第29話 非日常の速度~第三節~
「インセンシティブ・センシブル」では柔道描写が出てきます。分からない点は、こちらをご覧下さい。
柔道チャンネル
基礎知識http://www.judo-ch.jp/knowledge/
審判規定http://www.judo-ch.jp/rule/koudoukan_judge/index.shtml
それから、寝技の練習に入った。立ち技の稽古ばかりだったので、そろそろ寝技の乱取りも取り入れようということで、最近になって本格的になってきた練習分野である。
まさか、彩季がここまで寝技が得意とは、思ってもみなかった。まさか、苹樹がここまで寝技が苦手とは、思ってもみなかった。
彩季の右手は、苹樹の上半身を完璧にロックしており、左手は股下を握っていた。その顎で、苹樹の胸の筋肉を押さえつけ、相手の抵抗を怯ませる役割を為している。
横四方固め。苹樹が跳ねて逃げようとすれば、顎を突き立てることで動きを削ぐのである。
「苹樹、身体の一部だけを使うんじゃない! 跳ねて駄目なら、右手を間に突っ込みながら、そう、それで左手を入れて……」
グイグイと半身を脱していく苹樹。右肩が、抜け出ようとしている。左腕は、両者の身体の間から飛び出しかけていた。と、ここで彩季は、その左腕を右腕で絡め取って、これまで垂直に向き合っていた身体を90度回転させ――上四方固めへと移行する。
苦し紛れに苹樹は、彩季の背中を握って左右に振るも、びくともしない。
「その位置だと無理だ。さっきと同じように両腕を使って……うーん……」
理詰めタイプで、知能も抜群な彩季。寝技が得意であるのは必然だった。安産体形だし……。だが、苹樹が寝技を苦手な理由が分からない。互いの姿勢がこうなるとか、ああなるとか移行していくイメージをつかみ難いのだろうか?
ふと、隣に視線を移す。律子が、調歌を抑え込んでいる。指示を受けながらではあるものの、しっかりこなしているように見える。かたや、苹樹の物理的な意味での認識は、そんじょそこらの女子中学生並みであった。
苹樹が、総合タイプの天才であるのは間違いないのだが、寝技が苦手な理由がどうしても分からない。私が、直接に寝技を教えれば分かるのかもしれないが、バレー部などに見られると通報されかねない。男であるゆえに女子生徒の寝技の面倒を見るのは無理がある。
どうしようか。ちょっと迷って後、2人に待てを掛ける。彩季は、ブンブンと顔を振りながら私を振り向いた。苹樹は、ぐったりした様子だ。
「どうしたんだよ、苹樹」
「うーん、なんか、その……」
「その?」
「苦手なんです。嫌いではないけど、必要ないような気もするし、とにかく……意欲が湧かないんです」
苹樹のいいところは、こういうところだ。心苦しい理由でも、ちゃんと言ってくれる。
「うん、分かったよ。でも寝技が出来ないと、試合のときに困るんだよ。思い切って技を掛けることが出来なくなる。自分が技に失敗して、寝技の姿勢に入られるのが怖くなる。すると、寝技が得意な選手との対戦では自ずと不利になるだろ? 例えば、丘野中学校でもそうだ。リベンジしたいんだろ」
「んん……そうなんですけど……」
はにかむように、俯く苹樹。ここで律子の言葉を思い出す。
「乾先生。女子選手は、理解しても納得しないことは実践しません」
ああ、そうだ。確かそんな内容だった。苹樹は、寝技に苦手意識をもっている。次の試合は1ヶ月半後である。得意技については、3人とも一応は通用する水準にある。導き出される結論は……。
膝を畳に下ろす。両膝立ちの姿勢で私は、苹樹に語りかける。
「苹樹。今はいい。でもな、必要だってことだけは。これがないと、結果的に丘野戦が厳しくなるってことだけは理解してくれ。ほら、そこの調歌だって。丘野中学の、ええと、氷野だっけ。そいつに寝技で負けたのが悔しいから、あんなに熱心にやってるんだぞ」
「はい。今は本当にごめんなさい」
真っ直ぐに視線を合わされつつ、そう言われると、何でも許してしまいそうになる自分がいる。苹樹だけじゃない。他の2人にしたって、そうだ。必要以上に対応が甘くなることがままある。それもこれも、元来の乾賢太朗が真性の小児偏愛であることが原因のようだ。
色々と考えても仕方がない。
私は、立ち上がって、そのまま寝技の指導を続けた。あっちの手をこっちに差すとか、そこで背筋を使って跳ねるなど、頭を必死で捻らせながら指示を飛ばしていく。どちらの方向が、右だか左だか分からなくなりかけることもあったが、それも乾賢太朗のボディでは、ご愛嬌とせざるを得ない。
女性指導者がいる状態で、男の監督に出来る指導といえば、専らアドバイスだ。相手は女子なのだ、ならば女子に合う訓練というやつを自分なりに見出してみせる。
丘野中学校の監督である蒲原にしたって、あの巨漢の強面で、女子柔道部を県大会優勝に導いたのだ。だからというわけじゃないが、私にだってやれる。こいつらを、今度の9月にある新人戦で優勝させてみせる。
毎週、金曜日から日曜日まで更新です。注釈文は最終節にあります。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...