渉を受けて不自然にねじれ、霧散していく。


 ヴォルテックスが苦悶の叫びを上げるが、それさえも放電音に掻き消される。

 苛立ちに任せ、奴は周囲全方位に向けて、致死の雷を無差別に放電し始めた。


 だが、今の俺にとってそんな広域攻撃は「止まった矢」を避けるようなものだ。

 雷速の機動で攻撃の隙間をすり抜け、慣性の法則さえも無視して敵の背後に回り込む。人間には不可能な、文字通り「電光石火」の移動。


 死角。

 俺は腰の剣を抜き放ち、さらに『加速魔法』を重ねがけした。


 漆黒の魔力を纏わせた刃が、雷を帯びて青く輝くヴォルテックスの胴体を、一文字に両断する。


「終わりだ、ヴォルテックス」


 黒雷の刃が、敵の身体を正確に切り刻む。

 コンマ一秒の間に、千を超える斬撃が奴の体をバラバラに解体した。



 **


 十分な距離を取ったところで、俺は『加速魔法』と『メタモルフォーゼ』を解除した。


 全身の細胞にズシリとした疲労感が戻り、視界が通常の時間感覚へと収束していく。


 実時間にして、わずかコンマ一秒。

 瞬きをする暇さえない刹那の間で、決着はついていた。


 ――ドゴォォォォォォォォン!!


 一呼吸遅れて、空間を揺るがす凄まじい轟音が響き渡った。


 俺に切り刻まれ、構造を維持できなくなったヴォルテックスの身体が、蓄えていた莫大な魔力を一気に暴走させたのだ。


 周囲の空間は白一色の放電現象で埋め尽くされ、山一つを消し飛ばさんばかりのエネルギーが四散していく。


 だが、その嵐の中に、もはや魔人の気配はない。

 俺を焼き殺そうとしていたあの圧倒的な殺意も、傲慢な雷鳴も、すべては虚空へと霧散した。


 後には、焦げた空気の匂いと、俺の荒い呼吸の音だけが残されている。


「……ふぅ。これで、一つは片付いたか」


 雷の魔人、討伐完了。

 だが、胸の動悸は収まらない。


 卒業式まで、あと三日。

 真の戦いは、これから始まるのだと、静まり返った魔界の空が告げているようだった。

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