第295話 獣の蹂躙
重厚な城門が地響きを立てて開き、私たちは城から出て北上した。
朝霧の立ち込める平原。
そこに5000の討伐軍が、敵を迎え撃つために整然と布陣する。
朝日を弾く無数の槍の穂先と、重装歩兵たちが打ち鳴らす盾の音が、我が軍の圧倒的な規律と威容を示していた。
獣人共も、こちらの整然とした動きに気が付いたようだ。
平原の向こう、地平線の彼方に蠢く黒い影の群れが、ピタリと動きを止めたのが見えた。
「ぐぉおおおおおおおお!」
突如、大気をビリビリと震わせる凄まじい咆哮が轟いた。
獣たちの頂点に立つ、獅子王ソル・レオン・セクレッドの咆哮だ。
腹の底、いや、内臓を直接鷲掴みにされるような物理的な震動を伴うその声に、兵士たちの間にわずかな動揺が走る。
それに呼応するように、敵部隊が四方八方から続々と集まってきた。
時間が経つごとに、視界を埋め尽くす敵の数が増える。
奴らは各地を襲撃していた手勢を一つの場所に集めて、我々との決戦に備えているのだ。
土煙が舞い上がり、獣特有の生臭い体臭が風に乗って鼻腔を突き刺す。
「閣下。敵の体制が整う前に、先制攻撃を仕掛けては?」
緊張に顔を強張らせた側近からの、戦術的に見ればもっともな提案だった。
「それも考えたが、敵の機動力と攻撃力は相当なものだ。こちらから不用意に攻めれば、陣形が伸び、各個撃破されるだろう。しっかりと守りを固めて迎え撃つ」
私は完璧な防御陣形を見渡しながら、余裕の笑みを浮かべて続けた。
「――それに、敵をこうして一カ所に集めてくれた方が都合がいい。わざわざ我々が広大な平原を探して回る手間が省けるというものだ」
それが、傲慢からくる致命的な判断ミスであったことに、この時の私はまだ気づいていなかった。
***
やがて、完全に集結を終えた敵軍が動き出した。
信じがたい光景だった。
獣人共が続々と、その内に秘めた本性を解放し、「獣化形態」を取るのだ。
バキバキと骨が軋み、筋肉が異常に膨張し、皮膚を突き破るように獣毛がびっしりと生え揃っていく。
オオカミの群れ、豹の群れ、サイの群れ、象の群れ、そして――
後方に控える獅子の群れ。
獣化したサイズは、個体差が激しくある。
特に、それぞれの部族の長ともなれば、元は人のサイズであったはずの肉体が、見上げるような数メートルの巨体へと変貌する。
その巨大な一体を倒すだけでも一苦労なのだが、あろうことか、それぞれが統率された「群れ」を率いている。
剥き出しの牙から粘り気のある涎が滴り落ち、無数の獣の眼光がこちらを射抜いていた。
(……こうしてみると、やはり戦うべきではなかったと思わされる)
冷や汗が背筋を伝い、膝が微かに震えるのを感じた。
私は甲冑の重みを利用して、必死にその本能的な震えを押し殺す。
謁見の間で漆黒の魔剣士が口にした警告が、呪いのように脳裏を掠めた。
だが、ここで領主である私が引くわけにはいかん。我らのこの戦いに、帝国の存亡がかかっているのだ。
我が軍は強固な防御陣形で待ち構えている。
盾を構え、槍の垣根を作り、魔法の詠唱を終えた魔導士たちが息を潜めている。
敵が、再び轟いた獅子王の咆哮を合図に、一斉に動いた。
ドッドッドッドッ!
すさまじい地鳴りが響く。
大地が波打つような錯覚すら覚える圧倒的な質量の突撃。
こちらも、あらかじめ用意しておいた攻撃魔法を、一斉に放った。
轟音が響き、極大の閃光が空を真っ白に焼く。
魔法の熱線と爆炎が最前線で炸裂し、両軍がついに激突した。
***
我が軍の誇る5000の兵力の中で、上級魔導士は300。さらに、実戦で魔法攻撃に参加できる技量のある者は1000に上る。
最初の砲撃は、実に1300名の魔導士による、規格外の先制攻撃となった。
赤、青、黄の眩い魔力の奔流が、荒れ狂う嵐となって敵軍を飲み込む。
鼓膜を破らんばかりの爆音とともに、平原は巨大な火の海と化した。
焦げた獣毛と肉の匂いが立ち込める。
それで仕留められた敵も数多くいただろう。
兵士たちの間から、勝利を確信する歓声が上がりかけた。
だが、獣人の真に厄介なところは、その異常なまでの耐久力と回復力だ。
もうもうと立ち込める爆炎と砂煙を突き破り、黒焦げになった巨獣たちが姿を現した。
彼らは直撃の攻撃に耐え、生き残った敵は、歩みを止めないまま、その焼け爛れた体を自然に癒していくのだ。
傷口からシュウシュウと白い蒸気を上げながら、瞬く間に肉が繋がり、血が止まる。悪夢のような光景だった。
「弓を射かけろ!」
恐怖に顔を引き攣らせながらも、我が軍の各部隊長が、すかさずに追撃を指示する。
ビュンッ!
という無数の弦の音とともに、敵に向かって矢が黒い雨のように降り注ぐ。
同時に、後方の魔導士部隊が、歯を食いしばって追撃の魔法攻撃を用意し、部隊ごとに間断なく放っていく。
まさに猛攻。
並の軍隊であれば、とっくに壊滅して逃げ出しているはずの弾幕だ。
しかし、そんな絶望的な砲火の中、敵部隊が信じられないスピードで突撃を再開する。
ズシン! ズシン!
大地を揺らし、分厚い装甲のような皮膚を持つサイの群れが正面から迫る。
矢と魔法を食らい、血を流して脱落する者も確かにいるが、その狂気じみた走りはまったく衰えない。
メキバキィッ!
という破砕音とともに、彼らは鋼鉄のように硬い角で、こちらの築いた防護柵を容易く破壊した。
柵が崩れた隙を突き、オオカミの群れと豹の群れが、滑り込むように集団で狩りを行う。鋭い爪と牙が兵士たちの喉笛を掻き切り、悲鳴を上げる間もなく命を刈り取っていく。
さらに、城壁のように巨大な象の群れが、槍の壁ごと重装の盾兵を紙屑のように蹴散らす。骨が砕け、肉が潰れる生々しい音が戦場を支配した。
それだけではない。
サルタイプの獣人の群れが、後方の安全な位置から、驚異的な腕力で遠距離からの投石を行う。
ヒュンッ!
と風を切る音とともに、鳥型の飛行タイプの獣人たちが、我々の頭上の空から正確に石を落としてくる。
陣形などあってないようなものだ。
統制された我が軍が、ただの野生の獣どもに、為す術もなく蹂躙される。
(まさか……よもや、ここまで圧倒的な戦力差があるとは……!)
私は血の気を失った顔で、崩壊していく戦線を見つめていた。
当然、敵の耐久力も回復力も、決して無限ではない。
倒れている者も確実にいる。
しかし、このままのペースで消耗戦を続ければ、こちらの魔力の方が間違いなく先に尽きてしまうだろう。人間の体力と魔力には明確な限界がある。
そして絶望に拍車をかけるように、これまで後方で悠然と背後に控えていた獅子の群れが、ついに本格的に参戦し、その桁違いのパワーと破壊力を見せつける。
黄金の鬣を血に染め、兵士たちをちぎっては投げるその姿は、まさに死神の化身だった。
このままここで戦っても、万に一つの勝ち目はない。
私は屈辱に唇を噛み破り、撤退し、堅牢な城での籠城をすることを考える。
(しかし……この底知れぬ力を持つ獣どもを相手に、我が城の城壁がどれほど持つというのだ……?)
私は、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのではないか。
このままでは、帝国どころか、人類は滅びるのではないか?
そんな後悔の念が、自然と湧きだしてしまった。
(……馬鹿げている)
流石にそれは極端な思考の飛躍であり、大げさなのは自分でもわかっている。
だが、目の前で繰り広げられる地獄絵図は、そう思わずにはいられない圧倒的な光景だった。
そんな拭いきれない暗い懸念を抱きながら、私は震える声で退却の銅鑼を鳴らせと命じ、這々の体で撤退作業を開始した。




