第28話 動学ゲーム~第一節~
作戦を立てることは誰でもできる。しかし、戦争をすることのできる者は少ない。
8/1日(月)
雨露に濡れる窓ガラスを、つぶさに見入る。雨は、ポツポツと窓を打ちつけ、その度に波紋を描こうとするのであるが、ガラス表面の抵抗力に押され、不定形な流線を描きつつサンへと落ちていく。
そうした様子を眺めながら、すぐ左右にある窓掩いに視線をうつす。いつもならば日除けに役立っているのだが、今日に限っては使い道がない。日々において世話になっている存在が、急に用済みになったようで。口惜しいような手間が減ってうれしいような、そんな複雑な気分であった。
私たち、5人全員は遅刻せずに済んだ。女子生徒は着替えつつも残り2分で間に合ったそうだが、教師陣は片付けるものがあったので、チャイムとともに教室に駆け込むという羞恥を披露することになった。
時刻は昼前だった。LHRも終わって後は自由な仕事時間である。律子はもう退勤していた。このときばかりは非常勤講師が羨ましい。
朝方は、タキプレウスの知恵に助けられたと思っていたが、その実、タキプレウスは何もしていないことを今となって察する。タキは、ただ周囲の思考を読んでいた。あの中では彩季が最も良い知恵を思い付いたので、彼女に振っただけだ。ところでタキプレウス自身が、その作戦を思い付いていたかについては永遠の謎としておこう。
彩季の知恵に最も驚かされたのは最後の一言だった。まさか、あんな視点を提供されるなんて思ってもみなかった。彼女の言う通りだ。これまでの伝統と言えばそれまでだが、どうして鴨中学校の教師が花火大会の片付けをしないといけないんだ? イベント会場を貸しているのはこっちなんだし、出 店で儲かってる町内会か、もしくは鴨支所でやるべきだろう。
この慣習さえなければ、こんなに苦しい思いをせずに済んだのだ。それを解決したいと決心したのが1時間前。私は、早くも決意が鈍りかけていた。なにかを変えようという気が起きない。昔からそういう風になっているのだし、それでいいのである。
だが、何より。
心の中で相談相手に適任と判断した同僚が、あの田奴だということである。さっきから目の前に田奴が居るのだが乾賢太朗の生来の億劫が災いしてか、なかなか声を掛けづらい情況にある。
「……はあ」
すっくと立ち上がり田奴の元へ。オールバックの髪型に丸眼鏡。目線は鋭い。服装次第では堅気に見えない。が、これでも公務員然とした細かい性格である。加えて、30代前半にして来年度の教科主任に内定しているという噂もある。田奴の同期では一番の出世頭である。
おっと。どうやら立ち話は終わったようだ。職員室中央にある自分の机へと帰っていく。ちなみに、私と律子は窓際族だ。
「田奴先生。ちょっと相談いいですか」
「……珍しいですね、何ですか」
淡々とした物言い。これでも教育熱にかけてはアツい人である。どうでもいいが、彩季の担任でもある。
「田奴先生。今朝、見てたでしょ。あの片付けの習慣っていつからあるんですか」
「……恐らく、僕が赴任するよりずっと前にあります。それこそ数十年前から。片付けだけじゃありません。出店についてもボランティアとして我々が手伝ってます。主に20代前半の若い教師が。乾先生も手伝いに行ったことあるでしょ。使い物にならなかったようですが」
返す言葉もない。しかしながら、何とかして言霊を搾り出さねば道は見えてこない。
「あれ、おかしくないですか。なんで会場まで貸してるのに私たちが片付けるんですか。なんとかしましょうよ」
「……まさか、乾先生の口からそんな言葉を聞くとは思ってもみませんでした」
訝しげな視線で、こちらに視線を差す田奴。無理もない。以前の乾賢太朗はひどかったからな。欠陥教師ぶりを遺憾なく発揮していた。
「どうですか。出来るかは置いといて、ちょっとやってみましょうよ。ほら、夏休みですし。田奴先生も管理職になったら渉外活動とかやるんでしょ」
「あなたが主、僕が副ならいいでしょう」
主、副というのは、同じ職務を担当する職員の役割分担……というより、責任分担である。要するに田奴は、面白そうな仕事ではあるものの責任と栄誉は私に取れと言っている。
「分かりました。じゃあ、僭越ながら提案します。まずは資料を探しましょう。田奴先生は、教員の個人情報のファイルとか、あとコネとかあるでしょ。年配の先生でこのへん出身の人に聞いてみて下さい」
「……やってみましょう。ちなみに、いつまでに終わらせる予定ですか?」
「計画に目星は付いてるんです。出来たら3日以内に。あんまり手間取りたくないですしね」
「……分かりました。それでは」
すぐに書庫に入る。あらかじめ見つけておいた過去の業務記録を読み直すのである。その中の「花火大会清掃一件」という昭和時代のファイルを引っ張り出し、私のデスクへ。この机の約3分の1を占める律子のガラクタ資料を押し退ける。
一番初めのページ。
……挟んであった情報は、清掃の手順にその方法。当時の鴨中学校で購入していた清掃用品の内容であった。清掃活動がうちの担当になった経緯までは書かれていない。
「乾先生? 書庫に居たんですか。経緯が分かりましたよ」
早過ぎる。まだ15分も経ってないぞ。資料を当たるよりも人間同士の繋がりを利用する方が効率的であることの一例である。私も、それを夙に分かっていたから田奴に相談をもちかけたのであるが、ここまで圧倒的とは。
「乾先生が言った条件に該当する人に聞いてきました。この件については僕も前から気になってたんでね。それでは要約します。まず、花火大会は二十数年前に鴨中学校の方から提案しているのです。当時は、いや今でもそうなのですが、田園地帯だった鴨学区は中心市街地に比べて娯楽にあぶれてたんだそうです。しかしながら、人口だけは多くて、例えば鴨小学校には1500人もの生徒が在籍していたそうです」
「確かに。子どもの数は多いですよね。今でもこの地域は、少子化なんてなんのそのって勢いです」
乾賢太朗は鴨学区の出身である。いま住んでいるアパートから目と鼻の先に実家がある。当然、鴨中学校は母校である。
「当時の鴨学区は、中心市街地から自動車で1時間の距離です。そこまで行かないと映画すら楽しめなかった。苦労してそこまで行っても、当時は治安が悪く、例えば子どもたちだけだとカツ上げに遭うことがよくありました。こうして、時代に取り残される児童の情況を不憫に思った地元の町内会が花火大会を企画したのです。」
「ちなみに、どういう成算で企画を?」
「町内会が、鴨支所に要望(※1)に行ったんですよ。そんな彼らの情熱に動かされたのが、当時のハッピーマウンテン市役所鴨支所の若手職員だった音恋朋子……苹樹さんの母親です。彼女を中心としたチームは、本庁への売り込み、企画発表会でのPR、交付要件を満たす県補助金の調査、ゴマすり、根回し……ありとあらゆる手段を用いることで、花火大会についての単一年度の予算は市議会を通過しました」
苹樹の母親は市議会議員だ。そうか、市役所出身だったのか。大成する人は、若いときから違うものだな。
「第1回目の花火大会は来場者3万人の大盛況でした。当時の全市民の1割がその祭りに集まったそうです。その後、鴨中学校が花火大会の運営を手伝うことになったのは音恋職員のプッシュによるものです。田園地帯での花火大会の成功がきっかけになったのかは分かりませんが、市役所は、各支所に観光費を重点配分するようになったそうです。まあここらあたりは、私たちで確認することはできませんが。とにかく第一回目から少しずつ変化があって、今現在では出店関係が町内会、後片付けが鴨中学校の担当になっているということです。ここで確認しますが、名誉的な要素を除けば鴨中学校に得はありません。以上」
完敗だった。今の情報を誰に聞いたのか分からないが、きっと田奴は、ずっと前から問題意識をもっていたに違いなかった。それだけでなく職場全体の業務にアンテナを張っていたからこそ、半ば裏話に近い内容も知ることが出来たのだ。
さておき。次に考えることがある。なんたって、この仕事は私が主なのだから。いや、もしかして。田奴は、本当は自分がやりたいのに、態と私に主を任せている? ヘマをすれば、その座を取り上げるつもりだったりするのか……? よせ。低レベルな考え方はよせ。今、目の前にいるのは仲間だ。
「ゴールを決めたいと思います」
「そうですね」
「ゴールは……清掃業務を町内会か、出来れば鴨支所に返してやることです、うん、常識的には鴨支所に返すのがベターかと。昔はともかく、今現在は投資が実っているわけですから」
「町内会は?」
「あそこは自主事業です。公務員でもないですし、イベントの出店で金儲けも出来る。その関係の取り決めも市とやってるでしょうから、こちらで権利関係に切り込むのはやめましょう。今回はあくまで清掃業務の解除を目的とします」
「分かりました。では……」
「必要な条件ですね」
私はメモ用紙を取り出す。ゴールの条件を書き綴った地点から矢印を繋いでいく。
「ゴールに辿り着くには、交渉成功へと導けるカードが絶対条件です。これについては最重要ポイントですので、初めから終わりまで2人で考えましょう。次に、カードを持ち出すより前に日程を調整する必要があります。まあ、いつ良い手を思い付くとも限りませんし、まずは希望日だけを考えて、あとは交渉案が決まってからアポを取りましょう」
「ふむ。その前に内部で相談しなくては。良い知恵を授けてくれる人がいるのでは? それに僕たちのせいで職場に恥をかかせてはいけない」
「そうですね。まずは校長から説得に向かう許可を得ないと。それにまだ必要な情報を得られるなら他の先生方にも相談を。あと町内会からも知恵がもらえるかもしれませんよ、田奴先生」
「町内会は止めた方がいいでしょう。こちらだけ面倒から逃げているように思われます。それに鴨支所へ情報が漏れるかもしれない。あと、校長らへの相談は不要です」
「どうして?」
「……さっき、僕が話を聞きに行ったのは、校長と教頭です。実は2人ともね、この地域の出身なんですよ。さあ、ではさっさと希望日を決めて交渉案に取り組みましょう」
仕事が出来る、という重みを暗に諭された瞬間であった。
※1……どこの地方自治体でも要望制度があります(はず)。様式に記入して、担当課に提出すると、その課の代表者とお話ができる制度です。昔、仕事で役所に書類を提出しに行ったとき見たことがあります。携帯の電波塔を立てて欲しいと熱心にお願いする山間地の住民と、予算が取れないと一点張りの役所側の構図でした。どういう結果になったかは分かりませんが、こういうのは強力な証拠がない限り、市政、行政側との繋がりが重要なのは言うまでもありません。
毎週、金曜日から日曜日まで更新です。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...