第9章
あたしはそれから、喫茶店でアルバイトをしながら、夜間の予備校に通いはじめるようになった。それは来年、看護学校を受けるためで――あたしは半年後にある受験に向けて昼間はバイト、夜は勉強と、とにかく何も考えずにがんばった。何も考えずに頭を空っぽにして肉体労働に勤しみ、心を空っぽにして、勉強に励む、そうしていれば、余計なことは何も考えずにすんだ。看護婦になろうと思ったのは、三か月の間、巧くんのお見舞いにいっていた時の経験によって、だった。彼が作家だからということもないだろうけれど、あの病棟の看護婦さんたちはとても感じのよい人ばかりで、自分もあんなふうになりたいと思ったのがきっかけだった。もしわたしが自分の悩みだけで頭をいっぱいにして、自分のためだけに苦しむとしたら――そんな地獄は他になかった。それくらいなら、少しでも人の役に立つことをして、その傍らで自分のことで頭を悩ませたり苦しんだりしたほうがまだしもましだと思えたのだ。
そして、看護婦になるまでの道のりは決して平坦ではなく、時にはもう何もかも投げだしてしまいたいと思うことも度々だったけれど――あたしは無事三年制の看護学校を卒業し、ちょっとした偶然から、巧くんの入院していた総合病院に新米の看護婦として勤めることになった。しかもどういうわけか最初からICU付きの看護婦で、仕事を完全に覚えるまで、毎日が大変なんていうものじゃなかったけど――他の看護学校時代の友達もまたCCUやらオペ室やらに専属として配置されており、互いに毎夜電話で愚痴や泣きごとをこぼしあっては、なんとかがんばっているという毎日だった。
それからやがて仕事に慣れていくに従って――あたしは恋愛とか結婚とか、そういうことについてはまったく考えないようになっていった。友達の中には彼氏がいればこそ、こんな仕事でも耐えていけるとか、早く結婚して看護婦なんてやめてやるとか、色々意見があったけど、あたしは別だった。時々お節介からダブルデートを仕組まれたりはしたけれど、そのうちの誰ともつきあおうとか、つきあいたいとか、そういう気持ちにはまるでなれなかった――昔の想い出を引きずっているとか、健ちゃんの事故が忘れられないとか、そういう感傷的なことではなく――あたしは一生結婚なんてせずに、このまま死ぬまで処女でも全然構わないと思うようになっていた。看護婦になって、三年がたち、ICUから一般病棟のほうに移り、大体一週間に一度、リーダーを任せられるようになる頃には。
けれども、そういう時に限って、運命というものは動きだすものらしく、あたしは病院職員の観楓会で親しくなった、理学療法士の西尾くんという人とその後つきあうようになり――二年後には結婚して、看護婦を一時引退することになった。西尾くんはとても真面目な人で、白い細面の顔にインテリそうな眼鏡をかけているところが、なんとなく巧くんに似ていた。そしてわたしは彼に結婚するまでは貞操を守りたいと言い、それでいいならこれからもずっとおつきあいしましょうという条件をだした。友達には「何それ、信じられない!」とか「石器時代の遺物」とか「結婚してから体の相性が合わないことに気づいたらどうすんの?」とか、散々色々言われたけど――健ちゃんは結婚するまでそういうことはしないと約束してくれたのだ。それなのに、それ以下の条件で他の誰かと結婚するだなんて、とてもいけないことのような気がしたのだ。
今では巧くんのことは、彼が大体年に一冊のペースで上梓する、小説を通してその消息を知るのみとなった。それだってわたしにとっては、今ではとても大きな喜びになっている。もし巧くんが小説家でもなんでもなくて、普通の一般の職業についていたとしたら――あたしは彼が今現在どうしているか、幸せなのか不幸なのか、仕事はうまくいっているのかどうか、とても気にかかっていたかもしれない。でも彼は自分の愛する職業について、その仕事もとてもうまくいっているのだ。
(巧くんが幸せであってくれさえしたら、あたしはそれでいい)
今では、そう達観することさえできるようになった。もしかしたらあたしはあのあと、彼に対して手紙を書いて――手紙なら、出版社の編集部気付で出せばいいわけだから――自分の気持ちを吐露すべきだったのかもしれない、とも思う。自分も、巧くんに肉体を貪られたいという強い望みを持っていたということを、告白すべきだったのかもしれない。でもすべては今となっては済んでしまったことだ。
巧くんはあれから八年たった今も結婚してはおらず、いつだったか何かのインタビューで、自分は出雲健一郎と同じ独身主義者で、一生結婚することはないと思う、と言っていたことをあたしは時々思いだすことがある。何も結婚ばかりが人生の幸福というわけではないとは思うけれど――巧くんの書く小説にある官能的な場面を読む時、あたしは不思議と自分が犯されているような気がして、恍惚とした悦びに浸ることがあった。そしてそういう時、自分も彼と同じく一生結婚などするものかと心に決めたものだった。
でもあたしは結局二十七歳で結婚することになり――夫となった人は、確かに新婚初夜になるまで約束を守ってくれた――ハネムーンは彼の趣味で、イギリスの妖精伝説の残る地方を訪ねるということになった。それはあたしにとっては初めての海外旅行の夜で、英語の堪能な夫に尊敬の念を抱きつつ、あたしは彼に抱かれたわけだが、何故わたしがすべてが終わったあとで涙を流したのか――きっと夫には一生わかることはないだろう。
わたしは夫のことを愛していた。けれども初めて訪れたイギリスの地で抱かれたかった相手は彼ではなかった。夫はわたしの涙を、純潔のしるしか何かのように勘違いしていたようだったけれど――あたしは巧くんにどことなく雰囲気の似ている男を結婚相手として選び、本来なら巧くんと旅行するはずであった地で、彼に似ている男に抱かれているにすぎないと、その時になって突然はっきりと気づいてしまったのだ。
(さようなら、巧くん、健ちゃん……)
あたしは隣で眠る夫の静かな寝息を聞きながら、今になってようやく――自分が思春期という初恋の季節に別れを告げようとしているのだと気がついた。これから先も決して真実を分かちあうことはない、生涯の伴侶の傍らで……。
終わり