Phase.55 『有給あけ』
「夜には戻る。それまで小屋からはでるな」
「はい、ゆきひろさんも気を付けてください」
「未玖も、十分に気を付けてな。ランタンと懐中電灯がある。窓にかかっている板は、決して開けるな。あと入口の扉も鍵をかけるだ、いいね」
「はい、解っています。ちゃ、ちゃんとそうしますから、必ずここへ戻ってきてください」
「ああ、約束する。絶対に戻って来るから心配するな。それじゃあ」
別れ際――未玖が抱き付いてきたのには、驚いた。でもおよそ二カ月間もの間、この『異世界』で一人彷徨っていた事や、昨日のゴブリンの襲撃を考えると当然の事だと思った。
丸太小屋をあとにする時、何度も振り返ったが俺が森に入って見えなくなるまで未玖は小屋の前でずっと俺を見送ってくれていた。11歳の少女がこんな所で夜まで独り――物凄く心細いはず。
後ろ髪を引かれる思いで俺は、森を抜けて草原地帯を歩き、狼とスライムの出現を警戒しながら進んで女神像の前までやってきた。
剣は、この『異世界』のものなので、どうせもとの世界へは持っていけない。だから小屋へ置いてきた。武器はサバイバルナイフとお手製の槍だけ所持している。
「さてと、それじゃ戻るか」
スマホを取り出してアプリを起動する――――
次の瞬間、俺は何の問題も無くもとの世界にある練馬区の自分の住むアパートに戻ってきていた。築60年の木造オンボロアパート、201号室。
早速、ドロドロに汚れた服を脱ぐとそのまま洗濯機に放り込み、シャワーを浴びた。浴びている最中に、きっと未玖も身体を洗いたいだろうなと思った。それもまた『異世界』での今後の課題だな。
テレビのスイッチを入れて、朝の情報番組を見ながら仕事に行く支度をする。髭も剃って歯も磨き、身嗜みを整えて綺麗な服に着替える。珈琲を飲みながら暫くボーーっとしていると家を出る時間になったので職場へと向かう事にした。
電車に揺られ、会社のある高円寺へと向かう。つい先ほどまで俺は『異世界』にいた。
あの丸太小屋で5日間も生活していたのだ。焚火したり柵を作ったり、未玖や長野さんとの出会い、ゴブリンとの死闘。全部、夢のように感じる。もう少しで、死んでいたかもしれないと思う事か何度もあった。なのに、もうあの場所へ戻りたいと思っていた。
未玖の顔や、丸太小屋……俺達の拠点の事を考えるとなんだかソワソワとする。
高円寺につくと、会社の近くにあるコンビニで菓子パンと缶コーヒーを買って出勤した。5階建てのボロい雑居ビル。エレベーターで3階まで上がり、突き当りの扉を開くと、デスクとPCがずらっと並んでいる部屋が目に入る。
早速、課長の山根と目があった。
「おはようございます」
「……椎名! 有給は、楽しかったかー、十分に休めたかー? お前が休みをとっている間、他の者は一生懸命に業務に勤しんでいたぞー。お前は大したご身分だよなー。ああ?」
相変わらず嫌な奴。上司でなければ、文句の一つでも言い返してやった。でも考えて見ればどちらにしても俺は万年平社員。こんな仕事、いつまでもしがみついている理由もないなと思った。
「な、なんだその目は!! この上司の私を睨んでいるのか? 椎名!!」
「い、いえ。別に……すいませんでした」
「ッチ! さっさと仕事を始めろ。休んだ分、取り返さないといけないからな。今日は定時で上がれんかもしれんな」
また無意識に山根を睨みつけかけた。冗談じゃない。俺は絶対に定時で帰る。未玖が待っているんだ。
山根は、ゴミでも見るような眼で俺の事を見ると、自分のデスクへと戻って行った。
一瞬、自分の中で殺意が芽生えたような気がして、驚いて気持ちを抑えた。俺は、あまり争うのが好きじゃないし喧嘩もしない。なのにこんな気持ちになるなんて…………絶対、昨日のゴブリンとの死闘の影響だと思った。殺されない為に、ゴブリンを殺した。まだ胸の奥で何かがくすぶっている。
「山根課長の言ったこと、気にしないでくださいね」
「えっ⁉」
唐突に自分に向けられた声に驚いて振り返ると、同僚の北上さんだった。北上さんは、俺に耳打ちするようにしていたので、顔が近くて思わず仰け反ってしまった。
「ちょっと、そんなリアクションしなくてもいいじゃないですか」
「ご、ごめん。近かったら、驚いて」
「それならいいですけど、私も一応女子ですからね」
「う、うん。だから、北上さんが嫌いとかそんなんじゃないよ。北上さんは可愛い女の子だと思っているし、だからいきなり顔が近くて驚いたんだ。悪気はない、ごめん」
「か、可愛い……あ、そうなんですか。そ、それならこちらこそ、驚かせてしまってごめんなさい!」
「こらーー!! 椎名、北上!! さっさと自分のデスクに戻って仕事しろ! 二人共いつまでもお休み気分でいられたら困るぞ! 有給取った分、取り戻すつもりで仕事しろ!」
「はーーい、自分のデスクに戻りまーーす。それじゃ、椎名さん」
「え、あ、はい」
北上美幸――20歳。契約社員だけど、凄く仕事を頑張っている。そしてこんな色気のない職場には、もったいない位の可愛い女の子だ。俺と同じく山根を嫌っていて……っていうかほとんどの者が嫌っているとは思うけど、俺が山根に絡まれるとこうやってフォローしてくれる。とてもいい子だ。
北上さんは自分のデスクに戻ると、隣のデスクの大井さんとこそこそと何か喋っていた。きっと山根の悪口か何かだろう。
また俺と目があった。すると、北上さんは俺に微笑んでくれた。大井さんもつられてにこりと笑ったので、ちょっと照れてしまった。二人に向かって、さりげなく軽く頭を下げると俺は自分のデスクへと向かった。
椅子に座り、業務に勤しむべくPCの電源を入れると、早速隣のデスクからピリピリとした視線を感じた。
翔太だった。




