シーン18 新しい世界 新しい世界
男が招いた新しい世界
幸せはやわらかく
全てを包む
「ぶえっくしゅ」
部屋のベッドの中。
盛大なくしゃみをした坊屋は、そのあまりの勢いに、かけていた布団を跳ね飛ばした。
昨晩の代償として、坊屋は見事に風邪を引いた。
だるい体で枕もとの時計を掴み、まだ寝られることを確認すると、隣にあった水のペットボトルを一つ飲み干した。
そして再び布団を手繰り寄せるのだった。
結局丸一日寝て過ごした坊屋は、何とかその次の朝には動けるようになっていた。
いつも通りの支度を済ませ、トーストを齧って出勤。
いつも通りの生活に戻る、はずだった。
坊屋がその異変に気付いたのは、いつも満員のはずの駅のホーム。
改札を通った時から、やけに空いているな、とは思っていたが、もっと次元の違う異変がそこにはあった。
その場にいる人全員が、ゆったりとした足取りで、全く急いでいなかったのだ。
エスカレーターも、空いた片側を歩く人はいなかった。
誰一人スマホを見ることもなく、ただ静かに微笑んでいる。
「なん、だ……こりゃ」
思わずつぶやいた坊屋は、この異変に、ちょっとした恐怖すら感じていた。
滑り込んできた電車から吐き出された人たちもみな同じ表情で、ゆったりとホームを歩いている。
状況が全く飲み込めない坊屋は、一人焦って周囲が見えておらず、横を通ろうとしたスーツ姿の男性にぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ」
小さく頭を下げた男性は何事もなかったかのように電車に乗り込んでいった。
あまりのことに一歩も動けなくなった坊屋の目の前で、電車のドアが閉まる。
早鐘のような動悸を感じながら、坊屋は駅のホームで立ち尽くすのだった。
それは駅だけではなかった。
通勤の道も、職場も、ニュースのテレビ画面の中も、どこでも、人々は穏やかに生活していた。
一日ほぼ誰とも何も話すこともなく静かに働き、静かに帰ってきた坊屋は、一人こたつに入り、職場からこっそり持ち帰った昨日の朝刊を広げる。
そこには小さく、この状況を説明する文面があった。
『記者を含めたすべての人類が言いようもない多幸感に包まれている』
この時を境に、世界は実に、実に実に平和になったようであった。
原因はわかっている。
あの夜坊屋は神具に溜め込まれたすべての力を使い、全世界を幸せに変えたのだ。
すっかり軽くなり、力を失った不しあわ扇子が目の前に転がっている。
坊屋は、広げた新聞に頭を預けるように突っ伏し、目を閉じた。
軽くめまいを覚えたのは、ぐるぐる回ったからではなく、想定以上の結果がやってきていたから、だった。
実際、世界全てが幸せであることに、何の不都合もなかった。
争いのない社会は喧騒からは程遠く、静かな話し声と笑い声だけが響く。
怒られることも追い立てられることもなく、ただゆったりと。
ふわふわとした人の行列に乗っかり、それほど混んでいない電車に流れ込む。
職場についても状況は変わらず、全員が淡々と仕事をこなし、一日中にこにこしたまま帰宅していく。
山も谷もなく、ふかふかで暖かいがどこか鈍い生活。
坊屋は世界に1枚毛布を掛けてしまったように感じていた。
そして、ひとが冬場の布団からなかなか出られないように、坊屋もまた、そのぬるさに徐々にとらわれていくのだった。




