第26話 明日に繋がる~第二節~
「インセンシティブ・センシブル」では柔道描写が出てきます。分からない点は、こちらをご覧下さい。
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ハッピーマウンテン市営総合体育館というのが、私たちがいる建物の正式名称である。その入り口側にある試合場。今まさに、審判団が試合直前の話し合いを終え、解散するところである。
私は、千璃を連れて鴨中学校の待機場所に戻るのであるが、さっきの様子は見られていたに違いない。
「賢先生、大丈夫だった?」
心配する苹樹。そして、彩季の目線の先には千璃。ああ、分かってる。私でも、それぐらい察することは出来る。
「みんな、すまない! 遅れた」
「なにやってんだよ、ウチ、はらはらしとったんじゃけえ。その人、誰?」
烈しい備後弁で捲くし立てるも、律子に咎められてボリュームを下げる調歌。
「ん、一緒の道場なんだ。律子とも面識がある……とにかく。おい、千璃!」
「……大丈夫……ですっ」
共通の知人役の存在を理解し、安堵の笑みを作る3人。
ここで一旦、千璃を試合記録ボードの横に立たせ、鴨中学校のメンバーを集める。この試合のコーチとして登録してある律子。団体戦の選手である調歌、苹樹、彩季。合計4人。
「いいか、先に言っておく。さっきの場面は気にするな。気にしたら負けだ。今すべきことは……分かってるな」
そうして、あらかじめ決めていた通りに円陣を組む。一際、大きい私が、小声で「せーの」を告げる役回りであった。
「おおーーっ!!」
ここまで大きな声量で試合前の号令を掛けるなんて、ウチぐらいのものだ。準決勝に進んだらやることになっていたが披露の機会があって本当に良かった。
ふと見るに、すでに丘野のメンツは、試合場を四角に囲う赤畳の位置まで来ている。主審は、急かすような具合でこちらを見ていた。いけない、ちょっと遅れてしまっているようだ。これぐらいならジャッジの内容に響く内容ではない。せいぜい、教師である私の株が下がる程度で済む。
鴨中学校の3人も、ぎこちない足取りであったが(まだ人生で3回目だから無理もない)、赤畳の縁まで到達したかと思うと、ささっと、はしっこい礼を決める。次いで、試合場の中央での立礼を済ませるべく、内側まで歩を進める。続いて、ステージ方向(上座)に向かって、礼。お互いに、礼。試合終了時は、その反対の手順で退場する。
律子はすでにコーチ席に掛けており、私は、その傍にいる。千璃の様子を視るに、ぼんやりと試合場の方に視線を向けていた。
退場時、赤畳の位置に先鋒である調歌だけが残る。対戦相手は……氷野だ。スラリと伸びる、引き締まったボディ。少なく見積もっても、苹樹と同じ、いやそれ以上(165センチメートル)はありそうだった。対する調歌は、それより20センチメートルは低い。
主審が、両選手に目配せをする。それに呼応して、互いに試合場の外側から礼を済ませる。試合場の中央へ。再び、礼。開始線より、左足、右足と踏み出していく。作法はばっちりだ。
敵を見上げる、調歌。敵を見下ろす、氷野。漫画だったら火花が見えるのだろうな。
「始め!」
ついに始まった。岡山県№1との試合が。さあ、どこまでやれ――
「有効!……待て!」
組み際の送り足払い。早業だったし、タイミングも完璧だった。早くもポイントを取られてしまった。開始線に戻る2人。悔しそうな顔つきの調歌。これはいけない。
「気にしない、忘れる!」
コーチ席からのアドバイス。多分、調歌は聞いていない。
「始め!」
セオリー通りに引き手から取りに良くも、てんで相手にならない。あの氷野という選手、組み手争いが抜群に上手い。虚実、織り交ぜる腕の動きで、調歌の組み手はあっという間にロックされる。
調歌は、引き手しか取れていない。釣り手を取るため、思い切り体を前側へ。
「やめ……」
「止まって! 慎重に、取りにいって! 指導、取られてもいいから!」
いけない、危うく警告を受けるところだった。試合中の助言については、最近になって導入されたルールだし、本当に気を払う必要がある。
「だから、前から後ろに――」
「技あり!」
また投げられた。釣り手(相手の前襟)を取ろうとするあまり、体勢を傾けすぎたのだ。片襟の体落としで、調歌の体はゴロリと緑色の床面へ転がる。
「抑え込みがくるっ! 亀!」
調歌は、さっと亀の姿勢を作った。氷野は、亀の姿勢を解こうと思ったらしいが、すぐに諦める。
みっともないがこれでいい。今の段階で寝技勝負にもち込もうとしても、敗北必死である。だが、調歌は良くもっている方だと思う。あとは、型通りの柔道をしていけば――
「始め!」
疾駆。調歌は、ダッシュを仕掛けたかと思うと、殴りつけるように敵の前襟を取る。そして飛びかかる。大外刈り。氷野の姿勢が崩れたかと思うと、さっと横に向いて大外をいなす。
「……らああっ!」
じわじわと、片足ケンケンで追っていく。ふいに、氷野の長い、長い足が――ブウン、と掲げられる。調歌は吹っ飛んだ。大外刈りは、掛けやすい分、返されやすい技でもある。
「有効っ!」
うつむけになる調歌。氷野は、何もしない。「待て」がかかると、無表情で開始線に付いた。
「調歌ちゃん、型通りの柔道! 心がけて!」
今は試合中だ。調歌の頭の中は、大変なことになっているに違いない。アドバイスの効果も薄れている。実際、調歌に指示を実行するだけのワーキングメモリーは残されていないようだった。
「始め!」
今度も、飛ぶように釣り手から取りにいく。だが身長差が大きいため、そこまでやっても右手を弾かれてしまう。
猛烈な動作で、調歌は自分の組み手を作ろうとする。その運動量のため、氷野も技を狙いきれない感がある。だがそんな小細工、すぐに適応される。調歌。お前に足りないのは――
あまりに強引な位置からの大外刈り。氷野の意表を付く位置だったが、柔道暦3ヶ月のそれは、あまりに錬度が足りない。簡単にいなされ、勢いに合わせて釣り手も切られる。
「があぁっ!!」
彼女のイライラは最高調に達した。おもむろに、調歌の動きが停止する。氷野が動くか、というそのとき。調歌は勢いよくジャンプ! 同じ身長、いやそれ以上となって氷野の奥襟を取った。
「待てっ!」
主審が、開始線で待機する調歌に向けて指差す。
「注意!」
今のは、危険行為。ラビットパンチという反則だ。調歌の動きは、いまやバラバラに近い状態、いや、まさにそれだった。
素早い動きという点は良かったものの、すぐに氷野は慣れてしまった。違う、違うんだ、調歌。たとえ負けてもいいから王道を往くんだ。基本の動作に従い、日々の練習に従い、自然体の己に従う。
勝ちたいからといって、邪道、奇道に走るは、まさに時分の花。一時のごまかしに過ぎない。
「始め!」
調歌は、懲りなく釣り手を取りにいこうとする。その右手が、氷野の襟元に届こうとかと思えば、逆に氷野の大外刈りが、調歌の右脚ひざ裏に食い込んでいた――組み際の、片襟大外刈り。
両手でもって、反対側の襟を掴んで掛ける大外刈りであった。高度というわけでもないが、中学生のやる技ではない。両者の体が近づく中で、タイミングを合わせるのは至難の技である。
ところで、調歌が取った戦略について、奥襟さえ持てれば道が開けるという方向性は正しかった。ところで、仮に組めたとしても力で勝てなければ意味がない。いまの調歌は、そこまでの膂力を備えていなかった。初めから、詰んでいたのである。
「有効、抑え込み!」
横四方固め。敵に対して垂直に覆いかぶさる。右手で首元を、左手で股下を掴んで動けなくする。完全に入っていた。逃げられない。私も律子も、時が過ぎるのを待つしかなかった。やがて、ブザー音。
「技あり! 合わせて一本、それまで」
黒星。それも完敗。予想はしていたが、いざ現実を突きつけられると、もやもやと込み上げてくるものがある。さりとて、それでも鍛えていかねば勝てる見込みもないし、感涙も不可能である。
本格的に感動の涙を狙うは、秋の新人戦。丘野の3年生が引退する一方で、こちらは戦力を残すことができる。そこから先に公式戦はない。なんと次は、来年の6月である。私が、涙を流すことのできる最良の機会はそれであった。
視線を試合場に戻す。鴨中学校の選手側、今は調歌の立ち位置を示す白いテープ。対して、赤いテープの側にいる氷野に、主審の左手が掲げられた。それは勝者を示すサインである。
ぶっきらぼうな礼とともに調歌が退場する。ほんの少し、首をずらすように傾ける立礼。入場時に比べて、退場時のそれはあまりに汚く、相手に対して失礼極まりない。それでも調歌の気持ちは理解できた。私だけでなく、律子も神妙な面持ちで調歌を見ていた。が、さっと気持ちを切り替えねばならない。
毎週、金曜日から日曜日まで更新です。注釈は最終節に。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...




