第28話 動学ゲーム~第二節~
皆様へ
今週より2週間単位での更新となります。第三節は、来週の更新です。
詳しくは、活動報告をご覧下さい。
8/8日(月)
午後6時00分。誰も居なくなった夕暮れが差し迫る職員室。校庭のどこを見ても、日は、深く翳っていた。薄灰色のコードレスフォンを片手に番号をプッシュする。数回のコールのあと、相手側の受話器が上がる音。
「はい。音恋です」
「私、鴨中学校の乾と申します。お世話になります。音恋さん、先日はどうも」
先日といっても数ヶ月前だが。苹樹が、柔道部に入ることを反対されているというので、説得に向かったのである。
そして今は、音恋家の本宅に電話を掛けている。この時間だと公務員は帰宅しているからな。
「ああ、どうも! 今日はどういった用件で?」
「いやあ、実は、花火大会の件でお話したいことがありまして。お約束を取りたいのです」
「花火大会の、どういった件で?」
「あのですね、今後の清掃業務の段取りといいますか。1週間前のことなのですが、苹樹と一緒に苦労しまして」
「あ、ああ、話は娘から聞いてますが、そうですか。明日は大丈夫です。とりあえず、お昼過ぎに来て下さい」
「分かりました。こちらは2人で伺います。できたら支所長さんもご一緒に……」
「ああ、はい。大丈夫です」
「宜しくお願いします。失礼します」
受話器を置く。交渉前段階の成功に思わず安堵の溜め息をつく。娘のこととなると、苹樹の父君は途端に息遣いが荒くなる。音恋苹樹が、来年の清掃に参加するわけでもないが、仕事が終わったばかりで父君の頭は疲れていたのだろうか。
「何とかいきましたよ、田奴先生」
「乾先生にしては珍しく運に恵まれてますね。商工係長と同時に、支所長とのアポも取れるなんて。校長にアポ取りを頼まずに済んでよかった」
あれから1週間が経っている。2日や3日で終わるものと思っていたが、そういうわけにもいかなかった。
というのも、私も田奴も指導案や教材作り等に追われていたし、児童が夏休みの時期は、それぞれの地区の教員が集まり、研究発表大会、分科会などが催される。田奴も労働組合の青年部を仕切る立場にあったから、交渉前の打ち合わせの日程を合わせ辛かった。
校長と教頭への相談結果については良好な結果となった。田奴利吉の信用のお陰だろうか、要望に出向くのを許可してもらえたばかりか交渉案を一緒に考えてくれることになった。
毎年、鴨中学校が会場になるイベントも多い。花火大会以外の清掃活動からも開放されるやもしれぬという期待からだろうか。ある人がおかしいと感じていた問題は、多かれ少なかれ他人もそう思っているものだ。
なにしろ1週間もあったから、私は、十分な戦略の備えを行うことが出来た。田奴との打ち合わせでは、役割分担から話の順番、いざというときに放つ言葉の節々まで考え抜いてある。明日が楽しみになってきた。
8/9日(火)
鴨中学校から程なくの距離に鴨支所は在していた。昭和40年代に造られた肌色のコンクリート建てを駐車場から見ると、至るところにひび割れが散見される。周りに自動車などは数台しかない。職員のものだろう。
ガラス戸を押して中に入る。これまた昭和の香り漂うソファーに、雑誌立てに、テレビなど。あまり客が来ることもないのだろう、そこら中で埃の塊が空調の風に弄ばれている。
「ああ、どうも」
「お世話になります!」
音恋勇一。鴨支所商工係長。180センチメートルほどだろうか、私と一緒くらいである。苹樹の背は、父君からの遺伝だろうか? 母親である音恋朋子を生で見たことがないから分からない。
そして伊達男でもあった。彼の輪郭が、音恋さんに伝わったことなら容易に分かる。
「どうも、こんにちは。加比と申します」
でっぷりと太った男がゆっくり近づいてくる。話に聞いていた風によれば、この人が所長らしい(支所は課として扱われる。よって役職は課長である)。赤ら顔で、鼻はふたつに分かれたような形状。出っ張ったお腹も気にしない素振りで、私と田奴を導くのだった。
スチール製の机にパイプ椅子。お茶などはなし。歓迎されていないわけではない。長時間拘束でもなければ公務員との話し合いはこんなものだ。
4人は、席についてから簡単な雑談を交わした。アイスブレーキングを侮ってはいけない。交渉において、相手との信頼関係は欠かせない要素だ。天気の話、祭りの話、テレビに出てくる芸人の話、諸々10分ほど談笑したところで本題に突入するのが私の役割であった。
「えー、それでは、本題に入ります。花火大会の件ですけどね、結論から言いますと、実は、あれ、支所の方でやってもらえないですかね。そしていずれは、市が関係するイベントすべてについて、順々に……」
目前の2人の顔が強ばる様子を、私は具に観察していた。
「どうしようか、断るのが前提だが、はてさて、どういう表現がいいだろう」
「おいおい、どういうことだよ音恋。聞いてないぞ。事務的な連絡か、貸し出す機材を増やして欲しいって相談じゃなかったのか」
何も言わずとも、そんな心持を見て取れる。
「ああ、すいません。うちの支所は合計9人しかいないんですよ。それに予算の方(※2)も……」
「ああ、いきなりすいません。まずは共通の理解を確認すべきですね」
そうして私は、1週間前に田奴が調べてきた内容をそのまま勇一さんに伝えていった。その途中で所長からの横槍が幾度となく入ったが、隣にいる者に事実を問うことで簡単に凌ぐことができた。勇一さんは、こちらが全てを把握済みだと思っている様子だった。
同僚たちに聞いて回った勇一さんの経歴を、心の中で再確認する。当初の彼は鴨支所、当時は鴨町役場の職員であった。やがてハッピーマウンテン市に合併されてのち、本庁から配属された音恋朋子と交際を始め、数年後に入籍したという。
どこまで本当かは怪しい。というのも、勇一さんが言うには、妻が入庁してから公務員に採用されたらしいからである。矛盾する。まあ人の話なんて平気で面白い方向に尾ひれが付くもの。噂によって真実を図りかねるのが世の常だ。
だが、今さっきから勇一さんの経過を見るに、ある程度、その噂が正しいことは明らかであった。当時に音恋朋子と一緒に仕事をしていたならば、花火大会の企画については事情を知っているといっていい。
「ォホン、で、言いたいんは分かったんですけどね。やっぱり、難しいというか。無理ですね」
加比所長はそう言うのだが、当然、読んでいる反応である。ついでをいうと鴨支所長のポジションというのは、ハッピーマウンテン市役所における左遷ポストのひとつである。この巨体の男性は、一体、何をやらかしたのだろうか。
「いや、共通理解を得られたようなので言わせてもらいますが、もう投資は成功してますよね? 祭りのために予算組んでるみたいですけど、約二十年前の初年度は、当時では珍しい大規模花火大会に3万人も集まって、今年も1万人以上。それもこんな田舎で。大盛況じゃないですか」
加比の眉に皺が寄る。いけない、これは。
「ううん! いや、ちょっと何言ってんですか、そういう問題じゃないでしょ! 私らのことも考えて下さい! さっきも言ったでしょ、9人しかうちには居ないんです! 無理!」
怒らせてしまった。私の悪い癖のひとつ、簡単な決めつけだ。公務員は人間関係を重視する。要するに、滅多なことでは自分の感情を出さないのである。だがこの加比所長について、そういう決めつけは通用しなかった。
私の態度が高圧的すぎたのだ。だが振り返っている暇などない。さて、どうする?
「いきなり来て、そんな。だまし討ちみたいに。非常識じゃあ、ないですかね」
やばい。最悪なのは、お流れ宣言を受けることだ。あちらとしては理由も十分である。早く、早く言葉を継がなくては。
「所長」
田奴の助け船。
「まあ、こちらにも理由はあるんですよ。実は毎年、怪我の危険があるんです。私どもでイベント毎に手伝い、清掃などやらせてもらってますが、実は昨年に1件、4年前にも1件、教職員が労災申請しています。やっぱり、こういう仕事はプロじゃないと。業者に依頼すればいい。さっきおっしゃった、予算が足りないって頼むお金がないって意味ですよね。素人じゃ危険だってこと、分かってるんじゃないですか」
「……」
さすがは京大卒。頭のキレが違う。「それじゃあ鴨中学校の予算で業者に依頼して下さい」というのはナシだ。このご時勢に、10万単位で役務費や委託料の増枠申請など不可能に近い。しかも清掃という生産性ゼロの仕事に。
ちなみに4年前、金網に手を挟まれて労災を申請したのは乾賢太朗である。
「ええと、それでは次の論点に。予算についてですが……うちの校長に聞いたところによれば、花火大会の予算は、少なくとも百数十万円はついてるとか。フリーマーケットとか、他のイベントと合わせれば200万を超えるだろうということです。鴨学区って高く評価されてるんですね。まあ北端の田園地帯にもかかわらず、市人口の5%近くが住んでますしね」
勇一さんを視る。俯きがちに頭を回転させている。加比所長を視る。ポーカーフェイスは苦手のようだ。
「それで……あんまり言い難いですが、清掃業者くらい、何とかなりますよね? 一件あたり、数万以内で収まるでしょう」
「……い、いやあ、でもね。小額でも、予算を増やすなら、市議会を通さないと。今は不景気ですし、小さい金額でも難しいんです」
たじたじになっても声を振り絞っている勇一さんの様子に、辛い感情が押し寄せる。今更あとに引けるはずもない。
「いやあ、実はですね。教頭先生、いますよね。うちの」
「ん! あ、はい」
知り合いなのだろうか。所長の顔つきが明らかに変わっていた。もしそうなのだとしたら、教頭みたいなタイプは明らかに苦手だろうなあ。
「実は、見積りを取れと言われまして。こちらがそうです」
そう告げて、田奴は1枚の見積書を提示する。そこには3万円にも満たぬ金額の、花火大会の片付け料金の見積りが提示されていた。その業者は、どの市役所でもよく使われる――シルバー人材センターである。
「予算なんか通さなくていいですよ。イベント1件でこれなら、5,6件くらいまでは、予算の流用でなんとかなる範囲でしょう。福祉施設だったら、地方自治法施行令(※3)で随意契約できますよね? 監査なんて気にすることもなく」
相手方は沈黙した。何だか申し訳ない気もするが、気がするだけだ。大抵の人間は、こういうときに憐憫を抱くよう生まれついているのだが……。
「どういうことですかっ!」
「ちょ、所長」
机を叩いて怒鳴り出したのは加比であった。仕事中の職員も、さっきから会話の様子にアンテナを立てていたのであるが、このときばかりは全員が一斉にこちらを振り向いた。
「何十年も前からずっとこうなのに! なんで今にな――」
鼓膜の響きを認める。ここ数年で、もっとも大きな衝撃音だった。田奴が、スチール机をこれでもかという勢いで叩く音だった。本当に驚いた。
「……ちんまい、ちんまいことですけどね。いつかは、変えないといけないんですよ。僕たちの先輩がそれをしてこなかったんです。公務員風のことなかれ主義ってやつで。鴨支所との関係を悪くしたくなかったんでしょう。でも、僕たちは動くことにしました。はっきり言わねばなりません。快い返事をいただけねば、今後もイベント用に校庭を貸すか貸さないかの真剣な話し合いをやりましょう。互いの代表者を交えて。そちらも本庁の方を連れて来ればいいです。今回、校長はやる気です……特に、教頭は本気ですから。本当に恐縮なのですが、これだけは伝えておかねばなりません」
「……ああもう、分かった、分かったから!」
田奴は、ブラフの好機も見落とさなかった。「今回、校長はやる気です」という台詞。使いどころは今しかない。
慙愧に耐えないとでも言わんばかりの表情で悔しがる加比を尻目に、恭しく席を立つ田奴。去り際の礼儀も忘れない。一緒に、鴨支所の職員たちに会釈と謝罪を行い、私たちは支所を後にした。
公用車が空いていなかったので、ここまでは歩いてきた(自家用車だと、万一事故ったときに県職員共済の手厚い保険がおりない)。ゆっくり、ゆっくりと歩き、冗談交じりに互いの労をねぎらった。思ったよりも苦労しなかったのは準備期間が十分だったのと、あとは、ひとえに運の良さである。校長と教頭、何より田奴が首を縦に振らねば今回の話はなかった。その幸運をかみ締めて私たちは学校に戻った。
※2……公務員の良くないところのひとつは、市政を安定的に回すためとはいえ動きがゆっくり過ぎることだと思います。仮にこちら側の申請が通っても、年度当初から予定されたものでなければ、予算を取ってから実行されるまでに数ヶ月は掛かります。ちなみに、今回の仕事については、小説用として運が良すぎる設定にしています。本当ならば、こういう調整的な仕事でも、調べものと根回しで時間がかかるので、少なくとも数週間は必要ですし、そもそも地勢が悪ければそこで終了です。
※3……以前も注釈で述べた気がしますが、この法律の第2条によって、スムーズに福祉施設に仕事を回すことが出来ます。国民を支配する法の存在は、リベラル的な思想の産物ですので、法律というのは、(たとえ民法であっても)可能な限り弱者保護の視点に立っています。本来ならば、たかだか数万単位の契約でも複数業者から見積りを取って比較する必要がありますし、もっと額が大きくなれば公示後に入札に掛ける必要があります(何億円だろうと、その気になれば随意契約でいけるそうですが。こういうのは私の仕事と関係ないわけでもないですが、公務員のことは良く分かりません)。
毎週、金曜日から日曜日まで更新です。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...