第31話 不愉快な痛み~第五節~
飲み会は、地下にある店で行われた。路地裏から大通りに至る路に小さく看板が下がっており、そこから延びる階段を下りていくと、その店はある。退廃的な外観ではあるものの、志上の話によると魚食材の新鮮さを売りにしているらしい。
あれから、喫煙所にいた宇野と合流して構外に出ると、幸原道場の駐車場で志上と千奏が一緒に待っていた。時刻はすでに夜7時。さあ、では行こうかということで、志上は軽自動車のエンジンを掛けたのだった。
酒席の内容といえば、若者らしい、実にくだらない内容であった。まず、千奏と千璃は、こういう店に入っても見た目的に年齢確認をされることがないとか(千璃が、年増扱いされることに腹を立てるのがお約束)、学校の勉強でやっている分野とか(ここに居るのは、全員学校関係者である)、あとはポロッと仕事や結婚の話が出るぐらいであった。
私たちが会話している席は、店内では奥まったところにある石造りのボックス席である。それは壁に埋め込まれるような設置で、席の入り口側には透明なカーテンが掛かっている。桐製の古びたテーブルの上には、サーモンがこれでもかというぐらいに乗ったカルパッチョ、赤、黄、緑に散りばめられたサラダ、揚げ物、飯物その他がぎゅうぎゅう詰めに置かれている。
2時間予定の酒席も、あと45分と迫っている。そろそろ終宴の気配を思い、しみじみとした気分になっていた。
「なあ、乾くん! 律子ちゃんと付き合ってんでしょ?」
「いやだな、そんなことないですって! 宇野さん」
「いやいや~、一緒に帰ってるじゃん!」
なんで知ってるんだよ、宇野に見られたことはないはずだが。宇野は、もう完全に出来上がっていた。帰りは志上に送ってもらえることもあり、ここぞとばかり飲みまくっている。
「うぐ、もう飲めん。本当に無理だ。で、どうなん乾くん!?」
平時とそう変わらないテンションで宇野は捲し立てるのだが、こちらの回答は決まっている。
「いや、その時分は、自動車に乗れなかっただけで……」
「自動車乗れないんですか、うわ、だっさいですね。でも、今日」
「千璃ちゃん」
たしなめる千奏をよそに、酔っ払いのような声色で千璃が煽ってくる。こんなの日常茶飯事だが、何も反応しないのも気が引ける。
「おい、千璃。やっぱり、ぬいぐるみ返せ」
「ちょっと、あれは」
「諦めて、優子に操作させようとしたろう。あの時点で操作権は優子のものだ。私が、優子に返しといてやる。ほら」
「う、う……」
俯きながらでも、千璃の眸に溜まる泪を視ることができる。どうした? さっきから様子がおかしい。ちょっと言い過ぎたか? それにしても今日はテンションが高いな。ここでちらり、宇野のビールを見遣る。残りは4分の3ぐらいだった。飲み放題というわけでもないから、けっこう勿体ない。
「いやいや、乾先生。そのへんにしてもらえないですかね? 僕の教え子だからってわけでもないんですが……」
「志上先生……いや、じゃなくて千璃。ごめんよ」
「うう~、乾嫌い!」
「千璃ちゃん!」
今日は、一体どういう日なんだ?
やいのやいのと盛り上がれるのは良いのだが、直感的に珍しい運を引き当てたような、そんな触感が私を支配していた。
「乾、ねえ乾。付き合っているの? 律子先生と」
優子、今は入ってくるんじゃねえ。いや、話しかけられたのは嬉しいのだが。
「あ、ああ! 付き合ってない! ホントだ、ただ席が隣なだけで」
「ほんとに、ほんと!!」
千璃、お前が答えるんじゃねえ!
「乾先生、いいですねえ。僕も良い相手が現れるといいんですけど。まあ、一生無理かな」
「もう志上先生、お酒も飲んでないのに!」
そう言われながら恥ずかしそうに笑いつつ、そのまま千奏にお酌(コーラである。念のため)してもらう志上。オタク気質で、のほほんとはしているが、これでも柔道の世界選手権66キロ級で銀メダルを獲得したこともある。
「千奏! 俺にも酒!」
「宇野先生は、もうダメっ」
こんなに酩酊した姿を晒す宇野も、同じく90キロ級で銅メダルを獲得している。志上信六も、宇野青羽も、ハッピーマウンテン市内の私立高校で柔道の指導を行っている。正真正銘のスポーツエリートである。
「いやいや、志上先生はモテないことはないでしょ。冗談抜きで」
「乾先生、奢りませんよ!」
志上は、この女子高生3人の通う星河学院の柔道部顧問を務めている。昨年創部した新しい柔道部である。個人的に設立経緯が気になるが、それはまた後に質問しよう。
「はい、乾さん。たくさん食べて下さいね」
取り分けられた生ハムサラダを見て思うが、千奏は接待スキルが高い。グラスが空になるのを見逃さないし、誰がどんな料理を好きかも気にしている。なおかつ、それを実行に移せるセンスが眩しい。目配り気配りのなさについて、間違いなく私は鈍感人間である。
「もう、お姉ちゃん! わたし、生魚嫌いって言ってるのに~」
「ダメ! もったいないし、魚食べられないと損よ!」
「焼き魚はいいの。でも刺し身だけは勘弁してよ~」
気が付けば、宇野は席を立っている。トイレだろうか? この店は志上が選んだところだから、まだ私は、トイレの位置を把握していない。
さあて、と席を立とうとしたとき。カーテンの薄衣をぺらりと拡げ、こちらを覗き込む影があった。宇野じゃない。
1人は、うっすらと禿げた頭に、ぐにゃりと曲げた口角をこちらに向けている。もう1人は、こちらの席の女性3人を認めながらにやつく金髪の細身であった。ともにスーツを着ている。
そんなに場末な店でもないはずだが。嫌な侵入者の登場に、イラつきが込み上げてくる。
「ねえねえ、きみら、うちのとこ来ない?」
「こっちは、いいスペースやねんか、広いし。なあ、ちょっとだけ」
そう言って、きょろきょろと女たちを見定めする視線を送り始める。分かっているぞ、この先の反応は。
「ねえ、君可愛いやん。来てよ、ちょっとでいいから」
「ほんまや! 可愛い。なあなあ、きてや。遊ぼや、な?」
男たちは、千奏を指名したようだ。ショートボブで清楚な感じを出しつつ、ゆったりとしたセミフォーマルを装っている。その胸部のふくらみは彼等の位置からすると、さぞ魅力的に映るのだろう。
「うるせーんだよ、不細工。さっさと整形してこい」
そう叫んだのは千璃であった。叫ぶやいなや、男たちを威嚇するように身を乗り出す。その手に握られたビール瓶が、ドスンとテーブルに叩き付けられた。中の液体は、ラベルの真ん中位置まで満たされている。
「あ? うるせーブス! お前なんかお呼びじゃないんだよ!」
「ブヨンブヨンしやがって!」
千奏も千璃も美麗な部類に入るとは思うが、着ている服の差異で、ここまでの違いが出るものか。いやまあ、そんなの態度の差異に決まっているのだが。ちなみに、今日の千璃はジーンズに灰色のTシャツ、その上にデニムの上着を羽織っている。
「ああー、なんだってえ!?」
ああ、こんなとき宇野が居てくれたら。あの強面ならば一睨みで退散させられるだろうに。しぶしぶ私は、立ち上がる。彼等と対峙すべく。
「ちょっと『すいません、いいですか』このま……」
ここで割り込んだのは志上。座ったままだ。
男たちは、その小男に目線を遣った。ほんの一瞬だけ時が止まる。何かが切断されたようなイメージ。男たちは一歩後ろに下がりながら――すごすごと歩き去った。
一体、何だったんだ。そりゃあ、他の席でも狙った方が効率が良い場面だったのは違いないが。
ここで私は席を立ち、さきほどのことを思い出しつつトイレへと向かう。まさか、男たちが再び席に襲い来ることはないであろう。
トイレに入る。目の前には誰も居なかった。用を足しながら、思う。こんな幸せでよいのだろうか、と。私は、元の自分の肉体へと還るため、来年3月までに涙を流すという目的をもっている。にもかかわらず、こんなところで油を売っていていいのだろうか。確かに、楽しい。楽しいし、有意義だ。
だが、来年の4月が来る頃には適当な理由で死ぬのだ、私は。本当に、これでいいのか?
「あーあ、なんか幸運ないかな……」
「ないな。そのままじゃ」
一瞬だけ、肋骨に沿って悪寒が走った。宇野が、後ろ側の個室から声を発していた。迂闊すぎる、なぜ気付かなかったんだ。ヘタしたら他人に聞かれてたぞ。
「乾くん、運ってのはね。殻の奥に隠れる蟹の身なんだ。ダメ押しのワンプッシュなんだよ」
今日は、えらい哲学的だな。酔っているからだろう、言葉が要領を得ない。
「与えられた素質をもって、真面目に努力するだろ。それで、ゴールに届きかける。でも、あとちょっと届かないことが多い。でもな、気が狂うほどに努力をしていると、少なくともベストに近い努力をしていると、最後の最後でな、運が味方してくれる。そのちょっとの力でな、ライバルに打ち勝つんだ。OK? まあ、俺は勝てなかったけど」
分かりました、とだけ言った。今の私には必要な言葉だとは分かってはいたが、今はどうしても考えたくなかった。それからほどなくして、私たちは解散した。
毎週、金曜日から更新です。注釈文は最終節にあります。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...




