愛と絆のハワード・フィッシャー(2)
『基本プログラムは達成困難と判断されました』
ここは人心核イヴの内側、はるか月面のおびただしい死体の山の上に築かれた心象風景だ。その山頂に立つ者は引きずり下ろされた。先ほどまでは、ハワード・フィッシャーによって育まれた99人の子供たちの誰かが頂で、「強くなりたい」と叫んでいた。
『よって<主人格>の選定を再び行います』
人心核イヴに刻まれた人格の誰かが選ばれる。今は死体の頭蓋にあるイヴは再び肉体を得たとき、誰が主となるのか。
アルバ・ニコライにはわからない。ハワード・フィッシャーにだって不明瞭だ。
ただわかることは、イヴはまだ終わっていないということだけ。
次の基本プログラムは──。
◆
「お前を殺す」
静かに零れた殺意は、目に見えるほどの純度となってアルバ・ニコライを覆っているようだった。
これ以上、なにも失わない。彼にはもうなにもない。それ故の悲しい強さが、アルバに不退転の闘志を沸き上がらせる。
鋭い眼差しを受けてハワードは、
「よく、わかるよ。悲しいな」
と共感しか示さない。
アルバはただただそれが不愉快で、壊れてしまった頭を打ち付けたくなるほどの吐き気に耐えて、男を見据えた。
──わかるのか? お前に俺がわかるなら、どうしてこんな真似ができた? お前だけは。
「お前だけには、俺をわかるなんて言わせない」
「声が聞こえるんだよ。君の心が叫んでいる。無念だと」
「ふざけるなよ……! ふざけるな。わかっていたらこんなこと……」
「できないはずだ、と? 共感できるならこんな悪事は働かないはずと? 良心の話をしたいのか?」
ハワードは横たわるイヴ、もといソフィア・ニコライの死体を眺めて続けた。
「ぼくはね、孤独を取り除きたいんだよ。こんな体質だから、人の悲しみがわかる。耳を塞いでも否応なしに、苦しみに喘ぐみんなの声が聞こえるんだ。彼らは君のように悲しみを自らの所有物のように抱えている。誰にも理解されないと、されてはいけないと。けれど、心の底では願っている。ただ隣に気持ちをわかってくれる誰かがいるだけで、再び立ち上がれるものなんだよ、人間は。愛や絆が悲しみからぼくらを救うんだ」
「関係ない話をするな……!」
「この世界に……たった一人だけ、完璧に人の気持ちを理解できる存在がいる」
「……」
「彼女だ! 梶原奈義だ! 悲しみや憎しみだけしか聞こえない、出来損ないのぼくなんかではなく、彼女だけが人類の真の理解者になれる」
「妹はどうして死ななければならなかったんだ」
「ぼくが梶原奈義を手にいれるため。いや、人類が梶原奈義を手にいれるためさ」
アルバは走り出していた。感情が肉体が、彼の理性を置き去りにして、アルバはハワードを殺すと決めて肉薄する。
「どいつもこいつも! わけのわからないこと言いやがって!」
人心核、キューティー、ハワード・フィッシャー、梶原奈義。
おそらく世界をゆっくりと動かしている大きなうねり。
それに絡め取られた運命を呪うことしかアルバにはできない。
一石を投じることも一矢報いることも彼にできるかわからない。
無念を引きずり、失った妹のために泣いてやることすら、彼の拳は許さない。
目の前の怪人を葬りさることだけが、望みになった。ソフィア・ニコライの救済が叶わないなら、彼に残った最後の願いは、陳腐な復讐だ。
ただ言えることは、復讐は無意味だという常套句などでは、アルバ・ニコライの魂は救われないことだけだ。
「右かな」
ハワードはアルバの拳を避けた。続く回し蹴りは脚を掴んだ。
「──っ!!」
「わかるよ、わかる。君は怒っているんだね」
「なめるなよ!」
アルバは捕まれた脚をそのままに残った片足で地面を蹴り、ハワードの頭へ膝蹴りを繰り出した。
ハワードはそれを知ってると言いたげに、身を引いて避ける。足首を片手で掴みながら、アルバごと振り回して投げ飛ばした。
アルバは空中で身をよじり、両足で着地。再びハワードへ向かう。
「器用なものだ」
二人の格闘技術は拮抗しているかに見えた。もちろんアルバはハワードからそれを学んでいるため、若さと才能を持ってすれば同レベルまで成長できる。
ハワードとしてはイヴを失い、その身一つとなったことで追い詰められたと言えなくもない。
しかし──。
ハワード・フィッシャーは泣いている。その男にとってそれは笑っているに等しかった。
アルバの奮闘を、情念を、葛藤を間近で見続けてきたハワードは、少年の反抗に胸を打たれる。
心からハワードはアルバを応援していた。
そんな眼差しがアルバは気持ち悪くて、吐き気を我慢することすら難しいほどの嫌悪感を覚えて──。
「殺す! 殺してやる!」
「頑張れ、アルバ・ニコライ! 頑張れ!」
「うるせぇ! 気持ち悪いんだよ! てめぇ!」
アルバの攻撃の悉くはハワードに届かない。それはハワードの言う能力、「人の心が読める」が事実であることを表していた。
肉体のぶつかり合いは五分ほど続いた。
しかし、それは唐突に終わりを告げた。
◆
人は誰かに想ってもらえるだけで生きていける。
共感してくれる誰かがいるだけで、立ち上がる勇気が湧いてくる。
悲しい時に一緒に泣いてくれる人が隣にいる。それがどんなに幸せなことか。ハワード・フィッシャーはそんな共感によって繋がれた関係を幸福だと信じている。
愛。
絆。
孤独を打ち払う唯一の魔法。
人の偽物が蔓延る世界で許された最後の光。人体模倣によって人間は人形に心を見るようになった。無機物に名前をつけて愛着を抱き、この先に人格を想像する。
機械が人らしく振る舞う。それはプログラムされた幻想だとわかっていたとしても、人間の目はそこに心を見いだしてしまう。
それで安らいでいる人々がいる。孤独を慰めている誰かがいる。
であるならば、そのサービスはより高みを目指すべきだ。
真に人に寄り添う、心の模倣を作り上げるべきだ。
オルガ・ブラウンはそんな心の模倣物を──人心核と名付けた。
「…………」
ただ、問題は──心の模倣物に「誰の心を模倣させるべきか」という点だ。
誰でいいわけではない。誰かに寄り添うというのは容易ではない。真に共感性があり、包み込む優しさがなければならない。
では、自らか。
ハワード・フィッシャーが人類の道標になるべきか。
否、己は出来損ないの読心能力者。人々の孤独は感じるものの、癒してやれることはなかなか難しい。現に、目の前の少年、アルバ・ニコライの悲しみを和らげてやることはできない。
ハワードは、自分をそんな器ではないと断じている。
もともとは──人心核を作った段階では、自分が人心核イヴを取り込むことを良しとしていた。
やむを得ないと、機械仕掛けの寄生虫を飲み込む覚悟を持っていた。
しかし──。
彼は出会ってしまった。
あの<静かの海>戦争で自分の完全な上位互換を見出だしてしまった。
完成された読心能力者、梶原奈義である。
それ以来、ハワードは梶原奈義を追っている。
片思いする少年のように、情熱的に愛を説く。
「君の悲しみなら、ぼくには無理でも梶原奈義なら癒せる。楽しみにしていてくれ! 新世界を!」
ハワードはアルバの鳩尾に拳をめり込ませた。
完全な不意打ちが決まった。それはハワードが初めて繰り出した反撃だった。
「───ッカ!!」
アルバは自身の勢いも相まって吹き飛んだ。戦闘続行不可能に近い一撃に、意識を持っていかれた。
「悪いが、時間切れだ」
倒れ込むアルバ。暗転する視界。
時間切れ、その言葉が意味するところはすぐに理解できた。
格納庫に一人の人物が現れた。
「なんだよ、これは」
紀村ナハトだ。
◆
ナハトは目の前の光景が表す状態が理解できなかった。
倒れるアルバ・ニコライ。彼を見下ろすマイク・ドノヴァン。胸が抉られたいつかの少女の死体。そして、意識のない梶原ヘレナ。
「マイク・ドノヴァン……、どいうことだ、説明しろ」
「紀村ナハト、君こそ逃げなくていいのかい?」
「俺は……」
ナハトが逃げた先にあるのは軍に捕まり犯罪者として処分される未来だ。会議中を抜け出した彼は既に罪人だ。しかし、そうまでして成し遂げる目的があった。
「ヘレナを連れ戻しに来た」
ナハトは知ってる。マイク・ドノヴァンがヘレナを連れてここまでやって来たことを。この男からヘレナを奪い返すことが今の目的であること。
「ああ、そうか……、君はヘレナに恋をしていたんだな。どうだい? あれから愛は告げられたかい?」
「お前には関係ない」
「選ばされるのではなく、選んだのだね。後悔などするはずもないと胸を張って言えるといいね、ははは」
「不愉快な男だな、お前は」
「……だめだよ。梶原ヘレナは渡せない」
「お前はヘレナをどうするつもりだ」
「どうって……」
ハワードは、ゆっくりとナハトに近づいてくる。その歩幅は大きく、躊躇いはない。この男にあろうはずもない。
「ぼくの名前はハワード・フィッシャー」
「……!」
「月面防衛戦線の技術顧問だ」
噛み合わない会話、問答として成り立っていない。
その男は、胸から取り出した拳銃でナハトの脚を撃ち抜いた。
「……っ!!!!!」
「痛いか?」
「くそ! ああ! なにを……!」
激痛に喘ぐナハトは立ち上がることができない。突然の攻撃にしゃがみこむことしかできない。
「痛いはずだよね。おかしいな」
「てめぇ! ぐぅ……」
どれ、と呟いてハワードはナハトの肩にもう一発打ち込んだ。
────!!!!
格納庫に悲鳴が響いた。絶叫は人間が出せる声量の限界に近い。それでもハワードの表情は崩れない。
なにかがおかしいと言う、不思議な現象を訝しむ科学者の顔だ。
「君、ぼくが憎いはずだよね?」
「ああああぁ!!!」
「ほら、殺したいだろう?」
「殺す! くそ! 許さねえ!!!」
「うーん、やっぱりおかしい。どうして君の『声』は聞こえないんだろう?」
ハワードは腕組み、思案している様子だ。倒れるアルバとナハトを見やってから、ようやく合点がいったようだ。
「ああ、そうか!
そこにいたのか、オルガ主任」
────こいつ、今なんて?
ナハトはオルガという名前を聞いて、痛みを凌駕する驚愕を覚えた。
なぜこの男がオルガ・ブラウンを知っているのか。
「君はそうか、人心核アダムか! それは失礼。気が付かなかった。おかしいとは思っていたんだよ。君は世界を呪っているタイプの少年だとは思っていたが、どうにも心が読めない。ぼくは、憎しみや悲しみしか読めないんだ。だから、君は本当はただの幸せな男だと理解していたのだけれど、そうかそうか! 人心核だったか! 通りで心が読めないわけだ!」
ハワードは心底可笑しいという風に笑顔を絶やさない。あたかも古い友人に話しかけているようだった。
「感慨深いなあ、オルガ主任が人心核として目の前にいるというのは。主人格はその少年に譲ったんだろう? どうだい? 他所の脳ミソで飼われる気持ちは、案外快適だったりするのかな?」
「……ハワードぉぉぉ!!!!!!」
「そんなに憎んでいるのに、声が聞こえない! やっぱりそうだ!
やっぱり、人心核は人間じゃない!
人の出来損ないだ。まあ、オルガ主任も元々人らしくはなかったからあまり変わらないのか」
「ヘレナを………………返せ!」
ナハトが苦悶の表情でやっと紡いだ言葉。
「…………人間じゃないのに、一人前に人を好きになっていたのか」
ハワードは突然表情を変えた。冷たく輝く眼光には蔑みが込められていた。
「さて、そろそろ仕事に戻ろう」
怪人はアルバもナハトも無視して、少女の死体に近づいた。
そして──。
勢いよく頭部を踏み潰した。
────!?
果実が砕けたような音が嫌に残った。遠くで倒れ込むアルバは意識がない。
ハワードは屈んで、破壊された頭に手を突っ込んだ。
「どれ、これかな?」
服に付着する血を意に介さず、まさぐり何かを掴んだハワード。
「よし」男が手にもっているものは、水蒸気を纏いながら青白く光るもの。水銀のように流動的で光沢を放ち、それ自体が一つの生き物であるかのようだった。
およそ人類が未だ作り出すことの出来ない物体。オルガ・ブラウンという天才のみがたどり着いた人体模倣の結晶体。
これが──。
「人心核イヴ」
ハワードは掴んだそれを大切に両手に持ち──
「さてと」
寝ている彼女の方へ歩いた。
「おい」
ナハトはこの日のことを忘れない。
声は既に枯れていた。
冒涜的な儀式を目の当たりにして、なにも出来なかった自分を悔いた。
幾度となくこの日に戻れたらと考えた、最悪の瞬間。
「ヘレナ、愛してるよ」
ハワードは梶原ヘレナの肩を抱き、優しい表情で眺めた。
「おい、ハワード!」
ナハトは立てない。役立たずの両足を引きずり匍匐しながら進む。
男はそんな呼び掛けを気にも止めない。人間でないものの言葉など聞く価値すらないと言う風に、ハワードは止まらない。
ヘレナを抱く怪人は、その小さな口に指を突っ込んだ。
そして開いた口に────。
人心核イヴを流し込んだ。
◆
梶原ヘレナは寝ていた身体を起こして、ゆっくりと立ち上がった。
隣にはハワード・フィッシャー。
倒れるアルバ・ニコライ。死んだソフィア・ニコライ。
そして、なす術もなく地に伏せる少年、紀村ナハト。
観客は少なくとも、梶原ヘレナは自らの誕生日を高らか謳い上げた。
「我々は人心核イヴ! いいえ、やっと出会えた友人のためにこう名乗りましょう!
私は梶原ヘレナ。梶原奈義を撃ち落とす者よ!」




