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いつか夢見る人心核  作者: かめったろす
一. 紀村ナハトの生存戦略
20/134

出会い

 この一週間、紀村ナハトは焦りと不安に支配されていた。ろくに眠ることもできず、カーテンの隙間から朝日が差し込むまで毛布をかぶるだけの時間が過ぎた。狂気すら帯びた焦燥。


 それは地の底に沈んでいくように深く、深く、そして繰り返し呟かれる呪詛のようであった。一方で叫んでしまうほど突発的な激痛が走ることもあった。


 なべて、情緒不安定。


 その日の朝、明龍のエージェント<スピーディ>が来るはずだというのに、ナハトの目の隈は濃くなるばかりだ。いや、来るのだからと言い換えるべきだろうか。


 ナハトの心配は、小悪党一人が抱え込める質量を超えつつあった。


「先生を失うわけにはいかない……。先生を失うわけには……」


 やってくる〈スピーディ〉の任務は人心核〈アダム〉の捜索である。


 そして人心核〈アダム〉とはナハトの持つ高度AI、オルガ先生のこと、らしい。すると〈スピーディ〉はナハトを探して人体模倣研究所に訪れることになる。


 今のナハトは先生を手放すことなど考えられない。ナハトは先生に生かされてきた。孤独な彼が他人の力を借りずに生きてこれたのは先生のおかげに相違ない。だからこの事態はナハトの生存に関わる大問題である。


 考えが甘かった。明龍という得体の知れない武装組織から仕事をもらった段階でこうなることは予想できなかったのか。常時先生からの助言で判断しているナハト。これも先生の予想通りなのか。


 先生を疑うわけでない。けれど、今までの判断は先生が事態の中心になることはなかった。先生自体が狙われることなどなかった。


 先生の行動原理がナハトを助けることだとしたら、ナハトを守るために先生が自らを犠牲にする展開もあるのではないか。


 このような考えがナハトの脳内を一週間駆けずり回っている。


 来たる侵略者〈スピーディ〉。ナハトは極限の精神状態である決断を下そうとしていた。


「もう……明龍のエージェントを……殺すしかない……」


 小悪党、紀村ナハトはそう呟いた。



        ◆


 この数日、梶原ヘレナは焦りと不安に支配されていた。ろくに眠ることすらできずに、カーテンの隙間から朝日が差し込むまでアイマスクをつけるだけの時間が過ぎた。狂気すら帯びた焦燥。


「お肌が……たるむ! 目の隈が消えない! 寝方がわからない!」


 合衆国の空港に着いて、任務中の居住地へ向かう道中の無人タクシー。二日間の車中泊でヘレナは、憔悴を隠せない。

 

「重力許さない! 絶対に重力許さんぞ!」


 たとえトレーニングと薬剤で月面無重力障害が解決されたとは言え、地球に降り立てば身体が重力にさらされる。それに伴う健康障害は少なからずあることは予想された。


 ヘレナも知識として知っていたし、奈義と地球で暮らしていたから深刻な障害はない。


 だが――。


「これじゃ、老化だよー! あー、信じられない!」


 肌が重力に負けて、老けてみえることを嘆いていた。五歳は年を取ったように感じさせる見た目に、ヘレナは貫禄が出たとポジティブにとらえることができない。


 加えて、慣れない重力環境と車中泊のせいで、体調は万全とはいいがたい。ヘレナはご機嫌斜めだが、無人タクシーにはそれを慮る誰かはいない。


 車内には小さなモーター音がだけが聞こえる。


「……こうなったら……起きてやる……寝れないなら起き続けてやる!」


 誰を恨むでもなく、自分に活を入れた。


 車の外には郊外の田舎道が流れ続けている。


 人体模倣研究所まであと数十キロメートルだ。


 

        ◆



 ナハトの憂鬱と殺意とは関係なく、日常はやってくる。その日もナハトは睡眠不足の体を引きずって出勤する。バイクで走る一本道はひどく退屈で、眠れない夜とは裏腹にこの時だけは都合よく睡魔が襲っている。

 

 そんなことを不条理に感じる思考力すら奪う単調な道路。


「……どうしたらいいんだ、先生」


『なに、気にすることはない。すべて計画通りにいく』


 先生はこれまでナハトの問にそう答えてきた。そして実際に問題は解決されてきた。先生を疑うことは、それ自体が背信だと、ナハトが思い込む域にまで先生の計画に欠陥はなかった。


「その計画を俺に教えてください!」


『それはできない』


 明龍からエージェントが派遣される知らせが届いてから、この問答は幾度となく繰り返されてきた。いつも決まって先生は同じ答えを返した。ナハトはなにもわからない。


 ナハトの神に感情はない。ナハトにとって有利な状況を生み出すアドバイザーであるが、情報を与えることはない。


「俺は先生を失いたくないんです!」


『……ナハト、前を向け』」


 先生はその時、会話の脈絡を無視した助言を発した。ナハトは咄嗟に正面を向いたが、そこには膝丈くらいの岩が道に転がっていることだけを認識して――。


 バイクはそれに乗り上げ、ナハトは衝撃と共に宙を舞った。バイクから放り出される体は一回転した。


――空が、きれいだ。


 そんな場違いな感想を空中で抱いたのち、視界は暗転。ナハトの身体は地面に叩きつけられた。


「っっつぅ!!!!」


 痛みから思い出されたのはアルバ・ニコライから投げ飛ばされたときのそれだった。背中を巡る鈍痛には懐かしさというものがなかった。


 気分は悪い。それを皮肉るようによく晴れた空が、彼を見下ろしていた。


 一羽の鳥が天を泳いでいた。



        ◆



 ヘレナは空に浮かぶ点が鳥だと気づくのに数分かかった。焦点の合わないうつろな目を開いているだけの時間が長すぎたのだ。


 かといって特別な感想も抱かない。遠い遠い空に映る、自由で過酷な世界。


 彼女はその青い空に一機の戦闘機を浮かべる想像をした。そこには自分が乗っている。管制室との通信を遮断。誰一人として彼女に話しかけることのできない孤独を乗せて浮かぶ鋼鉄の鳥。


 そんな益体もない妄想に思わず頬が緩んだ。この自由な世界を堪能したい。


 戦闘機にはそんなのんきな情景がよく似合う。それがヘレナの感性である。


『道具はいつか死んでしまう。道具でないならそれは死なないの』


 ここで、ヘレナは母の言葉を思い出した。まだ、この意味はわからない。道具とはなにを指して言っているのか、小さな数年前のヘレナには理解できなかった。


 今なら少しわかる。


「きっとあの鳥みないな……あんな存在」


――あれが道具ではないものなのだろうか。


 と、そこで。


『障害物があります。停止します。安全を確認してから発車を命令してください』


 自動運転の無人タクシーが止まった。急ブレーキとは言わないまでも、停車した慣性でヘレナの身体は揺さぶられた。


「なに?」


 彼女は面倒臭そうに車から降りて、道に出た。そこにあるのは一本の道と青い空、陳列された太陽光パネル。


 そして、タイヤのへしゃげたバイクと、あおむけに横たわる少年の姿だった。



        ◆



「君、大丈夫?」


 地面に仰向けに寝ていたナハトの視界に、朝日を背負って一つの人影が顔を出した。ナハトは目の前に現れた人物が、どうしてここにいるのか、理解するのに数刻かかった。当然、道端で寝転ぶナハト自身に問題があるのだが、それを差し置いて声をかけられたことを疑問に思ったのだ。


 だって、ナハトは誰かの心配をするという感覚がいまいちわかっていないのだから。


 独りで生きてきた彼にとって、出現したその女性――だと思うが――はあまりにも突発的で、不自然なものだった。


「……大丈夫です」


 そう淡泊に言って恥ずかしさを紛らわすように、ナハトは立ち上がった。背中は土埃にまみれ、どうつくろったところで彼が地面で寝ていたことに変わりはないというのに。


 立ち上がるとナハトはようやくその人物の顔を認識した。整った顔立ちだが少し気が強そうな印象を覚える。服装は宙軍特有のジャケットであったが少し見ただけではどこの所属なのか判別はできない。わかるのは、おそらく宇宙にいたことくらいだろうか。


「大丈夫って、君バイクで転んだんじゃないの?」


 女性は路肩に放り出されているバイクを指さし言った。


「……そうだけど」


「怪我していない? ほら背中」と女性はきびきびした態度でナハトの背面に回り土を払った。


「っ! いいです! 自分でできるから!」


 と、彼女から距離を取ろうとしたとき、背中に痛みが走った。


―――っつぅ!


「ほら、怪我しているじゃない。私、車だから、乗って。病院まで運ぶから」


「いや、なんともない! 勝手に話を進めるな!」


 ナハトは女性を無視して横たわるバイクを持ち上げ、またがった。いつも通りにエンジンをかける。


「…………」


 しかし、バイクのコンソールは起動しない。画面も暗転したまま、なにも表示されなかった。よく見るとタイヤも変形している。走行は明らかに不可能だ。


「あなた、人体模倣研究所の職員よね。出勤中にバイクが壊れたのね」


「……あんた誰なんだ。さっさと行けよ。俺は大丈夫だから」


「これからどうするのよ。バイクは動かないし、病院に行くにも研究所に行くにも移動手段がないでしょう?」


 状況はまさに女性の言う通り。ナハトにはどうすることもできない。


――まあ、もう会うこともないだろう。


 ナハトは長考の末、言った。


「わかった。車に乗せてほしい。だが病院は行かなくていい。研究所に向かってくれ」


「オーケー。私も行く途中だったし」



        ◆



 それから、ナハトは保険会社に連絡し、故障したバイクを引き取ってもらった。その間、三十分。女性は不思議なことに、その間もナハトを待っていた。


 曰く「怪我人を放っておけない」とのことらしい。


 二人は女性の無人タクシーに乗り、人体模倣研究所に向かっている。二人に会話はない。ナハトは太陽光パネルばかりが目に付く景色を眺めていた。


 沈黙を破ったのは女性だった。


「名前、なんていうの?」


「言わなきゃだめか?」


「紀村ナハト」


「……!」


「さっき、保険会社に電話しているとき後ろで聞いちゃった。変わった名前だね。紀村は日本人の苗字だけどナハトはドイツ語よね。意味は……」


「俺の名前なんてどうでもいいだろう。あんたこそ名前は……いい、やっぱり言わなくていい」


「私は梶原ヘレナ。って私も変な名前か。日本の苗字使ってるし」


「言うのかよ」


「私の場合は、育ての親が二人別々にいるの。一人はヘレナをくれて、もう一人は梶原をくれた」


「そりゃよかったな。ところであんた、人体模倣研究所のテストパイロットか? 所属は?」


「人体模倣研究所のテストパイロットにこれからなる。だから所属はまだありません」


「……へえ」


 珍しい。


 人体模倣研究所のテストパイロットは高々訓練学校を卒業した程度では務まらないエリート集団だと聞く。退役した戦闘機パイロットであるとか、例外的に無重力下での重機操作に精通しているエンジニアであったり、多くのテストパイロットはその資格に値する背景を持っている。


 ヘレナももそれだけの技能を有しているということらしい。


「で、あなたはどんな仕事をしているの?」


「下っ端。人型戦闘機の技師だ」


 ナハトはヘレナの目を見ずにあっけらかんと言った。自らの身分の低さで恥じるようなプライドは既に捨てている。


「……………」


 少しの沈黙。ナハトは「お前聞いといて返事もないのかよ」と口に出したか、出していないか、顔をヘレナに向けたとき――。


 こちらを凝視している彼女の瞳があった。


「戦闘機の技師……なの?」


 大きく開く眼からは、迫力を感じるほどの――好奇心、だろうか、彼女はなにかを見つけたようだった。


「なんだよ」


「すごい! 私、戦闘機作っている人、すごいと思うわ」


 だって、と彼女は続けた。


「戦闘機を作れるってことは、好きな用途の戦闘機を作れるってことでしょう? たとえばそう、戦わないための戦闘機だとか」


「戦わない……戦闘機?」


「そう、人が入って動かせるんだけど、兵器や装備が一切ないの。それで……」


「ちょっと、待て。そんなの作って何になるんだ。第一、戦わないって用途不明の重機を誰が作るんだ。予算は何ドルかかるか知っているのか? 道楽じゃないんだ」


「そんな正論は聞き飽きたわけです」とヘレナは動じるわけでもない。


「……じゃあ何が言いたいんだよ」


「なにが言いたいか、ごめん私もわかんないや」


「なんだよそれ」ナハトは鼻で笑ってみた。


「わかんない。わかんないけど……うまく言えないなりに言うと……正しいことは良いこととは限らないってことなのかな。正しいものは正しいだけ。論理的なものは論理的なだけ。効率的なものは効率的なだけ。正しくて論理的で効率的ってのは、良いこととは全く別の言葉だったはずなんだ……」


 ヘレナは車の屋根を突き抜けた遠いどこかに目線を向けているようだった。それはここにいない誰かに向けられた視線かもしれないし、この世にいないなにかに向けた発言かもしれなかった。


「そう。はじめはみんなそうだったはず」


「なに一人で悟ってんだ? ダウナードラッグでもキメてるのか?」


「もともとはそういう意味なんかなかったはずなのよ! 人体模倣っていうのは人の形を真似した設計を指す意味で、全然合理的なんて意味はなかったはず! むしろ人を真似るなら、合理的である必要なんか……」


 そこで、ヘレナはナハトの方を向いた。何かに憑りつかれたような突飛さでヘレナは―――。


「――ない」と消えそうな、それでも見つけた何かを逃がさないような語尾をつけた。


 それを受けてナハトは「話にならねえ」と応じ、再び車窓を眺めた。



        ◆



「これは私が見たポルノの話なんだけど」


 あともう少しで研究所に着くタクシーの中は無言が続いていた。それを別段気まずく思ったナハトではない。もっと言うと、先ほどのダウナートリップを見て、この人物とは会話は成立しないことを経験している。

 

 だから、沈黙は沈黙のまま放っておくのがなにより正解の選択であったはずだったのだ。


 はずだった。


「二人の男が牛のアソコに……」


「ちょっと待て、ほんとに待て! 待て言ってんだろ!」


「待てとは初めて言ったわ」


「いきなり何話し始めてるんだ!」


「え、こういうの苦手なの!? 男ってこんな話が好きなんじゃないの?」


「どこでそんな間違った知識を得たんだ!」


「軍隊」


「間違ってなさそうだ!」


「うちの男はこの話すると大喜びの大爆笑よ」


「そいつらと一緒にするな」


「こういう話、友達としないんだ。意外」


「……」


「あっ……友達がいない感じ?」


「い、いるよ。いるに決まってんだろ!」


 当然いない。ナハトは今まで一人で生きてきた。


「誰?」


 と、ここでナハトは人生最大の間違いを犯した。


 ナハトは見栄を張りたかった。ただそれだけだ。だから事実でなくてもいい。事実でないから、どんな人物の名前を出してもいいはずだった。どうせなら偽名でもいい。今朝ニュースになっていた犯罪者の名前を組み合わせるだけで偽名なんてものは瞬時に作れるはずだ。それでも最も早く彼の頭に浮かんだ人物は実在のそれだった。そして、最近で最も印象的な人であった。印象的というのは、悪い意味でという含みがあるが――。


「アルバ・ニコライという研究者だ。研究所で働いている」


 アルバ・ニコライと言った瞬間に、胸の内側で後悔がじわじわと広がった。白いシーツにコーヒーを注いでいくように、じわじわと。


 どこかバツが悪いので、ナハトは会話をそこで打ち止めたかった。それに対して――。


「そうなの。友達がいることはいいことね」


 ヘレナは満足そうに言った。


 彼女は笑顔だった。どこにでもある普通の笑顔。


 ナハトは思う。それは一体どういう感情なのだろうか、と。たとえ嘘だとしても、あるいは嘘だと見抜かれていたとしても、ナハトに友人がいることと、このヘレナという女とどんな関係があるのだろうか。


 友愛だとか。隣人愛だとか。そんなどこにでもありそうな清潔極まりない無形の綺麗事を、ナハトから見出すことになんの意味があるというのか。


 だから、聞いてみた。


「俺に友達がいることとあんたとどんな関係があるんだよ」


「関係ないと聞いちゃだめ?」


「駄目じゃない。でも、関係ないものは普通聞かないだろう」


「なに、それ普通って」彼女はまたケラケラ笑った。


「ある偉い人は言いました。『普通』とはその人が人生のうちに積み上げてきた偏見集である」


「偉い人って誰だよ。出展を言え。出展を」


「君、面倒臭い人ね」ヘレナは人差し指を立てて満足そうに言った。


「――私のお母さん!」


 その母親のことをナハトは知らない。梶原ヘレナに名前を与えたという、曰く偉い人。きっとこれからも知ることのない遠い人物だ。ナハトはヘレナの性格も言動も、まだ掴めない。よくわからないところで笑い、突発的に刺激の強いジョークを言う。さながら急にリードを引っ張る犬のようだ。


 犬に言葉は通じない。よって、彼女との会話は困難だ。


 それでも、ヘレナについて一つ言えることは。


 彼女はきっと、母親を愛している。



        ◆



 その後、二人は「サンドイッチの具として卵は適していない」だとか「ヒーロー映画の軍隊や警察はなにをしているのか」とか「心を読む超能力は実在するのか」といったざっくばらんな会話をして時間をつぶして、人体模倣研究所に到着した。


 議論は特に白熱したり、どちらかが一方を打ち負かすようなこともなく、つまらない地方ラジオのように続けられていた。ヘレナは時に笑い、ナハトは時に鼻を鳴らした。


 人体模倣研究所の正門でナハトは車を降りた。


「お前、新しく研究所に入るならセキュリティオフィスに行け。俺はそこまで付き合う義理はないからここで降りる」


「義理はないって……私が君を車に乗せてあげたんだけど?」


「……」


「わかった、冗談。じゃあね」


 ヘレナは車の窓を開けて手をひらひらさせながら、正門から出て左の建屋に進んでいった。


 正門で取り残されたナハト。大仰で巨大な門は無機質に彼を見下ろしている。


「行くか」


 彼は歩きだす。と、そこで自分の意外な変化に気が付いた。


 家を出た時は「先生を失うかもしれない」という焦燥に駆られて不安定であったナハトだが、現時点ではそれが頭の片隅にありながら、目もくらむほどの焦りはない。


 それはただの問題。一つずつ解決すればいい。


 その程度に思える自分がいる。不思議なものだ。


 ただし、その変化が梶原ヘレナによるものだと認めたくない小さな自分がいた。



         ◆

 

 

 その日の夜、合衆国西海岸の一つの街は、いつもと変わらぬ華やかさと愚かさを抱えて賑わっていた。それぞれの飲み屋からそれぞれの音楽が漏れ聞こえる。路地を歩くならバドワイザーの空瓶を数回蹴ってしまうだろう。年収ウン十万ドルのエンジニアがその日限りの女性を連れて、夜に溶けていく。


 そんな夜。夜、賑やかな夜なのだ。


 ナハトは陰気な雰囲気の裏路地にいた。


 当然のごとく、飲みつぶれて裏路地にいるわけではない。


 彼に飲み友達はいない。


『ナハト、来たぞ』


 右耳でささやく悪魔が、来訪者を告げた。ナハトは黒いレインコートにフードを深くかぶっている。胸ポケットには電気銃スタンガンを忍ばせている。それは正規の規格から外れた高電圧を流せる、まさしく人殺しの道具だ。


『打つときは左手で銃を支えろ、決して力は込めるな」


「はい、先生」


 ナハトは小さく応えた。きわめて静かな呟き。それとは裏腹に心音ばかりが大きく鳴り響く。


 なぜここにナハトがいるのか。


 簡単な話である。人殺しのためである。


 彼には殺すべき人間がいる。


 それは誰か、決まっている。明龍の工作員、エージェント〈スピーディ〉である。


 昼間、梶原ヘレナに不安を取り除かれたのではなかったのか。


 どうして、今、ここで、人を殺めようとしているのか。


――大丈夫、いざとなったら先生がいる。


 裏路地に現れたナハトとは別の人影。夜街の光を逆光にして立っている。この人物こそが〈スピーディ〉だろう。この待ち合わせは予定されていたものだった。


 〈スピーディ〉の支援がナハトの任務であるから、隠れ家、生活、情報支援、武器調達がナハトの仕事となる。情報を売り買いすればそれらの仕事自体はナハトにとっては特段難しいことではない。〈スピーディ〉の仕事が『先生』と無関係であったなら、それらの仕事を快く引き受け報酬で贅沢暮らしをしていただろう。それでもナハトはそれよりも、明龍への反逆を選らんだ。


 ナハトは目の前の人物をこの日限りで忘れようと決心していた。


 さようなら。どこかのだれか。


『こういう仕事で、お互い会うのは危険だとわかっているけれど』


〈スピーディ〉は口を開いた。中年の男性の声に聞こえたが、それがボイスチェンジャー特有の違和感を帯びていることは瞬時にわかった。


『私は対面するほうが好き』


「それは変わった趣味で」


 ナハトは寄りかかる壁から離れ、数歩近づいた。


『好きというのもあるがデータをネットワークを介さずに受け渡しすることのほうが意味がある。あえてうれしいよ、オルガ』


「こちらこそ」


 ナハトは今回の任務で用いる偽名として「オルガ」と申請していた。明龍には当たり前に「紀村ナハト」という本名は割れているが、任務中はどこで傍聴されているかわからない。そこでコードネームが必要になる。


 ナハトは歩く。〈スピーディ〉まであと3メートル。


 彼らは握手をするだろう。仕事仲間だから。


 きっと殺し合いにはならない。なってはいけない。利害は一致している。ナハトは〈スピーディ〉を支援しなければならない。

 

 だから。


 だから。


 だから。







 だから、だからだからだからだから。




――――――――――お前を、殺す!!!!!!!




 ナハトは、目の前の人物に電気銃を向けた。安全装置はオフ。トリガーを引くだけ。


 だからトリガーを引く。射出されたワイヤーの先端には高圧電流が流れている。当たったら気絶だけでは済まないだろう。気絶しなくてもすぐには動けないのだから、後で打撲で殺せばいい。いずれにしてもナハトが電気銃を当てれば大勝利。射出されたそれは<スピーディ〉へ飛んだ。目では追いきれない速さ。少なくともナハトにはそう。見えない。


 だが。


 〈スピーディ〉はそれをひらりと避けた。瞬時に近づいてくる。


――バカな!!!


 焦ることはない。もう一度打てばいい。


 引き金をもう一度引こうとしたとき、腕に強い衝撃が走った。


 持っていた電気銃は手元にない。遠くに飛ばされていた。


 状況を判断。ゆっくりと動く時間の中でナハトは理解した。


――ハイキックで腕を蹴られた!!!



 ナハトに攻撃手段はない。ない?

 

 否、まだある。ナハトは男。男の子。


 その腕に拳が付いている。だから、ナハトはその人物に殴りかかった。


『いきなり、随分な挨拶じゃないか』


 エージェントはそれすら避けて、ナハトの胸倉をつかんだ。そして。


 ここ数日でもう三度目になる、身が投げ飛ばされる感覚を味わった。


 宙を舞うナハト。ビルの間に映る夜空には星はろくに見えなかった。


 地面に叩きつけられたとき、おそらくナハトは殺されるだろう。それが仕事に反した人間の末路だ。


 武装組織との取引とは危険と隣り合わせ。始めから知っていただろう? 忘れていたのか?


 そう、ナハトはこれから、死ぬ。


「――――っ!!!」


 背中が地面に打ち付けられた。〈スピーディ〉はナハトに跨る。


 〈スピーディ〉は拳を振り上げた。きっとナハトに振り下ろされる拳だ。


 けれど、二人が予想していない事態が発生した。


 時間が、止まったのだ。


 路地の向こうで、掃除ロボットがライトを振った。瞬間、二人の裏路地に光が差し込む。


 その光はすべてを明らかにした。


 すなわち。


 〈スピーディ〉はナハトの顔を。


 ナハトは〈スピーディ〉の顔を、見てしまったのである。


 そして、ナハトはエージェントからこぼれた言葉を聞き取った。





「紀村ナハト……」





 この時、この瞬間、ナハトは〈スピーディ〉の顔を見た衝撃を忘れないだろう。



「梶原ヘレナ……」




 かくして――、二人の出会いは果たされた。


 物語のプロローグが終わる。


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