第22話 婚約者の寝顔
ちゅんちゅん、ちゅんちゅん……。
窓のカーテンの隙間から差し込む朝日が、床に白い光の筋を描く。
小鳥のさえずりが、新しい朝の訪れを告げていた。
(……朝か)
俺はゆっくりと目を開ける。
そしてまず視界に飛び込んできたのは、隣で静かな寝息を立てる、美しい少女の姿だった。夜の闇の色とは違う、柔らかな光の中で見る彼女の真紅の髪は、シーツの海に溶けるように広がっている。
朝日を浴びて、その一本一本がきらきらと命を宿したように輝いていた。
普段は強い意志を宿している双眸は固く閉じられ、長いまつ毛が陶器のように滑らかな頬に、繊細な影を落としている。
微かに開かれた唇から漏れる、穏やかな寝息。
気を張っていない無防備な寝顔は驚くほど幼く、そして庇護欲をかき立てるほどに、可憐だった。
思わず指先で触れたくなる衝動を、すんでのところで押しとどめる。彼女からふわりと香る、甘い石鹸の匂いが鼻腔をくすぐった。
俺はセシリアを起こさないように、そっと息を殺してベッドから抜け出した。
ちょうどその時、寝室の扉が静かにノックされ、リーリアとミナが俺を起こすために入ってくる。
「おはようございます。あら、もう起きていらしたのですね、ご主人様」
「ああ、さっきな」
リーリアが可愛らしい笑みを浮かべつつ、尋ねた。
「それで、進捗はいかがですか?」
セシリア攻略の進み具合を聞いてきたのだ。
――こいつも随分、遠慮がなくなってきたな。
この寝室に限ってだが、専用奴隷である彼女とは親密な会話が増えた。
「夜に入るころには、とっくに陥落していた」
「まあ、やっぱり――ご主人様に攻められて、耐え抜ける女などいませんもの」
彼女はその目に悪戯っぽい光を宿して俺を持ち上げる。
う~ん。相性もあるから、そうとも言い切れないと思うのだが……。
リーリアの中で、俺の評価が高すぎる気がする。
「ねーねー、何のお話ですか?」
ミナは、大人たちの会話の含みなど全く分からない様子だ。
「ご主人様は昨夜、お楽しみだったという話ですよ」
「ふーん」
ミナの興味はベッドで眠るセシリアに向かう。
「わあ、とってもきれいな人……! ご主人様、この人が未来の奥様なんですか?」
目をキラキラさせながらベッドの上の美少女を見つめている。
憧れの眼差しだ。
俺たちがそんな他愛のないやり取りをしていると、ベッドの上で絹の擦れるような微かな音を立て、セシリアが身じろぎした。
琥珀色の光が満ちる部屋の中、深い蒼色の瞳がゆっくりと開かれる。状況を把握しようとするかのように、潤んだ瞳が数回、戸惑いがちに瞬いた。
リーリアは完璧な侍女の笑みを浮かべ、彼女に声をかけた。
「おはようございます、セシリア様。リーリアと申します。これより、ゼノス様と共に、奥様のお世話をさせていただきます。こちらにお召し物をご用意しておりますので、どうぞ」
「おく……さま……?」
セシリアは呆然とリーリアの言葉を繰り返す。その視線が俺を捉え、次いで自分が俺のベッドに寝ているという事実を認識し、そして、すべてを思い出したのだろう。
白い首筋からじわりと熱が広がるように、その肌が一気に朱に染まった。
「あ、あとで、自分で着ますからッ!!」
彼女は悲鳴に近い声を上げると、布団を頭まで深くかぶり、完全に自分の世界に閉じこもってしまった。がさがさと布団が揺れる音が、彼女の混乱を物語っている。
口の端に浮かんだ笑みを自覚しながら、俺は昨夜の勝利を反芻する。
昨夜、あれだけ俺に牙を剥き、悪態をついていたじゃじゃ馬が、今は俺から身を隠そうと必死になっている。
この上ない征服感だ。
彼女の美しい腹にはもう、俺だけの紋様が刻まれている。
銀色に淡く輝くそれは、彼女の魂が俺に屈した証。
リアムには決して与えられることのない、俺だけの聖痕だ。
魔封印という得体のしれない力を見せつけ、彼女を力で完全に圧倒した上で、俺は優しく、そして粘り強く、ベッドの上で彼女との「対話」を重ねた。
王子リアムでは決して届かなかったであろう、彼女の心の奥底――
その最も脆くて柔らかい部分に触れたのだ。
この戦いの主導権は、完全に俺が握った。
「セシリア、朝食は食べていくだろ?」
俺が布団の山に向かって声をかけると、中からくぐもった声が返ってきた。
「……え、ええ。いただくわ」
「なら、家まで送っていくよ。いや、それよりも、一緒に学校へ行くか?」
「えっ、そ、それは……」
俺の提案に、布団がもぞもぞと動く。
婚約者とはいえ、俺の屋敷から一緒に登校すれば、昨夜二人に何があったのかと、他の生徒から勘繰られることは間違いない。
それを懸念してか、布団の隙間から覗く耳まで真っ赤に染まっている。
「気にすることはないだろう? 俺たちは、正式な婚約者なんだ」
「で、でも……その、卒業するまでは、人目もございますし……」
噂話をされるのが恥ずかしいようだ。
――可愛いやつめ。
「わかった、わかった。じゃあ、家の者に馬車で送らせるよ」
俺があっさり折れると、彼女は布団の縁を指で弄びながら、少しだけ残念そうな、それでいて安堵したような複雑な顔をした。
「……その、あなたと学校に行くのが、嫌なのではないのよ。そこは、誤解しないでほしいのだけれど……」
上目遣いで、言い訳のようにそう付け加える。
どこまでも、素直じゃないお姫様だ。
「ああ、わかってるさ」
俺はセシリアのおでこに優しくキスをしてから、着替えのために寝室を出た。
引くべき場面では引き、女の子に無理強いはしない。
それが、俺が女にモテる秘訣だ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その日の授業は、どこか上の空だった。
放課後、俺は帰宅の途に就いたが、まっすぐにグリムロック邸へは向かわない。
石畳の道を駆ける馬車の窓から、夕暮れの喧騒が流れ込んでくる。
「今日はザイツ商会に寄っていく。王都の商業区に向かうんだ」
俺が御者にそう告げると、馬車はいつもの帰り道から進路を変え、活気と富の匂いが渦巻く商業地区へと向かった。
バルタザール・ザイツに任せている「劇場型レストラン」の仕事の進捗確認と、近々開かれるという、とあるオークションの打ち合わせを行うためだ。
初戦の勝利に酔いしれている暇はない。
俺の計画は、まだ始まったばかりなのだから。




