第24話 宣戦布告と戦闘態勢
珊瑚と来たのは屋上だった。あの時と同じとは言わないが似たような気まずさがあった。
あの時と似ている空気なのに空は青く晴れ渡っていた。俺が空を飛んだあの日のように。
「慎也、無理をさせてすまなかったな」
冷たい声、突き刺さるような目付き、昔の近づきにくい珊瑚が今の珊瑚だ。
「気にするなって外に出られていい気分転換だ」
「辛くなったらすぐに言ってくれよ」
珊瑚はすぐ隣にいるのに遠くにいるように感じる。氷の壁が間にあって珊瑚の暖かさも表情も全てを消し去っているようだ。
「前みたいに無理しないで話してはくれないのか」
珊瑚に嘘をついた俺がそんなことを言っていいとは思っていない。珊瑚に見限られたとそう思うのが普通だろう。だけど、この氷の壁は珊瑚が無理をして作ったものだと思うと辛かった。
まだ名前で呼んでいてくれたから前みたいに話してくれるのではないかと期待してしまう。
「………」
「やっぱりまだ怒ってるよな。夢…潰しちまったんだもんな」
俺も夢、目標を失って分かった。これほど苦しくて無気力になるなんて。
逃げることになるかもしれない。だけど、珊瑚の近くに俺はいてはいけないんだ。
珊瑚に近づいてはならない、触れてはならない、話しかけてはならない。そうだ。珊瑚から離れよう。たとえ、自分がどれだけ傷つこうとも珊瑚がこれ以上傷つかないならそれでいい。
「ごめんな。瑠璃川」
戻ろう、あの病室にはまだ俺を受け入れてくれる笑顔がある。
「待って、行かないで!」
氷の距離を置かれた瑠璃川の声ではなく俺が欲していた珊瑚の声だった。
「瑠璃川…」
「やだ!名前で呼んでよ。私から離れていかないで!お願い…」
いきなり泣き崩れた。なにがどうしたんだ?
「私から逃げないで、私を怖がらないで、お願いだから、昔みたいに、名前で呼んで、そばにいてほしいの!」
涙…どうしてだろう。俺はなぜ何度も珊瑚を傷つけるようなことをするんだろう。
そんな自分が嫌いになって、珊瑚の涙が忘れられない傷となって、俺の中から珊瑚が消えない。珊瑚のことも珊瑚を傷つけたことも何一つ忘れさせてくれない。
「でも、俺は珊瑚の夢を…」
「そんなことはもうどうでもいいの!」
どうでもいい…心の中ではそう言われるのをずっと待っていたのかもしれない。俺はなんて卑怯で小さな奴なんだ。珊瑚といると俺は自分の本当の姿を見せられている気分だ。
「蓮兄さんのことを知ることができなかったことは辛かった」
「だから、俺は…」
「それよりも慎也が隣からいなくなったときがもっと辛かった!」
「珊瑚…」
泣きじゃくる珊瑚が強く抱きついてきた。傷口や脇腹が砕けれるほど痛かったけど今の俺は珊瑚を受け止めなければならないと思い耐えた。
「いつも隣にいてくれた慎也が急にいなくなって悲しかった。大怪我をしたって聞いて私のことを忘れていないか怖かった」
薄地のパジャマに涙がしみこんできた。深く傷をつけた涙なのに俺を心配して流されたこの涙は心に刻まれた戒めの記憶を薄めてくれた。俺は黙って珊瑚の頭を撫でることしかできないが少しずつ自分が変わっていくのが分かった。
「慎也にはずっと隣にいてほしい。私から逃げないで!」
珊瑚に迫られているとき俺は愛華のことを忘れていた。
「いった。くそー、脇腹痛!」
「ごめん…」
「気にするな……って言いたいけど少しは悪いと思っていてくれ」
痛みを堪えながらベンチに座っていた。
目の腫れた珊瑚を連れてすぐに病室には戻れないので休むことにした。
「珊瑚、本当にいいのか」
「何が?」
「兄貴のこと…本当に俺を許してくれるのか」
柔らかだが戻った俺達の関係だ。これを聞いてこの柔らかな関係がまた崩れるかもしれない。だが、前みたいに少しでも硬い関係に戻すならここから始めなければならなかった。
「まったく気にならないと言えば嘘になる」
「やっぱり…」
「でも…」
右腕を抱かれ見上げる瞳が俺を見ていた。
「私には蓮兄さんのことより慎也が必要なの」
本人は無意識で言っているんだと思うが俺にしたら愛の告白をされた気分だ。
「そ、それならなんであの話し方をしていたんだ。嫌なんだろアレ」
珊瑚に見つめられて目線を離してしか話ができなかった。
「慎也のことを忘れようと…名前で呼び合う前の関係に戻ろうとしたの」
「それってやっぱり」
「違うの!そうじゃないの」
俺の予想を即座に否定した。
「慎也は斎条と付き合うことになって初めは悔しかった。でも、負けたくないって思った。だけど……」
「だけど?」
「斎条には敵わないと分かった。『慎也君のためなら私は死ねる』冗談だと思ったけどそんなことを実際にやられると私なんかよりずっと慎也のことを思ってるんだなって」
やっぱりか、愛華がそこまでするとは信じたくは無かったがそこまで愛されていると知ると嬉しいより恐怖を感じる。俺のために自分を傷つけてほしくないとはっきりと伝えなければ。
「だから、慎也のことをあきらめようと思った」
「珊瑚」
「だけど、やっぱり無理みたい」
俺から距離をとりフェンスの前に立った珊瑚は笑顔で敬礼をした。
「私、瑠璃川珊瑚は中本慎也を本気で愛します」
ニコッと笑って走っていって屋上を後にしようとしていた。
自然とその背中を追いかけていた。
走り出した時にはもう珊瑚は見えなかったけどそれでも珊瑚に会いたくて走った。
走れたのはたったの20mだ。
夢のような感動からいっきに現実に突き落とされた。
膝に力が入らずその場に倒れこむ。心臓の速度が異常に早い。必死に呼吸をしても全然足りない。呼吸をしなければ死ぬ。それなのに胸の苦しみが呼吸を拒絶している。
涙も汗も唾液までもでて空気を求め続けた。
嘘だろ。本気で走ってこれだけの距離かよ。
「おい、大丈夫かよ」
誰かの声が聞こえて俺は安心できた。
よかった。また誰かを悲しませることをせずに済んだ。
その時、初めに浮かんだ顔が珊瑚だったことは良く覚えている。
いーち、にーい、さーん……
遠くで数えているのが聞こえる。
しーい、ごーお、しーんやーくーん……
誰かが呼んでいる。起きなきゃ。
「やあ、おはよう慎也君」
目覚めて目の前にいたのは男性の医師だった。眼鏡をかけ無精髭を生やした30歳ぐらいの優しそうな人だ。その隣には愛華の母親の桜先生が飴を舐めながら立っていた。
「はじめましてかな、君を手術した御波聖雅だよ。よろしく」
微笑んだ顔が目前まで来た。そして、彼の本性の一端を俺は知った。
「ようやく治り始めた体で走りやがって、次面倒かけたら殺すぞ餓鬼」
御波先生は笑顔のまま病室を出て行った。
「走りたい気持ちは分かる。けど、体のとこを考えなさい」
いくら大人として見習いたくない桜先生でも今回は大人しく説教されよう。
「すみません」
「本当に迷惑。さっさと仕事終らせて帰りたいのになかなか起きないんだし、おかげで15分20秒も待ったんだからね」
人が気を失ってる時間なんか計るんじゃねえよ。
「さっさと始めるわよ。愛華、貴方もここに座りなさい」
隣に愛華が座った。愛華に大丈夫など聞かれたが簡単に答えて桜先生の診察が始まった。
「慎也君。鳥が見えたって言ったみたいだけど何色の鳥が何羽いたのかな」
「はい?」
この人は何を言い出したんだ。鳥?何羽?わけわかんねえ。
「飛び降りた時に鳥が呼んでいるとか話したんでしょ」
あのその場しのぎの嘘がこんな扱いをされるとは……大人ってこんなに簡単に信じるんだ。
とは言え、いつまでも嘘をつくのは疲れるので速めに白状しておこう。
「実はその話う」
「嘘だってことぐらい知ってる。慎也君は何を例えて鳥と言ったのかな」
「どうして分かった」
「精神科医だって言ったでしょ、嘘を見抜くのは得意なの。で、何色で何羽いたの?」
親は嘘を見抜くのが上手いけど娘は嘘が下手ときたか…愛華はばれていないつもりでもこの人は全て知っていると言うことか。
「白色で二羽ですよ、二羽。今ひらめいたから深い意味は無いですよ」
「ふーん、白色で二羽…ねえ。愛華頑張りなさい」
「?」
「雲がある空を飛んでいる白い鳥を見るのは難しいこと、その鳥だけに注目している。つまり白色は気になると言う意味。そして、その数が二羽。慎也く〜ん、愛華以外にも好きな子いるのかな?」
な!そんなのこの人の嘘だ。そうだ、嘘に違いない。俺をはめようとしているだけだ。
「いませんよ。俺は愛華一筋ですから」
「慎也君」
「あらあら愛華ったら赤くなっちゃって、ねぇ愛華手ぐらいは繋いだんでしょ」
小さく頷いて肯定した。
「それじゃあ、キスは?キスはしたの?最近の小学生は速いって聞いてるからねえ」
「そ、そんなことしたこと無いよ」
「えーないの、つーまーらーなーい。そうだ。いますればいいじゃん。私が許可する!」
なんだか友達みたいなノリになったぞ。親子と言うより姉妹みたいな会話だ。
「いやだよこんな所で、初めては大切な時までとっておきたいの」
「ふーん、それじゃあ凛ちゃんはキスしたことあるの?」
急に話を振られた凛だが聞かれることを覚悟していたのだろうすぐに答えた。
「ありますよ。相手は言いませんけど」
「おお、それなら凛ちゃんしてみてよ、慎也君と」
凛は俺の顔を見るなり鼻で笑った。
「冗談、誰がこんな奴と、いくら桜先生の頼みでもそんな」
「駄目です!」
賑やかだった病室が愛華の大声で静まり返った。
「駄目!慎也君は私だけのものなんだから誰にも譲らない。奪う奴は私が……」
俺にしがみつく愛華は凛を睨みつけていた。いつも強気な凛だが流石に怯んでいるようだ。
「はいはい、分かっているわよ。ただの冗談じゃない。愛華ったら必死になっちゃって可愛い」
顔が真っ赤になった愛華の頭を撫でながら桜先生はカルテに読めない字を書き俺達三人に飴をくれた。
「それじゃあねえ。仲良くやりなさいよ〜」
ゆるい声を出しながら桜先生は病室を出て行った。
「まったく、あの子ったら私にそっくりで……」
舐め始めたばかりの飴を噛み砕く。
「独占意欲が強いんだから」
明日で退院だった愛華の予定を二週間後に延ばす手続きに向った。




