(新)第5話 私は、黙っている~第一節~
臆病でためらいがちな人間にとっては、一切は不可能である。なぜなら、一切が不可能なように見えるからだ。
四月二十日(水)
ガラララ、ガッ、という音とともに、職員室に入る。扉の立て付けが、段々と悪くなっている気がする。
出勤して、朝一番にすることといえば、ゴーヤの水やりである。ペットボトルに水を汲み、円形にゆっくりと、それを鉢へと流し込む。昨年の私は、夕方の水やりをサボって枯らしてしまったらしい。隣を見れば、あるベテラン教師のゴーヤには農業用の栄養剤の入れ物が指してある。
ズルしているようも見えるが、それほどゴーヤへの愛着が強いのだろう。まあ賞罰があるわけでもなし、皆やりたいように育成を楽しめば良いと思う。
「乾先生、おはようございます」
「九里村先生、おはようございます」
なかなかに事務的なやり取りである。九里村とは一応、昨日も一昨日も一緒に昼ごはんを食べたのだが、それ以前にも多少の交流はあったらしい。まあ、隣の席同士で会話がないのもどうかと思うが。
「九里村先生、別にタメ口でいいですよ。ほら、私と学年四つしか違いませんし。九里村先生の歳だったら、やっぱり敬語って疲れるでしょう」
「なにいってるんですか? 先輩にそんな口の聞き方できるわけないだろうがっ!!」
え? なんて返せばいいんだ? 思いつかない。もっと早く動け、私の頭。
「冗談は机の上だけにし、しとっ!」
いかん。噛んでしまった。
「乾先生、「け」が抜けてますよ~」
「あぁ!? 毛がないやと?」
私にできる精一杯のツッコミである。事実、私の頭髪の行方はかなり怪しい。でも顔つきの方は、おそらく三十後半ぐらいには若くなったと思う。やはり、人格的要素というのは人を変えるのである。もしかしたら、タキプレウスの言っていたクオリアというのは、そういう高度に精神的なモノなのかもしれない。
それから、また九里村と会話をした。もうすぐ朝のHRだ。今日も一時限目から二-一である。その代わり、次が四、五限なので、気が楽ではあったが。
佐野に対する方針は決まった。金曜日までは放置である。それまでは、臥薪嘗胆。とにかく耐える。だが音恋さんだけは、とにかく見張っておく必要があるだろう。
「はあ……」
思えば、教師という仕事は、楽をしようと思えばいくらでも楽ができる。だが真面目にやろうと思えば、とにかく精神的にキツイ。これだと真面目な教師ばかりが馬鹿をみることになる。まあ、いまの私が言う資格もないのだが。私はトイレに入りながら、そんな考えごとをしていた。
手洗いから出て、階段を昇ろうとしたところで、九里村と女子二人が談笑しているのが見えた。話の内容といえば、お化粧、地元のショッピングモール、トレンド雑誌といった、本当に下らない話題ばかりだった。下らないって? 何が?
この反応は、恐らく私(元)のものだ。その想念を読み取って私は、なるほど、と納得しつつ、会話に耽る女性陣を後にした。
別に、どんな話題が高尚とか、気にする必要はない。政治経済、物理学系の賢そうな話にしたって、一体どんな話をしているというんだ? 雑誌に載っている程度の次元という意味では、例えば通勤中のサラリーマンの会話も、駅構内ではしゃぐ女子高生の会話にしたって、大して変わらないのだ。
そんなことより、気にすべきは九里村だ。彼女がいつも話し相手とする女子生徒は、軽く数十人を超える。まさに歩く井戸端会議というやつだ。不要に見えて、学校教諭に必須な能力のひとつを、彼女はすでに有していた。それは、乾賢太朗の九里村律子に対する嫉妬の情念へと繋がっている。
やがて二-一教室が見えてくる。そのまま一回、深呼吸をして、その扉をスライドさせた。
わが教室は、今日もうるさい。
「起立!」
どこの公立学校にもある、この朝の儀式。どうして、こんなに軍隊チックなのだろう。まあ、公立学校というのは労働者を育てるためにあるので、上位下達を学ばせるのも大事なことではあるのだが。こればかりは、どんな生徒でも従う。下手したら義務教育以前からやっているわけだから、習性みたいになっているのだろう。
次に教壇に立ち、出席を取ろうとする。だがうるさすぎて、それどころの騒ぎではない。仕方なく空いている席を見て、一人ずつ欠席を確認していくことにする。
佐野たちにしても、教師が関わらなければただ騒ぐだけで、こちらにケンカを売ってくることはない。欠席の子を確認して私は、連絡事項もなかったので、この二-一で行う予定の一限目の授業準備を始めた。今日はグループワークをやってみようと思う。
「みなさん、それではグループワークを始めま……」
その時だった。勢いよく、クラスの扉が開かれる。入ってきたのは、かなり大柄の男子。身長的には、恐らく一八〇センチメートルの半ばぐらいだろうか。私よりも背が高いのは間違いない。これは多分、一〇〇キログラムはあるぞ。彼は何も言わず、自分の席にどっかりと腰を下ろした。周りは遠慮がちの態度である。
(あの席は……)
互理翔、という生徒。言っては悪いが、俗に言う素行不良というやつだ。ケンカが強く(というよりは体格が大きい)、その体力的な自信ゆえに他傷行為で問題になったこともある。田奴先生でも、公立学校にも出席停止の制度があったらいいのに、と愚痴をこぼすほどである。
気を取り直し、私はグループワークの資料を配り始めた。いま、授業的には、日本史のかなり初期をやっている。歴史学的には、原始共産制から家産制(聖徳太子とかの時代。ちなみに現代は民主制)の社会体制に入るあたり。
グループワークの内容は、米や家畜などの資産が増えてきたとき、それを今までの原始的な状態から脱して次の社会へと移行するためには、どういう社会体制を作れば良いかを話し合ってもらうというものだ。中学生には難しいかもしれないが、私の鈍い脳みそを精一杯使って、資料にそれらしいヒントをたくさん付けておいたし、まあ何とかなるだろう。
「えー、それでは第一段階です。動物を飼ったり食料を蓄えたりできる、余裕のある時代に入ると、如何にそれらを分配するかといったルールを決めたりしないといけません。それでは、次の時代へと移行するためには、どういう風な社会体制にしたらいいと思いますか。ついでに最後の発表者も決めておいてください」
五分が経った。真面目に取り組んでいるのは六つ中、四つの班だった。それでも予想よりは多い。ヒントを盛りだくさんにしたおかげで、話し合いは盛り上がっているようだった。精一杯、資料を作った甲斐があったというものだ。
ガタッ、という音がした。やっぱりそうだ。このクラスで授業が円滑に進むことなど、現状ではあり得ないのだ。覚悟を決め、そちらの方を見る。目を疑いそうになった。憔悴感が私を襲う。
互理が、隣に座る男子(和多胡くん)に激しい肩パンチを入れていた。和多胡くんは、泣きそうになるのを堪えている。
私は、それを黙って眺めていた。これが私の生徒間暴力に対する以前からの態度である。どう止める? 体力では勝てないだろう。ではどうする?
取れる手は、ない。しかしながら、普段の雑音とは違う。今回は明確な被害者が存在している。だが、目の前の暴力に対する術が思い浮かばない。
思考が煮詰まったときは全体を眺めるように、思考が枯れたときは、すぐ足元をみるように。これは、今朝思い出した私(元)の処世訓のひとつだった。私はその目線を、まずはその足元あたりへと遣る。
やがて互理は、彼の襟首を掴んで手繰り寄せた。その腹めがけ、拳を入れ始める。和多胡くんは、その眼鏡を割られまいと机に置く。攻撃を必死でガードしている。
私は、黙っている。
同じ班の仲間たちは、グループワークを止め、その様子を眺めていた。皆一様に、おどおどとその様子を伺っている。ふと、誰かがその様子を心配そうに見つめていた。戸井門さんである。彼女もまた、今にも泣き出しそうな表情である。いま互理は立ち上がっており、和多胡くんの大腿部に蹴りを入れ続けている。
私は、黙っている。
ついに互理は、しびれを切らしたように、和多胡くんを激しくいたぶりはじめた。わき腹への殴打に始まり、立ち上がって、何発も蹴りを入れる。ついに、和多胡くんが泣き出す。髪の毛を掴まれながら、目を閉じて、静かに涙を流している。悔しいだろう。その表情には憎悪が含まれているように見えた。
私は、黙っている。
互理はようやく満足したようで、立ち上がったまま、恍惚とした表情を浮かべていた。ふう、とばかりにため息をつき、そのままドカッと椅子に座ろうとして――床に尻もちをつく。私が椅子を取り払ったのだった。教室のどこかで、たまらず噴出す声が聞こえる。だが、その大半は、私の行為が信じられないという表情だった。
互理は素早く立ち上がる。私に向き直り、胸ぐらを掴もうと腕を伸ばす。
「ふざけんなっ!!」
私の背筋に稲妻が走る。互理の腕をかわそうとするものの、左腕の肩付近を掴まれてしまった。互理の身体が教室廊下側の窓を向く格好となる。
「……」
互理はそのまま、何も言わなかった。
当然だろう、廊下側の窓には体育教師の御庭先生(柔剣道ともに参段。元警察官)が憮然とした表情で立ち尽くしているのだから。
さっきから、私は黙ったまま周辺を見渡していた。私は、私(元)ではない、乾賢太朗の強運を知っている。だからきっと、根拠なんてないが、自然体で真面目にやっていれば、何か良いことが起きると信じていたのである。そして私は、御庭先生に合図してから、こっそりと互理の背後に回り込んでいた。
私は、あくまで教師のつもりだ。御庭先生に助けを求めるだけでは、ガキの使いみたいではないか。自分で事態を解決するために動くことで、御庭先生に自分を売り込む狙いもあった。御庭先生の男気は、教師の間でも信頼に値するレベルだからな。
ガッタン!! という音とともに、互理が自分の机を蹴り倒す。小さな権力は、大きな権力に簡単に踏み潰される。大抵の人間にとって、最大公約数的な倫理、道徳をそれなりに重んじながら生きていく、というのが長期的には最適戦略なのである。
音恋さんの方を見る。彼女は、さっきまでの間、ずっと互理を睨み付けていた。やがて私と目が合う。無表情で彼女は、その瞳を斜め下へと逸らすのであった。




