終
「……ってことで、娘は助かった。無事に夏も越えられた。とりあえず、その時はね」
「……ふーん」
唸るように、おれはぐるりと首を回した。
表情を見咎めたばあちゃんが、にやりと笑う。
「何だい、納得のいってない顔だね」
「ん、まあね」
「何か気になるかい」
「いや、だってさ、とりあえず助かったのは良かったけど……それ、娘はもう死んでも極楽に行けないってことなんじゃないの?」
ばあちゃんの笑顔がますます深まる。
くしゃりと歪んだ皺の中に埋もれて、瞳の色も見えなくなった。
「そうかも知れないねぇ」
「そんな他人事みたいな」
「他人事で何が悪いのさ」
「……だって」
とぼけた答えを睨み付ける。
ばあちゃんの表情は変わらない。
だが、おれだって何も知らない訳じゃない。
「だってさ、じいちゃんの名前は恵介じゃないか」
だから、とおれが言うより先に、ばあちゃんはさっと立ち上がった。
遠くから見下ろしてくるその表情は、もうおれからは見えない。
ただ、声だけが笑いを含んだまま響く。
「早死にしたじいちゃんの名前なんか、よく知ってたねぇ、あんた」
「他にも知ってるよ。ばあちゃんの生まれた土地とか方言とか――」
「はいはい、分かった分かった」
おれの言葉を遮って、ぱんぱんと膝を叩き、い草を落とす。
微かに緩んだ和服の襟を整えると、笑い混じりに手を差し伸べてきた。
「……そこまで分かってんなら話は早い。私はね、あんたを迎えに来てやったんだよ」
枕元、真っ白い足袋に包まれた足がくっきり2本。
幽霊には足がない、なんてよく言うけれど。
だけど、おれだってもう思い出したさ。
ばあちゃんは、おれが小学生の頃に死んだんだ。
おれが見ているこの天井も、ばあちゃんが死んだ後に取り壊され、今じゃもう影も形もないはずだ。
おれだってもう、熱に浮かされる幼い子どもじゃない。
恋人募集中のしがないサラリーマン。
都会の1DKで一人暮らしをする中年一歩手前の男だ。
ああ、喉が乾く。
ごくり、と唾を飲み込んだ。
「なあ、ばあちゃん。おれ、死んだのか……?」
「そうさ、ほら。ご覧よ」
ばあちゃんが腕を振ると、紺鼠の短い袖が翻る。
その向こうでひらひらと揺れ、燃え上がる赤い炎。
「火事じゃないか」
「あんたじゃないけどね。隣人が、煙草をちゃんと始末してなかったみたいだ」
貰い事故さ、と呟く声には、珍しく微かに同情が混じっているようだった。
乾いて動きの悪い舌を回し、重ねて問いかける。
「ばあちゃんみたいにさ、おれも蛍で誤魔化せないかな」
問いかけながら、自分でも答えは分かってた。
こんな都会に蛍はいない。
茶目っ気と聞かん気で聞こえたばあちゃんのようには、おれには出来ない。
案の定、即座に不機嫌な答えが返ってくる。
「あんたの場合は私と違って戻る身体がないからねぇ。真っ黒い身体にしがみついても助かりゃしない。諦めな」
「……他人事だと思って」
「他人事で何が悪いよ」
返す言葉はいつも通りの意地悪さ。
ああ、もう……そういうことなら、やっぱり仕方ないのだろう。
おれは静かに布団の上に起き上がった。上から差し伸べられたばあちゃんの手を取って。
引かれて立ち上がりながら、ふと、疑問を覚える。
前を歩こうとしている、すっと伸びた紺鼠の背中に尋ねた。
「そう言えば」
「何だい、この期に及んで泣き言かい」
「いや、そうじゃなくて……」
おれが足を止めると、ばあちゃんの足も止まる。
物言わぬ背中に、震える声を投げつけた。
「……ばあちゃんは、極楽の在り処をちゃんと知ってるの?」
迎えには来てもらえないはずなのに。
どうやって。
振り向いたばあちゃんは、にまりと唇を歪めていた。
そうして、答えのないまま、その姿は小さな光の玉になって――蛍のようにふわりと浮き上がった。
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