(新)第2話 決意、挑戦、玉砕~第三節~
人間というのは、案外強い。あれだけ打ちのめされても、職員室に帰ると、意外にそれは何でもなかったように思えた。
「どうしたんですか、乾先生」
「九里村先生」
何でもないはずがない。あれから私は伝達事項だけを伝えて、逃げるように教室を発った。中学生に対して、ほとんど何も出来ず逃げ帰ったのだ。
「はあ……」
ため息をついて、安物のスチール製回転椅子にどっかりと座った。断言しよう、今の私が吐く絶望の味を帯びる溜め息ならば、それを食らった人間を死亡させるほどの威力をもつに違いない。
「乾先生、気にしなくていいですよ。あれは、ああいうクラスなんです。私だって手に負えませんから」
こんな無様な私を気遣ってくれるのか。名前は確か九里村律子といったか。昨年度から、この鴨中学校で働いている臨時教諭。科目は保健体育だったと思う。
「ありがとうございます。気遣ってくれて」
「い、いえ。乾先生も前に助けてくれましたから」
そんなことあったか? 今のところ、それはまだ思い出せていない。とにかく、私に対してプラスの感情をもっていることは分かる。
『この女、何かに利用できないか? 別に鉄砲玉みたいな役割でもいいんだが……』
今、私は確かにそう思った。そう思って、呟いた。一日経って、この身体にも少しは慣れてきた。私の内にある思想も、記憶も。それが乾のものか、はたまた元の私のそれなのか。区別ぐらいはつくようになっている。この類の、狂おしいほど合理的な思考というのは紛れもない、以前の私のものである。
以前の私という人間は、一体どんな存在だったのだろう。タキプレウスの話によると、クオリアとかいう良く分からないやつは、その一〇〇%が私のものであり、感情や思考などについては、同じくその一〇〇%が乾のものらしい。記憶については両者ともに有しているものの、以前のそれらは、徐々に甦ってくるという。というか、あの説明では曖昧すぎるだろう。どう考えても。
そんなことを思いつつ、私はノートパソコンを広げようとした。来週分の指導案を練るためだ。
「九里村先生、ありがとうございます。お互いに頑張りましょうね」
「はい!」
「いいですねえ、二人とも。希望だけは十分で。まるで新人みたい」
誰だ? その声がした方を見遣る。そこには女が立っていた。位置は私の回転椅子のすぐ後ろ。田奴のときと一緒だ。
肩までかかる長髪にはストレートパーマがかかっている。背は高い方だろう。切れ長の瞳が突き刺すように刺激的だったが、タキプレウスほどの造形美でもない。
スタイルも人並み以上だ。強調すべきところはちゃんとそうなっている、といったような表現が見合うのだろうか? パンツスタイルのスーツが、さらにその肢体や脚線美を盛り上げており、またジャケットではなく、ベストを着用している。彼女は、その格好によっては、女性向け雑誌の特集などで妖艶だとか大人のなんちゃらとかいう文字列で強調されるような存在と化すのだろう。
「なに? 私の体に何か付いてる?」
なんだか不快そうに、彼女は答えた。無理もない、こんなオッサンに上から下まで視線を送られたら、そりゃあ誰だって嫌だろう。
「ちょっと、乾先生……」
九里村だった。しまった、嫌悪感を抱かれてしまった。女性というのは、男のこういう視線に鋭いのである。九里村先生の体つきについては、そりゃあ非常に好意的に評価するならば、「貧相」という一言で表現されてしまう。
けれども、女性はその体型については、そこまで気にする必要はないと思う。男という生き物は、最終的にはその女性の心を見るのだから。まあ、こんなナリでそんなことを言っても説得力をもたないのは明白なのだが。
「すいません、ちょっと……」
私は、いや厳密にはこの乾賢太朗という人間、運がいい。私は、さっと手を伸ばして彼女のお気に入りであろう紺色のベストの右肩辺りに付着するチョーク粉を指差す。
私の目の前に立つ女性、橘田実子は、はっとしたような表情で私の人差し指の先に目をやる。
「あぁ、そういうこと。すいませ……それよりもっ!」
彼女は、その豊満なバストを強調するように胸を張る。私は、そこから直感的に目を逸らした。ここで首から下の部分を見るようでは、欲求不満との謗りを受けても仕方ないだろう。
「あなたのクラス、いつもうるさいのよ。乾くんの教えるクラスは毎年そういう傾向があるの、自分で分かってる?」
返す言葉もない。橘田先生は私の先輩で、教師暦はもう六年目になる。見た目こそ私の方が少なくとも十は年上だが、確か彼女は二十八歳(未婚)だったはずだから、れっきとした私の先輩だ。
「そうですよね、全然いうこと聞いてくれない……」
「あなたは静かにしてて」
九里村を橘田が制す。女性同士の鉄のカースト制度においては、ここで九里村が逆らうことは許されない。それどころか、おそらく喋るのもダメだ。
「生徒にはね、嘗められないことが大事なの。あんなの、半分は動物なんだから。まだ人間じゃないの。大事なのは、力を示すこと。あいつら、私の授業のときはけっこう静かよ。一部の奴らはさして変わらないけど。なんでか分かる?」
「ええとですね、効果的なタイミングで叱るからとか、ですか」
「全然はずれ。いい? あたし達は彼らのテスト結果に平生点を付ける。加えて担任ならば、通知表の評価に内申点を付ける。それぐらいなら、あいつらでも親から聞いて知ってるの」
「じゃあ、脅してるんですか」
「あたしがそんな教師だったら、クビはあり得ないとしても、とっくに懲戒処分を受けてるでしょうね。正解は、それとなく匂わすことよ。授業を受ける姿勢が、態度が悪い。大事なのはテストの点数だけじゃないのよって、いかにも道徳的にね」
今後に向けてのヒントになったかもしれない。それにしても、どうしてわざわざそんなことを言いにきたんだ? 他の教師のように、腫れ物に触るようにでも扱えばいいのに。
「橘田先生、ありがとうございました。必ず活かします。でも、どうして?」
「一つ目。今日、あなたが珍しく田奴先生に対してまともな態度を取ったから。普段は怒られても、黙って適当に「はい、はい」言ってるだけでしょう。二つ目。これが主な理由だけど、はっきりいってね、度を超えてうるさいのよ。乾くんのクラスは。このままでは本当に学級崩壊よ。そうなると、一緒に私たち全体の立場も危ういの」
なるほど、と思った。ここで私は、こっそりと耳打ちするように、橘田にあることを囁こうとする。彼女はさっと後ろに下がるが、今から聞きたいのは大事なことだ。逃がさない。
「ちなみに担任を替える、という手は?」
そして、橘田も耳打ちするような小声で、私の耳元で囁くのだった。
「それは出来ない。担任を替えたことがわかれば、教育委員会がこっそり調査を始めるかもしれない。だから、それは最後の手段」
なるほど。全容は見えないが、そういう思惑があることは理解した。
「とにかく気を付けるように。もう五年目なんだからしっかりして」
「分かりました、ありがとうございます」
そう言い残して橘田は、自分の席へと帰っていった。時刻は五時過ぎ。私はクラブ顧問をもっていないし、残業もない。普通の教師なら、しばらく学校に残るのだろうが。
さあてと。帰るか。私は、後ろを振り向いた。
「九里村先生?」
「……」
それから不機嫌そうな表情だった。話をしようと試みるも、てんでダメ。仕方がない、明日になったら機嫌も治っていることだろう。我が家に帰ろうか。私は、自分の家の場所を思い出しながら、九里村から逃げるように下駄箱まで着いた。かなりの早歩きだったように思う。
毎週、金曜日から更新です。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...




