梶原ヘレナと月面防衛戦線
『地球重力圏に入ります。浮遊している持ち物はないか今一度ご確認ください。ある場合は固定バッグに収納してください。もし重量のある荷物でしたらスタッフへ――』
このアナウンスを聞くのはこの一時間だけで五回になる。ヘレナは窓の向こうに移る、地球が放つ青い光と宇宙の闇の境界を眺めていた。重力井戸の下へ下へ、起動エレベーターは下っていく。
到着ステーションはグアム島。その後、航空機で合衆国へ向かう手はずになっている。搭乗チケットの手配はすべて滞りなく済まされている。けれどヘレナにとっては初めての単独任務。緊張しないわけがない。
それに加え、任務に関するあらゆるすべてが、ヘレナが所属している明龍作戦部とは異なる部署、「情報部7課」となると殊更警戒するべきだ。
ヘレナ自身、まったくと言っていいほど情報部との接点がなかった。であるから、明龍情報部は対外的には6課までしかないことは知らなかったし、ましてはルイス・キャルヴィンという人物が何者であるかなんて予想すらつかない。
幻の――と言って構わないだろう――明龍情報部7課。
そんな得体の知らない部署から立案された作戦に一人従事しなければならない。
「……どうして私なのかしら」
疑問の本質はそこである。緊急任務、最重要案件と表記されたメッセージを思い出しても、ならば梶原ヘレナである必要があるのかと問わずにはいられない。
ヘレナの思う、明龍内での自分の専門性、スペシャリティはなんだろう。
「母さんの……梶原奈義の娘ってことかな」
娘といっても血縁上ではないがそれは問題ではないように思う。「家族」という親しい関係になにか意図があるのだろうか。
それとも。
――……もしかしたら、私が昔テロリストをやっていたのと関係あるのかな。
当然、そんな思案は独り言としてつぶやくのさえ憚られる剣呑さを持っていた。
テロリスト。
その名は、今では誰もが知っている既に壊滅した犯罪グループ、「月面防衛戦線」に他ならない。
梶原ヘレナは、かつて、月面防衛戦線に所属する少女兵だった。
◆
月面防衛戦線は、月移民第一世代から受け継がれてきた「地球人」に対する不満と、月資源から得た武力が合わさることで発起された。
月移民の出自は、かつての石油産出地であった中東諸国にある。
彼らは石油を失ったことで、世界的な重要性が下がり、経済の低迷に喘いだ。気候や宗教上の理由から限られた食糧でやりくりするひもじい暮らしを国単位で強いられていた。
それはさながら世界から「おまえらは用済みだ」と宣告されたように思えただろう。かつて起きた世界大戦の際に、敗戦国が「世界の敵」という烙印を押されたような自動性を持って、彼らは使い捨てられた。
情勢の悪化に伴い、多くの難民が発生した。
そこで、アジアへ進んだ難民たちは、当時インド洋、オーストラリア西方沖に建設中であった軌道エレベーターに行き着いた。
国連は難民の受け入れ先として、軌道エレベーター建設現場を提案した。当時は、建設現場の労働者不足が叫ばれていたし、世界的なプロジェクトと人道支援を同時に進められるとして「良いアイディア」とされてきた。
かくして、難民たちはエレベーター建設現場で働くこととなった。そして二十年もの間、彼らはそこに住み着いた。
世界初の軌道エレベーター、<ビーンストーク>が完成した。
そして次の問題が発生する。宇宙移住の第一世代は誰にするべきか、である。
合衆国を始めとする国連加盟国は、宇宙移住の際に大量の事故、死者が発生することは予想していた。
自国の民を犠牲にする愚は犯せない。
ここで、当然の帰結として、軌道エレベーターの麓に住む、難民たちを宇宙に打ち上げる提案が持ち上がる。
華々しく選ばれた人類として、ノアの方舟に乗る権利を与えられた彼らは、不安と希望に彩られた宇宙へ登っていった。
これがAFN(Advancement of forefront of noosphere:人類最前線の拡大)計画のプロパガンダである。
けれど実際は、極寒と放射線による死者の山を築くことになった。
それでも、難民たちは進む。空へ、空へ。月に届くまで。
多くの犠牲を出しながらたどり着いた月は、無味簡素な地獄に思えたかもしれないが、彼らにはまだそこを故郷にする気概があった。情熱があった。
彼らには幸運もあった。
月には、核融合のエネルギー源ヘリウム3が多く埋蔵されていることが判明したのだ。
彼らは石油を失ったが、莫大な資源を再び得た。
しかし、だ。
国連はそれらの所有権は地球にあると主張した。
こうして、月は憤怒に包まれた。使い果たされ、犠牲にされ、ないがしろにされて、それでもたどり着いた新天地。そこでもまた奪われなければならない道理はあるか。
否、断じて否。そんなことを了承できる者など――誰一人としていない。
彼らは戦うことを決意した。
はじめは武装組織の創立者かすら不明だった。始まりは誰もがそう名乗ったから。皆心は同じ。この月面を守護する剣は自らだと信じて疑わない。
これが、月面防衛戦線の起こりである。
◆
それでも40年もの間、月面防衛戦線がテロリストの域をでなかったのは、実際問題、地球側の支援を受けずに生き延びることができなかったからだ。
けれど、現在より20年前、2149年。ほそぼそとテロ行為を繰り返す彼らに革命家が現れた。
「真実、月が自由になるために」を説いた彼は、月の民をまとめた。
彼はリーダーにこそならなかったが、技術顧問として、月が抱えるさまざまな問題を解決していった。
低重力障害、放射線による白血病、磁性レゴリスによる機械故障。
彼のおかげで、月面防衛戦線はテロリストから「軍隊」まで質を上げていった。
いざ、戦争へ。
それが、5年前に起きた、「静かの海戦争」である。
月面防衛戦線を率いる技術顧問、彼の名はハワード・フィッシャー。
◆
戦争が始まる前、一人の少女が月でハワード・フィッシャーに拾われた。よくあることだ。当時の月は治安は悪く、経済も成熟しきっていない。無責任な性交すらありふれた冗談話だ。加えて、低重力が出産時の母体にかけるリスクを減らしていた。
子は簡単に生まれる。
その少女は、ハワードにヘレナと名付けられた。ハワードの娘、ヘレナ・フィッシャー。
ヘレナの他にもはワードに拾われた子どもたちがいた。彼らはこれから始まる戦いへ備えた、人型戦闘機の戦士として育てられた。
合計100人。
地球との戦争に備えた100人の子どもたち。
彼女はハワードから多くのことを学んだ。戦闘機の操り方はもちろん、数学や物理、情報、歴史、文学など、多くの教養を学んだ。
ヘレナは特段優秀ということもなく、秀でた才能もなく、戦争を迎える。
戦いの心構えは第一に「仲間を助ける道具であれ」というものだった。
自らは仲間の命をつなぐ、利他的な行動をする機構であると思い込め。
絆だけが、月に残された最後のにして最強の武器である。
ヘレナを含めた100人の「絆の戦士たち」は、地球との全面戦争を迎えた。
しかし。
結果は惨敗であった。100人いた仲間はどれだけ残ったかはわからない。地球側の資源力と物量は、月をあっという間に押しつぶした。
ヘレナは初陣にして一機の敵兵も撃ち落とすことができずに、デブリの波に飲まれていた。
絶対絶命の境地、死を覚悟したとき。
ヘレナは地球側最強の戦士に助けられた。
戦士の名前は梶原奈義。
○
「静かの海戦争」で無事に役目を果たした奈義は、ヘレナを引き取ることに決めたらしい。
梶原奈義という決戦兵器は、その実、機械のようでも、道具のようでもなかった。そんな無機物からはもっともかけ離れた人だった。
ヘレナは戦いのあと明龍の職員寮で一時的に保護された。その際、不思議なことにほとんど尋問は受けなかった。明龍の職員からの質問は他愛ない「好きな本」だとか「嫌いな食べ物」だとか、そんな薬にも毒にもならないものだった。
それがヘレナの緊張を解くためだったのかは定かではないが、当時の明龍はヘレナ・フィッシャーという少女兵に対して、慎重に扱っていたと思う。
後から知ったことだが、ヘレナの尋問は奈義を介して行われたのだという。
尋問に対して代理を立てられるというのもおかしな話だが、真実、梶原奈義はおかしな能力を持っていた。
ヘレナが奈義に拾われたとき。
作動不能の戦闘機を外側からこじ開けた奈義は、広大な宇宙を背にこう言った。
『あなたの声が聞こえたからよ』
声。
声とは一体なにか。ヘレナは不思議でならなかった。人の心の声が読める、一種の怪人だろう。
人類最強の戦士はその力をもってして、人類最強なのだと妙に納得したのを覚えている。
その力があればどんな悪事も働けるだろうに、と拾われたばかりのヘレナはそんなことを考えていた。
それに対して、奈義は
『この力はいいことばっかりじゃないのよ』
とほほ笑んでいた。
きっとその笑顔は、戦うためだけに育てられた、これまでのヘレナにはできない表情だった。使命を与えられ、それを遂行する。というある種単純な生き方では到底届かない先にある感情があることを、ヘレナは知った。
これまで道具として生きてきたヘレナだからこそ、梶原奈義を誰よりも人らしい怪人だと表現する。
明龍の職員寮に滞在すること1か月、とうとうヘレナは旅立つ時が来た。
これからは自由に生きていかなければならない、らしい。
そんな局面で緊張しないわけがない。突然世界に放り出されるのだ。不安でいっぱいだ。
だから、地球行きの軌道エレベーターステーションで見送られたときは、涙が出そうになった。
搭乗ゲートをくぐるともう世話をしてくれた人々はもう見えない。振り向かずにゲートをヘレナはくぐったとき。
中に奈義がいた。
「ここまで入ってきちゃうと……一緒に地球に行っちゃいませんか?」
「そうよ? 一緒に行きましょう?」
「え、仕事は?」
「いーのいーの!」
奈義はヘレナの手から小さな荷物をさっと取り、「席はこっちよ」などと嬉し気にヘレナを導いていた。
二人は地球に降り立った。
ここから、4年にも渡る二人の奇妙な生活が始まった。
奈義とヘレナは日本の小さな島で暮らすこととなった。なぜそこを住処として選んだのか、ヘレナは知らない。それでも否応なく始まったテロリストの少女兵とそれを壊滅させた英雄との暮らし。その形容しがたい距離感は、今から思ってもぎこちなさの塊であった。
けれど、少しずつヘレナは「戦わなくてもいい自分」を受け入れ始めていた。
いつからだろうか。
奈義を母と呼ぶようになったのは。
特にそうしてほしいと頼まれたわけではないし、自らそう強いたわけでもない。
地元の人に怪しまれないように母子という関係を装ったのが始まりだったか。今ではそのきっかけすら曖昧なまま時が過ぎた。
重力の底で感じた、風と海と、人との触れ合いは、劇的な感動はもたらさなかったけれど、小さな変化を積み上げていった。
心地いいと、そう感じていたのだろう。
兵士ではない、「役割」のない自分が、ヘレナは好きだった。
◆
いつの間にか眠っていたらしい。エレベーターはあと三十分で地上に到着する時刻だ。
「やっぱり……肩がこる」
久しぶりの重力は慣れるまで二日はかかるという。座席で首に手を当てマッサージをする。重力変化にやられてしまう乗客も多いためエレベーター内で一泊する便もあるが、ヘレナは自分で施すマッサージ程度で済ませた。
月と戦争と母の記憶。
夢の中で思い出されたのは、そんな彼女の半生だ。
ハワードから与えられた生きる術も、奈義から与えられた温かさも、彼女の一部に他ならない。
彼女の中でそのどちらも優劣はない。いずれも彼女の内側で息づいているかけがえないのない記憶である。
だからヘレナは、世界の敵として地球に挑んだハワードに怒りはない。そのどこにも間違いはなかったと言い切れる。
理屈を知らない子供だったから、状況に流されていただけの未熟者だったから、そんなことが言えるのだと責められても、頓着しない。してはいけない。
ハワードが父で、奈義が母。育ての親に感謝こそすれ、憎みなどしない。
それがたとえ、ヘレナが現在所属する明龍の意向に反するものであったとしても関係ない。
世界が月面防衛戦線に対して向ける敵意を、ヘレナも抱いているわけではないのだ。
その時、その場で、大切な人が確かにいた。それだけが彼女の真実だ。
ゆえに、今回の任務で明龍がヘレナに期待しているものが「月面防衛戦線に対する復讐心」であったとするならば、それは見当違いと言わざるを得ない。
ならばどうだ、梶原奈義の娘という点が、任務に重要なのだろうか。
消えた奈義の失跡を追える者は、ヘレナのみであると?
それについても、期待に添える自信はない。ヘレナ自身、現在奈義がどこにいるかなど知らないし、そう伝えてあるのだから。
ますます、疑問は深まるばかりだ。
『到着しました。お忘れ物のないよう、ステーションに降りてください』
エレベーター内に鳴ったアナウンス。ヘレナは今一度端末にて任務の目的を見返した。
◆
高度コンピューター<人心核アダム>の捜索
目的地は、人体模倣研究所
任務中の自らのコードネームを《スピーディー》とすること。




