シーン15 坊屋宅 戻らない男
それは些細な思い付き
戻らない男と
戻さない扇子
宇神がいなくなってちょうど一週間が過ぎた。
坊屋はこたつで背を丸めながら、机の上に転がっているものを眺めている。
あの日からずっと同じ場所にある黒い骨の扇子。
誰が見ているわけではないが、苦虫を噛み潰したような顔をしてつぶやく。
「なぁにが行って来いだよ。おめーが戻って来ねえんじゃねえか」
悪態とため息をついて、坊屋はようやく黒い扇子に手を伸ばす。
「そもそもこれ本当に扇子なんだろうな? 開いてるとこ一回も見たことないぞ」
ぐっと力を入れ、黒い扇子を掴み上げる。
やはり鉄の塊のように重たく感じられる。
何とか持ち上げ開いてみると、それは確かに扇子だった。
「相変わらず重たいな……で、やっぱりセンスねえなあ」
開いた白い面の中央には真っ赤な「幸」の文字が収まっていた。
ひっくり返したその裏には黒い文字で「不幸」とある。
「ああ、なるほどね。これで行って来いね」
坊屋は重たい扇子を何とか片手で持ち、自らを扇いだ。
幸の文字と不幸の文字が交互に見える。
ぱた、ぱた。
「行って来い」
ぱた、ぱた。
「行って来い」
ぱた。
そこで坊屋の手が止まる。
「行くだけじゃ、だめなのか?」
真っ赤な幸の文字をひとしきり見つめた坊屋は、自嘲の笑みを浮かべつつも、その思い付きを実行した。
幸と書かれた面を上にして、一度だけ振り下ろすようにぶわっと自分を扇ぎ、一番下で扇子を素早く閉じる。
「これで行ったっきりだ」
閉じた扇子をこたつの上にどんと置き、何か変わったことはないかと辺りの様子をうかがう。
いつぞやのように不穏な水音でもしないかと静かにしてみたが、特段何も起こらないようだった。
なんだ、はずれか。
坊屋がそんなことを考えたその時、来客を告げるチャイムが鳴った。
急いで玄関に向かい、魚眼レンズを覗き込むと、そこにいたのは宅配便の配達員。
まあそうね、とつぶやき、坊屋はドアを開けて荷物を受け取る。
それはしばらく前に応募した懸賞の当選品、レトルトカレー1ダースだった。
「おー、これでしばらくカレーには困らないな」
箱を開けてカレーを一つ手にして、坊屋の動きが止まる。
「……これって、行った結果?」
辺りを見回すが、肯定してくれるものは特に何もなかった。
坊屋は再びこたつの上の扇子を手にすると、先ほどと同じように幸の面で一度だけ自分を扇いだ。
扇子を戻し、何かが起こるのを待ってみたが、特に何も起こりそうな気配はない。
「んー、ええい!」
カレーの箱を仕舞うのもそこそこに、坊屋はジャンパーを掴み、日の暮れた表へ飛び出した。
目的もなく街を歩くが、特に何かが起こったわけではなかった。
ただ、何となく気持ちが落ち着かない。
そわそわした感覚が収まらないのだ。
歩いて歩いて、気がつけば坊屋は、なじみの屋台の前にいた。
「あれ、坊屋さん。今日金曜でしたっけ?」
店主が笑いながら話しかける。
パタパタと顔の前で手を振り、坊屋はいつもの席に腰を下ろした。
「たまには他の日に来てもいいでしょ」
「そりゃもちろん。うちはいつでも大歓迎ですよ」
店主が手際よく酒の準備をするのを坊屋はぼうっと見つめていた。
そして。
「坊屋さん、今日は珍しくついてますよ。これ、正直いつものよりいい酒で」
「え? ついてる?」
「そりゃあ。多分金曜までにはなくなるでしょうし。今日来て正解ですよ」
まだその酒も飲んでいないというのに、坊屋の顔がみるみる赤くなる。
「そっかー、ついてるかー! そっかー!」
店主は思った以上に喜ぶ様子の坊屋を見て、面白そうに笑った。
「坊屋さん、今日は上機嫌ですね。こっちは何にします?」
温まったちろりを差し出し、引き返す手でおでんの蓋を開ける。
「んーじゃあ、卵と大根」
「はいよ」
やや深めの皿に、たっぷりの出汁と一緒に出された二品。
いつものように箸で割り、その断面を見た坊屋は満面の笑みを浮かべる。
いつにない笑顔を不思議に思った店主は、坊屋が手にした皿の中を見て納得した。
「あ、双子ですね、たまご」