【記録 No.031】帰還
「……ここ、は」
見慣れた木目の天井があった。
相談所の奥にある、小さな休憩室で拓海は目を開いた。
ゆっくりと体を起こすと、全身を苛んでいた激しい悪寒や濁るような激痛は、綺麗に消え去っていた。
ただ、ずっと自分を押し出そうとしていた目に見えない壁が消え去り、身体が、ようやくこの島における自分の居場所を思い出したかのような、静かな感覚だけがあった。
(……気を失っていた、んですね)
意識が途切れる直前の記憶を手繰り寄せる拓海の横で、ふと小さな息遣いが聞こえた。
枕元では、ペルが拓海の手を両手でしっかりと握りしめたまま、眠っていた。
すぐ傍らには、腕を組んだフェルガがせわしなく尻尾を小刻みに揺らしている。目は閉じられているが、その肩の緊張は解けておらず、眠ってはいないことが明白だった。部屋の隅には、心配そうに丸くなっていたルクとミアの姿もある。
拓海が身動きをとった瞬間、ペルの小さな手がピクリと跳ねた。
「……拓海?」
擦り込まれたような声で目を開けたペルが、拓海の顔を見つめる。
増えていく光とともに、その大きな瞳が一気に輝いた。
「拓海……! 起きた……!」
「……まったく。今回ばかりは肝を冷やしたぞ、拓海」
フェルガが静かに目を開け、低く深々とした息を吐いた。
言葉こそ厳しいが、その不器用な声には隠しきれない安堵が滲んでいた。
その言葉を聞いていたルクとミアが、部屋の隅からゆっくりと顔を上げる。
「拓海! もう大丈なのか? 元気になったのか!?」
「……拓海さん、もう……大丈夫なの?」
「ご心配をおかけしました。フェルガさん、ペルさん……ルクさんとミアさんも」
拓海が深く頭を下げると、ペルは何も言わず、ただ安堵したように拓海の服の裾を強く掴み直した。
ふと、拓海の視界の中に白い無機質な文字列が浮かび上がった。
+
【資源管理権限:更新】
対象:赤い実(名称未登録)
利用制限:解除
島民利用権限:承認
+
メッセージは、それだけを淡々と告げていた。
(……リリアさんからの申請通知。あれは、夢だったんでしょうか)
拓海は頭の中で事実と状況を冷静に整理していく。
その時、扉の前でリリアが立ち尽くしていた。
いつものように明るい笑顔を浮かべようとしている。けれど、その瞳の奥には、祠で知ったものを抱えた者だけが持つ、静かな迷いが残っていた。
「拓海……!」
目覚めた拓海の姿を認め、駆け寄ろうと一歩を踏み出すリリア。
祠の白い空間で知った、自分自身の血筋。勇者アストレアの記憶。そして、この島と拓海の関係。
己が何者であるかを知った重みが、一瞬だけ彼女の足を躊躇させていた。
拓海はその微かな変化に気づいたが、深くは追及せず、ただいつもの穏やかな笑みを向けた。
「リリアさん……ご心配をおかけしました」
「……うん。拓海が無事で……本当に、よかった」
リリアは感情を静かに整えると、柔らかく微笑んだ。
リリアの後ろから、重々しい気配を纏った者たちが室内へと踏み込んで来る。
先頭に立つのは、大角獣の装束を纏い、古き記憶の重みをその身に宿した老人。背後には鋭い眼光の二人組が控えている。
見知らぬ異種族の姿に、拓海は思わず目を瞬かせた。
「あ……拓海、こちらの方はね」
「この島に昔から住んでいる『島詠み族』の族長さん……ナグラさんと、そのお供のザグさんとミハルさんだよ。拓海が倒れたあと、助ける方法を教えてくれたの」
拓海は驚きを隠せないまま、ゆっくりと一例した。
「島詠み族……この島に、私たちが来るより前から暮らしていた方々が……?」
「初めまして。拓海と申します。この島の運営と、ここで暮らす皆さんの生活を整える役目を担っています。ですが……まさか、私たちが来る以前から、この島で暮らしていた方々がいたとは。記録だけを頼りに、この島のすべてを理解したつもりになっていたのかもしれません」
ナグラは杖を突き、静かに拓海を見つめた。
「気に病むことはない。島に新たな者が入り、我らがすぐ姿を現す理由もなかった。我らの側もあえて関わりを絶ち、お主らがこの島で何をなし、どう生きるのか……静かに見定めさせてもらっておったのだからな」
拓海は深く納得するように息を吐き出し、ナグラの目を真っ直ぐに見据えた。
「ナグラ族長。もし許されるのであれば……まずは、あなた方がこの島で紡いできた歴史を、正式な記録として残させてください。そのうえで、皆さんをこの島で暮らす住民として、私達と同じように扱わせていただきたいと思っています」
ナグラはしばし黙し、拓海の瞳の奥をじっと見つめた。
「我らは何百年もの間、誰かの記録に残ることなど求めてこなかった。名を刻まれることより、記憶を残すこと。それが我ら島詠み族の生き方だったからな」
「……だが、お主は我らの存在を知った瞬間、結論を急がなかった。記録にない我らの暮らしも、お主らの管理体系には存在していなかった。……それでもお主は、未知であることを理由に我らを決めつけず、まず話を聞こうとした」
「一つ、確かめさせてもらおう。お主が我らを住民と呼ぶ理由は、単に『記録上存在させるため』だけか?」
拓海は即座に、しかし静かに首を振った。
「違います」
「記録は手段であって、目的ではありません。この島で暮らし、歴史を紡いできたあなた方の存在を尊重し、これから共に生きていくために必要な土台だからです」
ナグラは静かに頷くと、ふっと視線を籠へと向けた。
「……なるほど。お主の考えは分かった」
「ならば、我らがなぜ今まで姿を隠していたのか。その理由も話しておかねばならぬ。……この島には、人間だけでは知ることのできなかった問題があった」
「……赤い実、ですか」
拓海が静かに呟くと、ナグラは長い年月を思い返すように、ゆっくりと頷いた。
「島の拒絶が消えた。我らが近づくことすら許されなかった赤い実が、今はただそこに実っておる。お前が何をしたのか、おおよその見当はつく」
「……はい。どうやら、この島が適合外の者を排除するために働かせていた、拒絶が消えたということのようです」
ナグラは深く納得したように頷いた。
「……拒絶の理が解けたか」
「我らは長き時を、あの実を恐れて過してきた。食料になるはずのものに怯え、近づくことすらできなかった。それが今、ようやく本来の姿に戻ったのだな」
長年この島に閉ざされていた可能性が、拓海の行動によって開かれた瞬間だった。
しかし、ナグラはそこで安易に破顔することなく、表情を引き締めた。
「お前が我らの長年の懸念を払ってくれたことには感謝する……しかし、若者よ。名を記すだけでは、共に生きることにはならぬぞ」
「……と、仰いますと」
「我らは長き時を、この島で生きてきた。これから先、人間と我らが同じ土地にいる以上、ただの善意や取り決めだけで全てが上手くいくわけではない。互いの暮らしと理を守るための『境界』を定めねばならん」
異種族の長としての、現実的で重みのある投げかけ。
形式や言葉だけではなく、真に共に生きていくための「対話と調整」を求める言葉だった。
拓海はその意図を正確に汲み取り、強く深く頷いた。
「……仰る通りです。形式上の記録だけでは不十分ですね。お互いの生活圏や譲れないルールを整理し、双方が納得できる形を一緒に探しましょう」
「……分かった。ならば、急いで答えを出す必要はあるまい」
ナグラは静かに杖を握り直した。
「我らも、お主らも、まだ互いを知らぬことが多い。ならば後日、改めて場を設けよう。互いの暮らし、守るべきもの、譲れぬもの……それらを言葉にして確かめるためにな」
「はい。私もその場で、皆さんの話を聞かせていただきたいと思います」
拓海が頷くと、ナグラは満足そうに目を細めた。
「うむ。それでよい」
ナグラは控えていた者たちへ視線を向ける。
「では、我らは一度戻るとしよう。長き時を閉ざしてきた境界を、すぐに消すことはできぬ。だが……変えるべき時が来たのだろう」
そう言い残し、ナグラはザグとミハルを伴い相談所の外へと歩き出した。
◇
陽射しが差し込む相談所。
拓海は早速、使い古された木机に向かい、古びた帳面と島の記録を広げていた。
リリアは入口の傍らに立ち、作業に向かい合う拓海の背中を静かに見つめていた。
あの祠で知った、拓海の過去。
彼がなぜ、この島に留まり続けるのか。
けれど、それを今すぐ尋ねることはしなかった。
きっと拓海自身の中で、まだ整理できていないものだから。
いつか彼自身が話したいと思った時、その隣にいればいい。
「リリアさん……少し、手伝ってもらえますか?」
帳面から顔を上げた拓海が、静かに微笑む。
「ナグラさん達、島詠み族の人達も含めて、この島で暮らす全ての人が、自分の居場所だと思える場所を作りたいんです」
「うん、任せて!」
拓海に呼ばれ、リリアはいつもの温かい笑顔で駆け寄る。
何者でもなくなった人々が集まる島で。
島に受け入れられた男と仲間たちの、新しい日常が静かに動き出していた。




