第294話 出撃前夜
(ヴァランティーヌ侯爵の視点)
「獣人族、北の国境を突破!」
その絶望的な凶報がもたらされた瞬間、私の喉の奥に、鉄錆のようなひどく苦い味が広がった。
(あと一歩……あと一歩で、領内に這い出たアイゼンバルトのネズミどもを殲滅できたというのに!)
分厚い革手袋の中で拳を強く握りしめる。
短く刈り込んだ爪が掌の肉に食い込み、鈍い痛みが走ったが、私の腹の底で煮えくり返る怒りに比べれば些末なものだった。
急ぎ居城へ戻らねばならない。
だが、ここまで連れてきた3000の精鋭部隊をすべて引き揚げるわけにはいかなかった。
忌々しいことに、狡猾なアイゼンバルト辺境伯は、いまだ数千の軍勢を国境付近の森に潜ませ、不気味な静寂を保ったまま待機させているのだ。
ここで全軍を北へ向ければ、間違いなく奴らは雪崩を打って領内へなだれ込んでくる。領内に入り込んだアイゼンバルトの手勢を完全に追い返すためにも、そして牽制のためにも、この場に戦力を残す必要があった。
「……この3000の兵はここに残す! 要塞に立て籠もり、辺境伯の軍勢を釘付けにしろ!」
血を吐くような思いで、私は指揮官たちに命じた。
仮にアイゼンバルトが大軍で攻め入ってきても、我が侯爵家が誇る3000の重装騎兵と堅牢な要塞があれば、持ち堪えることなどたやすい。
しかし、問題は北だ。
野蛮な獣人共が領内に侵入し、我が物顔で蹂躙しているとなれば、領民たちの抱く心理的不安は計り知れない。
(……「見捨てられた」という動揺が、兵士にも領民にも必ず広がる)
領民の不安は、そのまま税収の低下と反乱の火種に直結する。
なにより、事態は火急を要していた。
大軍での移動は遅い。移動速度を極限まで優先するため、私はごく少数の近衛騎兵のみを連れ、北の居城への強行軍を決行した。
泥濘を激しく蹴り上げる馬の蹄の音が、焦燥に駆られる私の心拍と重なる。
背後に残した辺境伯軍の気配が、湿った夜風とともに首筋にへばりつくようで、私はただひたすらに苛立ちを募らせながら馬を走らせた。
なんとしても、一刻も早く獣人族を押し返さねばならない。
***
居城へ帰り着いてからの数日は、まさに不眠不休の地獄だった。
報告によれば、国境を越えた獣人どもは、集落で略奪と破壊、殺戮を繰り返しながら、真っ直ぐにこの拠点のある町へと向かってきているという。
血の匂いと煙が、風に乗ってこの城にまで届くようだった。
私は血走った目で各所へ檄を飛ばし、獣人を撃退するための軍の編成を急いだ。
近隣の領主からの援軍や傭兵もかき集め、討伐軍はなんとか5000名となる見込みが立った。
獣人如きを相手に、城壁に隠れて籠城などする気は毛頭ない。
そんな弱腰を見せれば、奴らはますます図に乗るだけだ。
5000の圧倒的な武力で平野へと打って出て、一気に蹴散らしてくれる。
**
そんな出陣を明日に控えた夜。
執務室で軍議の最終確認をしていた私の元へ、一人の男が面会を求めてきた。
帝国の皇女、エリザベート姫の護衛騎士。
「漆黒の魔剣士ゼノス」を名乗る男だ。
私は眉間を揉みほぐしながら、傍らに控える側近に尋ねた。
「……どういう人物だ?」
「はっ。バルバロッサ辺境伯領で、軍でも手を焼いた制御不能の『魔法生物』を単独で討伐した実績がございます。さらに最近では、帝国東部で野盗を片っ端から討伐して回っているという、只者ではないとの噂が……」
(ふむ……実力はあるようだな)
私はあご髭を撫でながら思考を巡らせた。
姫の護衛に抜擢されるのだから、武の腕が立つのは当然だろう。
もしや、この窮地に際して、参戦の申し出にでも来たのか?
それならば、帝国で名を馳せる魔剣士の加勢は、まさに渡りに船だ。
だが、同時に嫌な予感もしていた。
あの理想主義の塊のようなエリザベート姫の使いとなると、どうせ煩わしい慈善活動や、軟弱な人道支援の一環かもしれん。
(タダより高いものはない。変な借りは作らない方が賢明か……)
警戒心を抱きつつ、私は面会に応じることにした。
***
謁見の間に現れたその男――
ゼノスは、ひどく異質な空気を纏っていた。
(なんとも、頼りないというか……胡散臭い男だ)
暗い室内の照明の中でも、彼が身に纏う漆黒の装束は、光を吸い込むような不気味な威圧感を放っていた。瞳の奥には、燃え盛る戦場を前にした焦りなど微塵もない、薄気味悪いほどの冷静さがあった。
そして、会ってみると私の懸念した通りだった。
奴の口から出たのは、我が軍への参戦の申し出ではなく……到底受け入れがたい、つまらぬ博愛主義だった。
『獣人狩りの違法化と厳重な取り締まり、そして、奴隷虐待を禁止する法制化を取り計らっていただきたい』
(……この小僧!!)
私は奥歯を噛み割らんばかりに食いしばった。
厚かましいにも程がある。たかだか一介の護衛騎士風情が、このヴァランティーヌの領地経営に口を出そうというのか。
そもそも、今回の一件はアイゼンバルトが裏で糸を引いていたとはいえ、獣人どもが日頃から我々人間を敵視し、野蛮な振る舞いをしているからこそ起きた事態だ。
それを、あろうことか「奴隷の待遇を改善しろ」だと?
甘い。
あまりにも甘っちょろい。
血と鉄の匂いも知らぬ理想主義者どもの考えることは、いつもこうだ。現実の統治という泥に塗れた仕事を知らぬ者が、安全な場所から綺麗事を押し付けてくる。
「余計なお世話だ。もうよい、お引き取り願おう!」
私は椅子から勢いよく立ち上がり、冷徹に言い放ち追い払った。
一瞬だけ、奴の放った異様なプレッシャーに気圧されそうになったが、ここで引けば領主としての威厳が地に落ちる。
(弱そうなくせに、時折、意味不明な迫力を感じる。……なんなんだ。こいつは――?)
ともかく、部外者に借りは作らん。
我が領地は、我が軍の力のみで守り抜いてみせる。
苛立ちを酒で流し込んだ私は、明日の決戦に備え、英気を養うために泥のように重い眠りについた。
***
翌朝。
凍てつくような朝の冷気が、肺の奥まで入り込んでくる。
私は重厚な銀の甲冑に身を包み、自室のバルコニーから眼下を見下ろした。
城の前庭から続く大通りには、整然と隊列を組んで討伐に向かう我が軍の姿が見える。
朝日に照らされた槍の穂先が煌めき、鎧がすれ違う金属音が心地よいリズムを刻んでいる。軍馬たちの荒々しい嘶きが、私の胸の奥にある闘争心に火をつけていく。
すでに出陣の用意は完全に整っていた。
先発部隊は、決戦の予定地に向けて、重々しい足取りで城門を出ていくところだ。
私の鼓動は、戦を前にした昂揚感でドクン、ドクンと力強く脈打っている。
肩にのしかかる甲冑の重みすら、今はひどく頼もしく感じられた。
私もすぐさまバルコニーを後にし、用意されていた軍馬に跨って戦列に加わった。
奴らは、罪なき農民を無惨に襲い、殺害し、冬を越すための食料を奪い、家屋を容赦なく破壊して回っている。
我が領土を、我が財産をここまで踏みにじった罪は、到底許されるものではない。
ふと、馬の背に揺られながら、昨日訪ねてきたあの「漆黒の魔剣士」の冷めた瞳を思い出した。
(奴の突きつけてきた、甘っちょろい理想など、この戦場では何の役にも立たないのだ)
対話で解決する?
法を整備する?
馬鹿馬鹿しい。
野蛮な獣人など、言葉の通じない獣に過ぎない。
獣というものは、力で押さえつけ、恐怖を刻み込み、鞭で激しく叩いて躾けるしかないのだ。
それが、この過酷な辺境を治めてきた私の、揺るぎない絶対の哲学である。
「全軍、前進!! 獣どもに、人間様の恐ろしさを教えてやれ!!」
私の号令に合わせ、5000の軍勢が地鳴りを上げて進軍を開始する。
我が領土を蹂躙した報いを、血の最後の一滴まで絞り出させて受けさせてやる。
私は己の勝利を微塵も疑うことなく、馬腹を強く蹴り上げた。




