第31話 不愉快な痛み~第六節~
全員を階上へと送り出し、6人分の料金を払おうとして、さっきまで飲み食いしていた席を見る。3分の1あたりまで減ったビールを眺めて、しみじみと思う。
すべての皿は、きれいに片付けられていた。客単価5000円の店だから、味は本物である。はっきり言って美味しかったし、また来たいという月並みな感想だって抱いている、今の私は。
料金は、全員で2万1000円であった。教師陣は1人5000円だから、あとで高校生に2000円ずつ請求すればよい。そうして支払いを済ませ、階段を昇る。
たった今、ふと上の方であいつらが私の仲間たちを襲っている情景が浮かんだ。かぶりを振って外に出ると、そこには皆がゆっくりと駐車場まで歩いていく姿があった。
数分してから駐車場に着いた。停めてあったのは、志上のプレオと――わたくし、乾賢太朗の駆るクラウン(MT)であった。そう、漸く自動車に乗れる自分を演出できるのだ、漸く――と、浮かれた気分で運転席のドアに手を掛ける。
手を掛けたのだが、私には反省点があった。なんということだろう、そう、遅かったのだ。ダメ元で優子を誘うべきだったのに――助手席のドアに手を掛けるは、千璃であった。ここで振り返ると、軽自動車には、志上、宇野、千奏、優子の4人がひしめき合うように乗っていた。
「おい、私の車は!」
「え、いやごめん! 乾くんの運転怖いんだわ! 初心者でしょ?」
図星。視線を千璃に戻すと、座った目でひたすら睨むばかりであった。
「おい、バランス悪いだろ。優子、こっちに来いよ。軽じゃ狭いだろ」
「……志上先生と行く」
心なしか、優子のイラッとした表情が薄暗闇に見えた気がした。やっぱり、背が高いこと多少は気にしてるんだな。優子の心が離れていくのを止める為、最後の思案に入ろうとする私の袖を不愉快な力が引っ張る。
「ほら、罰ゲームでわたしがこっちにきちゃったじゃないですか! 早く出してください」
志上の軽自動車は走り去った跡だった。ちなみに、クラウンは100%、私(元)の好みである。相当好きだったに違いない。それゆえ、色々な意味で過度な期待というやつがあったのだろう。
「は、早く。寒いんですよ、夏なのに」
だが、まさか。乗車するのが千璃だけなんて。思ってもみなかった。
「早く!」
「うごっ」
ついに、お得意の蹴り技が飛んできた。尻から始まって、身体全体へと流れ込んでいく、打突されたような感じ。幸いにも、その痛みは私の慙愧心を一新してくれたようだ。
『畜生め、畜生め』
運転席から呪詛の言葉を響かせながら、黒塗りの準高級車は夜の中心市街地を通り抜けていく。信号の淡い光にさらされる交差点を、クラウンはただ静かに進んでいく。
すぐ隣には、艶かしい体形の美少女とでもカテゴリーされるような、そんな女が座ってはいたのだが、あいにくと優子を逃したショックから立ち直るには、もう少々の時間を必要とした。
『退屈だ。話しかけないかな、千璃から』
それは難しい相談だろう、と脳裏からの声が響く。ならば、こちらから話すしかない。
「おい、千璃」
「……な、なん、ですか」
一瞬の間があった。やっぱり、こいつ私のことが苦手なのだろうな。
「お前、こっそり酒飲んでたろ。志上先生もグルだな」
「……」
別に酒を飲むのはいい。高校生なんて、そんなもんだ。だが志上まで巻き込んでしまうと、最悪、彼が責任を取ることになってしまう。千璃には、そのことを分かって欲しいという思いがあった。
「べ、別に。見逃してくれなんて頼んでないです。わたしが勝手に飲んでるだけです」
「千奏はこのこと知ってるのか」
「ねえ、乾」
「なんだよ」
そう言って、私たちの時間は止まった。動いているのは、真っ黒い金属の塊だけ。周囲の景色の変化さえ認識することはなかった。
自動車は、どこまでも橋状に延びていくかのような高架の真下を潜り抜け、小高い坂に入ったところである。中心市街地においては、星は暗く、代わりに街灯の真っ白い不愉快で単調な光がそこら中から舞い込んでくる。チカチカと不愉快な明かりを灯しやがって、畜生。なんでこんなことになるんだ。あわよくば、優子と一緒に帰るつもりだったのに。
あいつの、妖艶な眸。ミラー越しでもいいから見たかった。あいつの、豊満な乳房。新井姉妹ほどじゃないが、それでも男性の満足に堪える得物だ。あいつの、引き締まっていて、なおかつ脂肪分を感じさせる腰元。優子の柔道着の下袴は、どれだけ見ても飽きなかった。
優子を眺めているときは認識が私(元)に戻るかのようだった。刺激するような要素でもあるのかと言ったら、それは――恋、と言わざるを得ない。
90年代風の言い方をするなら、私は優子にぞっこん(※2)なのである。とかく、そうした想いによって、こんな飲み会の企画まで志上にお願いした次第だ。
「ねえ」
ここで千璃は、意を決したように、
「あんまり、女の子のこと勘違いしないで下さいね。具体例で言うけど、お姉ちゃんは家でタバコ吸ってるよ」
それを聞いた途端、アクセルが強まった。国産車の中では高いスペックを誇るだけあって、なかなかの加速である。電柱にぶつかりそうになるほどのクラウンの急加速に、即座に右に切られたハンドルが辛うじて対応に成功した。
それくらい、絶望は大きかった。
「お前も……」
「わたしはやりません。臭いんですよね。でも、多分」
「多分?」
「好きな人の影響だと思う。お姉ちゃん好きな人いるの」
「いるのか、彼氏」
「違うと思う。でも、いるの」
確信はない、ということか。
それにしても、千奏がタバコとは。いや、影響を受けても最後に決めるのは自分自身だ。間接的とはいえ、あれだけいい子である千奏にタバコを吸わせるとは。とんでもない男である。ところで、乾賢太朗はタバコなんて吸える体質じゃない。
あんまりいい感じはしないが、まあ、人事にとやかく突っ込むもんじゃない。私は、すっかりと私(元)の気分になっていた。今は乾賢太朗ではあるが、もう少しテンションが上がれば、きっと。
ここで気を取り直し、ミラー越しに映る千璃の表情を覗こうとした。交差点に差し掛かかろうというところ。
「乾、話がある」
「な、なんだよ」
「お姉ちゃん、今日は好きな人の家に行くんだ」
「え、そうなのか。じゃあ、」
「頼れる人とか、親とか……」
どういう意味だ、何が言いたいんだ? 無言になってから数分が経つ。我が家まで、あと25分程度の地点を示す踏み切りを通過するところである。
と同時にそれは、千璃の家までの志上から聞いている目印でもあった。
「今日、家にきて。泊まっていいから」
「……」
唐突な言葉に、再びハンドル操作が怪しくなる。確かにペーパードライバーではあるが、そこらへんの奴よりはずっと出来るつもりだ。
「深夜の泥棒が近所で2件あったの。怖いの。親いない」
絞り出すような言葉も――私の苛立ちに敵うことはなかった。
「帰る。明日も忙しい。すま――」
髪。額。肩。
いつも千璃を見ているのは、ずっとその辺りである。そこまで顔は注視しない。だが、この時ばかりは目が行かざるを得なかった。うつむく千璃の眸に溜まる泪を視ることができたからだ。
「どうしたんだよ」
「なんでもない、分かんない! きて! きて!!」
「……分かった、でも、日が変わるまでに帰るからな」
確かに私は、チカチカと明滅する信号の灯が消ゆる、たゆたいの刹那に見た。千璃の眉に、想いの色が浮かんでいるのを。
……ああ、今でも思い出す。この夜にでも死んでいればよかったのだ。
(第30話、終)
※1・・・男女雇用機会均等法の第11条にそう書いてあるわけではありませんが、事実上、そういう解釈とならざるを得ません(。。)…
※2・・・一応、大昔からある語彙ではあります。平成初期のトレンディドラマによく出ていた台詞です(。。)…
毎週、金曜日から更新です。注釈文は最終節にあります。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...




