愛と絆のハワード・フィッシャー
妹がいる。
今となってはたった一人の家族だ。
家族を守ることは当たり前。悲しくなるほど当たり前すぎて、彼はそれしか考えられない人生を送っていた。
それでも初めは、大切なものを手放したくないなんていう些細な願望だった。誰しも抱く普遍的な欲求だから、きっと彼は理解されやすい。
アルバの宿敵は彼の気持ちに深く共感しているからそこ、彼を御しやすいと言ってのけた。
どんな人だって、アルバの立場を想像したら正気ではいられない。ましては「諦めない」と決断した彼が歩む道の過酷さを思うと、なんと残酷なんだと嘆いてしまうだろう。
事実、ハワードはアルバを嘆いていた。
アルバの苦悩ごと理解して、孤独ではないことを感じてほしい。自分は独りではないんだと、気付いてほしい。ハワード・フィッシャーは極限の優しさを持ってアルバを見てきた。
アルバとハワードの関係は、お互いが一方通行で、意志疎通が不可能なほど歪んでいる。
お互いが違う言語で語り合う、憎悪と愛の螺旋。
だからこの日の決別はそれらの集大成。
間違った師弟の関係が断末魔を上げる別れに他ならない。
◆
アルバ・ニコライが放った弾丸の軌道はやけにスローモーションに見えた。彼自身もこの一撃は賭けの要素を込めている。濃縮された緊張感がアルバの時間感覚を狂わせた。
直線を描く殺意の塊はハワードへ目掛けて進む。その男の表情は、やけに穏やかでアルバは瞬間的な寒気に襲われた。そして次の瞬間。
それが人体の皮を突き破った。血液の華が咲く。
────!!
アルバは驚きを隠せない。眼前に広がる悪夢のような光景は──。
イヴはハワードに向かう弾丸は身体で受け止めていた。右胸に広がる赤い領域。
「ソフィア!!」叫ぶアルバよりも大きな声量で、憎悪が炸裂した。
「よくもハワードを狙ったなっ!! 殺してやる!!」
イヴは自身の致命傷すら意に介さず、アルバのもとへ突進してきた。最愛の妹の身体で向かってくる赫怒の化け物。彼女は武器を持っていない。ただ感情のままにアルバを殺そうと走りだした。もちろん、人心核に感情と呼べるものがあれば、という仮定の話だが。
アルバにとっては、気が狂いそうな理不尽だろう。どうして助けたい妹と戦わなければならないのか。彼女がもう二度と人を殺さなくて済む世界に連れていくために生きてきたのに──。
妹に殺されるならば、本望だと。諦める口実を探せばそんなところだろう。ソフィア・ニコライに葬られることで、アルバの魂は救われる。──だろうか。
「バカ言え。アレはソフィアじゃないだろう」
小さく呟いたアルバは、突進してくる怪物を迎え撃つ。
アルバ・ニコライは月面防衛戦線の工作員として、ハワードによって育てられた。軍人さながらの格闘術を少年時代から叩き込まれた彼は、一般人相手なら素手で殺せるほどの力を身に着けた。
健全な肉体には、健全な精神が宿る。──らしいが、アルバの精神はとっくに壊れていた。そもそも彼が身に着けたのは殺人術に近い、身体の使い方だ。武術でもなければ、その力に誇りはない。せめて、自分の手でハワードを殺せたら笑えるだろうか。
「……!」
アルバはイヴの突進をひらりとよけて、胸倉をつかんだ。そして、そのまま担ぎ上げ、勢いを殺さずに投げ飛ばした。彼女の体重は軽い。背中から落ちた体躯はすぐには立ち上がれない。イヴは戦闘機に乗らなければ、ただの一般的な軍人のレベルを出ない。ましては体格を考慮すれば成人男性ならば対処可能とまで思えた。
アルバはこと白兵戦において、負けることはない。それほど洗練された技術、恵まれた身体と若さがあった。
イヴは呼吸を整えて、再びアルバに飛び掛かるも、軽くいなす。そんなやり取りが四度ほど繰り替えしたところで。
「あああぁぁああ!! 殺す! 私は勝つ!! 強くなりたい! あああ!」
イヴは口内に溢れる血液を拭きとることもなく、叫んだ。
それを受けたアルバは──。
──早くこい。どうなっているんだ、キューティー!
賭けの結果を待っている。
二人の行動の裏にある駆け引きを眺めながら、ハワードは一言。安全圏から言い放った。
「イヴ、戦闘機は使うな。あれは脱出用だ」
「…………!!」
「強くなりたい。負けたくない。死にたくない。だからと言って、戦闘機を使ってアルバ君を殺しても、我々は摘んでいる。この場所が六分儀学に知られたらはぼくらは皆殺しになる」
「っ!! じゃあ、なに? ハワードは我々に死ねというの!? 弱いまま死ねと!?」
「……そうだ」
────!! まずい!
アルバの賭けの失敗を意味する号令がかけられようとしていた。
◆
アルバの賭けは、人心核に関する謎の組織<キューティー>から授かった弾丸、母殺しをいかにイヴに打ち込むかにかかっていた。
マザー。それは人心核を制御する基本プログラムを運営するためのシステムだという。それを狂わせる命令を下すことができるウイルスこそが、アルバが授かった秘策だ。
アルバは一つ、威嚇射撃を行い殺意を示した。続いてハワードを狙うことで、それをイヴが庇うことを予想していたアルバは弾丸を放った。そしてイヴに母殺しを打ち込むことに成功した。
しかし、弾丸は脳の近くではなく、右胸に当たった。母殺しの命令がイヴの身体を停止させるまで、イヴは動く。アルバは停止したイヴの身体を連れて脱出することが第一目標だった。
弾丸一つくらい、現代の医療ではどうってことない。絶命さえしなければ蘇生は可能だ。
そういう意味で、アルバは「早くしろ」という焦りを抱きながら、イヴと格闘していた。
けれど、ハワードはその狙いすらも、読んでいたのか。
「君の怒りは御しやすい」
そんなハワードの言葉がアルバの心臓を撫でた。
悲劇はいつだって予想外。絶望は意識の外からやってくるから絶望なのだ。
「イヴ、君はアルバ君には勝てないし、戦闘機でアルバ君を殺しても君は六分儀学に殺される」
「やめて、ハワード! そんなこと言わないで!」
「君はこれ以上、強くなれない」
「やめて!!!」
胸に穿たれた傷よりも、ハワードが放つ言葉のほうが痛い。イヴは泣きじゃくる子供のようだった。
「それ以上は……もう……やめて」
イヴはアルバを無視して、その場にへたり込んでしまった。ハワードは何気ない口調で──、家事を手伝ってほしいから頼むような気軽さで言い放った。
「イヴ、死になさい」
イヴは首をぐりんとハワードに向けて、血と涙が混ざる怪物然とした笑顔で応じた。
「わかったわ、ハワード!」
「やめろぉおお!!」
アルバはイヴへ駆け出した。この時ほど速く動けたときは生涯においてないほどの疾走であったが──。間に合わない。その、足りないあと一メートルを、運命は嘲笑う。
イヴは血塗られた右胸に勢いよく左手を突っ込んだ。捩じるように、抉るように、取り返しのつかない裂傷をむりやり広げていく。悲鳴も上げずにうずくまるイヴはいかに早く死ねるかを競うように、傷口をこじあけた。
アルバはイヴを起こそうとするも、どこにそんな力があったのか不明な怪力でびくともしない。
「ソフィア! やめてくれ! もうやめろ!」
アルバの手にもべっとりと血がついている。自分と同じ血。妹の血だ。
泣いていた。枯れたと思っていた雫が溢れている。これまでどんな過酷な目にあったとしても、「もうこれ以上の絶望はない」と自分に言い聞かせてきた。いつしか涙は出なくなっていた。それをアルバは強さと信じていた。
──ああ。
単純な話、妹を失うこと以外、大した絶望ではなかったのだ。足りなかったのだ。悲しみと怒り、どちらを選んでいいかもわからず、アルバは自害しようとする妹の肩を起こそうとする。
「ソフィア! ソフィア! ソフィア!!!」
◆
そして、イヴは動かなくなった。力の抜けた人形を起こすと肋骨が見えるほど抉られた穴がぽっかりと開いていた。赤い血液は乾き始めている。目を閉じた妹を笑っていた。
「……」
血まみれの死体。愛すべき家族の遺体をアルバは抱く。もう蘇ることのない遥かな彼女。十九歳の少年はすべてを失った。
どうして? なぜ?
そんな疑問すら浮かばない。失意とは、きっとこういうものなのだ。なにもない。なにもないのだ。
人と道具の違い。
人には意味はないが、道具にはある。アルバ・ニコライの生きる意味は、妹だ。ソフィア・ニコライだけを想って生きてきたのだ。
アルバという「道具」はこの時、意味を失った。
道具だけが意味を持ち、意味を失い、死を迎える。
アルバ・ニコライはここに死んだ。
ただ今あるのは、ソフィアが生きていたらという遠い「もしも」に縋る小さな想像だけだ。
──優しいヤツだったんだ。
──傷つくことよりも、傷つけることを怖がるヤツだったんだ。
──いっつも誰かを優先するような、おとなしい子で……俺はもっと自信をもって生きてほしかったんだけどな。家族自慢じゃないが、ソフィアは顔がいい。病気さえ治ってしまえば、いろんな男が言い寄ってくるはずだから、俺が守ってやらないと……。
「俺が……守ってやらないといけなかったんだ」
大気が、静寂が、現実が、アルバを包み込む。
「守ってやらなきゃ……いけなかったんだ」
アルバはゆっくりと妹の死体を置いて、立ち上がった。
「ハワード、お前を殺す」
これまでにないほど、純粋な言葉だった。
「君の気持ちは……よくわかる」
ハワード・フィッシャーは良作の映画で感動したように涙を流して、答えた。




