第26話 明日に繋がる~第一節~
作品中の分かりにくい設定の説明
乾先生については、わざと若者からは好感を得にくい保守的な人格にしています。
元の乾賢太朗は、祖母に土下座して教職のコネを取ってきてもらう、公務員がクビにならないと知っていて仕事を適当にこなす、問題児も放置というポンコツぶりを発揮しています。
対して、乾先生の中の人である私(元)については、対照的にリベラルな人格です。乾先生の肉体の影響を受け、思想的には保守な行動を取りますが、彼よりはだいぶマシです。最近の話でも、実社会の範囲内で積極的に根回し等に動いています。
ただ、危機感に襲われて私(元)の面が強く表れているとき等は、思想や行動が全然違ったりします。
ちなみに、乾先生の容姿については、身長181センチメートルのウリヤノフ・イリイチ・レーニンだと思ってください。
自ら努めて意の如くならざるは天の命なり。自ら怠りて一業をなし得ざるは己の罪なり
7/24(日)
千璃の意図を察することは出来なかった。あれから5分たった今では、あいつの言わんとしていたことを理解できる。彼女は、私に助けを求めていた。蒲原に嫌がらせを受けた友達がいたとして、私にそれを解決して欲しかったのだ。
「出来るわけねーだろ」
オブラートに包んで言う必要があるのだが、はてさて……。
時刻は、すでに11時20分であった。もう男子の準決勝も終わるところだから、女子の試合もすぐに始まるだろう。千璃を探すべく、ひとまず背後を見遣る。いない。廊下側は? これもはずれ。あとは……いた。
ステージ傍で、こそこそと小階段に隠れるような所作を取る、怪しい高校生。私は、何も考えずそこに歩を進めていく。言わねばならない。よおし、脳内でイメトレだ。
「広く、長期的に考えれば、蒲原は体育的な意味で市に貢献しているんだ。そりゃあ、中には不幸な生徒も出るだろうが、それでも全体の利益がそれを上回る。余程に犯罪的なことをしない限り、蒲原については現状維持が正しい」
うん、イメトレではあるが、よく言えたぞ。私は、要するに面倒くさいと思っている。いくら適当な弁解理由を考えようと、その事実は変わらない。
千璃に近づいていく。そんなこと本当に言えるのだろうか。だって仕方ないだろう。蒲原は、連合内でもそれなりの発言力なのに、私なんぞ新人の力でどうにかなる問題ではない。どうにかなるほどの天運なんて、聖書並みのファンタジーである。
距離は、いよいよ近まる。一体、千璃がなぜ隠れているのか見定めがつかないものの、私は、どうしても彼女に吸い寄せられてしまう。
このとき、確かに錯覚していた。羊皮紙上の黒点のように映える千璃の姿形が、私には、罪悪に染まった世界の先導者であるウェルギリウスのように見える。私は、ダンテであった。
一緒に煉獄の山を登り、その後に別れた2人であったが、ダンテと私の違いとは、まず彼ほどには浄められた存在ではないこと、そして、またウェルギリウスに会いたい、と思ったことによる。
人ごみに吸い込まれるように移動して、私は、そろりと、
「おーい」
「しっ! 黙って!」
「どうしたんだ?」
見つかってはならないのだろうか。誰に?
「そこ、そこ」
ん、そこ? ……って、何をしてるんだ、私は! もう女子準決勝が始まろうとしている。今は試合開始前の、主審、副審1、副審2の小規模な話し合いの最中であった。選手は……まだ待機中だ。
女子準決勝の会場。ステージ側で第一試合。入り口側で、鴨中学校と丘野中学校の第二試合が始まる。
危うく、昇級試合の二の舞になるところだった。同僚、生徒の信頼を失ってはならない。
「もう、うちの試合だ」
「ま、待って」
そう告げると、私の後ろに付くように千璃が――ぼろぼろに朽ちた紫色ジャージの背中部分を握って、寸時――
「おい、千璃! きとったんか」
「あ、蒲原先生! どうも」
会釈。千璃は、ただ前に出ると、
「どうも」
「相変わらず、ぶっきらぼうよなあ。見た目はええんじゃけ、もっと女らしくならんとのお」
そういって、蒲原は千璃を眺めるのだが……立場によっては、セクハラ発言である。
「志上先生かあ、いい教師に恵まれたのお」
「そりゃあ、どうも。蒲原先生も、いい生徒ばっかりで羨ましいです」
あんまり、いい関係じゃなさそうだ。
「まさか、部員2人の学校に、うちのレギュラーがいくとは思わんかったわ。たまには帰ってこいよ。丘野におったときみたいに、ビシビシしごいちゃる。毎日、痛そうにしとったけど、志上先生は竹刀なんて使わんじゃろ。昔のお前の顔……」
「ええっと! 監督同士、試合、ともに頑張りましょうね!」
「ああ、新人の先生か。乾くんだっけ。あんたとこもええ生徒おるじゃなあの。宜しく」
社交辞令とともに、蒲原は、アリーナ横の廊下に歩いていく。あっちはトイレだ。試合中はトイレに行けないからな。もし催したら、アドバイスや鼓舞に集中できなくなる。私は……まだ若いから、大丈夫ということにしておこう。
「千璃、大丈夫か。悪かったな、もっと早く言ってれば」
「……いいですっ大丈夫ですっ!」
大丈夫じゃない。人間は、感情に理性を生やす動物だから、情況次第で判断の内容も変わってしまう。さっきは、あんなことを思念したものの、今では千璃側に意見が傾きかけていた。あんな風に、人前で元生徒のメンツを潰すような教師は指導者として相応しくない、という結論が優位に立ち始めていた。
いや。でも我が家に帰れば、また意見が逆転しているのだろうな。それにしても、デジャブというやつだろうか、さっきのシーンには見覚えがあった。まさか……まさか、な。
「せんぱーーーーーーいっ!!」
「ああ、ちょっと!」
声の方向を向く。丘野中学校の女子が、3人ばかり走ってくる。その斜め後ろから、さらに2人。合計で5人。その後ろに……6、7、8……ばかな、まだ増えるだと……。先頭を走る女子が、千璃に抱きつく。と同時に、豊かな胸元への刺激も忘れない。
「こ、こらっ先輩で遊ぶなっ、揉むなー!」
「へへ、いいじゃないですかー」
察するに、10名の女子部員に囲まれる千璃。まさか、ここまで人望があるとは。予想外だった。
「別に、こんなに集まることないじゃない……う、うれしいけど」
「千璃先輩、練習きて下さいよ! 学びたいこと、いっぱいあるんです」
今のタイミングで言ってはならないことだった。すぐさま表情を曇らせる千璃。
「新井先輩の強さ、すごいって聞きました! 教えてください!」
一年生部員だろうか。パリッとした柔道着が瑞々(みずみず)しい。その熱っぽい視線に当てられて、むず痒そうに千璃は困った面持ちを保つのであるが、私は、それを奇妙に冷ややかな寛大さでもって見詰めていた。
「だって、すごいんで! 団体戦でも全勝やったし、全国大会でも3番なんで!」
ヒートアップした備後弁で、まるで自分が千璃のことを最も知ってるんだ、と言わんばかりの恍惚とした高揚感を洩らす千璃の後輩。
私は、部外者というわけでもないが、かといって何もすることがない。ふと、審判団が解散しかけている気配を得る。大急ぎで鴨中メンバーと合流する必要を感じ、踵を返そうとした、そのときだった。
「何しとるん!? 試合やろ!」
冷淡で、なお激しさの募る響き。そこには、井上と、あとの2人――氷野と、草田だったか。
「新井先輩、嫌な思い出があるんじゃないですか? 練習に来て大丈夫ですか」
氷野は、冷たい言い方であった。おいおい、一体、何があったんだよ。物騒な話題はよしてくれ。私には、関係な……いや、違う。“関係ない”を結論にしようとし、はっと立ち止まる。それは予期していなかったことでもなかった。
続いて、草田が開口一番。
「いまは試合前だから簡単に済ませますけどね。蒲原監督に逆らって、星河学院なんかに進学した先輩は、正直、歓迎できない!」
かなりの早口であった。
「……」
沈黙する千璃。周りの空気は冷たい。声を上げたくても、3年生のレギュラーなんて怖くて逆らえないだろう。
さて、私はどう動く? 試合開始まで、あと何分もないぞ……だが、考え抜く。迷いはない。その決意から1秒も経なかった。心臓の温い皮膜を、不思議な情緒が灰色の雲のように通り過ぎていく。
「おい、こんなところで止めるんだ」
「あなたは関係ないでしょ。うちの問題です」
井上。面識は、なくもない。が、ほぼ赤の他人だと言っていい。
「いいや、関係があるぞ。こういうのを試合者や見物客が見ると空気が悪くなる。備後柔道連合の株が下がるんだよ。いいか。自分のために言ってるんじゃない、備柔連の利益のために言ってるんだ」
ああ、なんか久しぶりに大人らしいことを言ったような気がする。ふと、氷野が首を傾げる。知的なムードを漂わす彼女は、私の発言に対するナイスな返球の気配を醸している。
そのときである。僥倖。それが脳裏に舞い降りるのであった。
「おい、そろそろ蒲原先生が帰ってくるんじゃ? 私も、次の君らの対戦相手だからな。お互いに頑張ろうな?」
言うやいなや、逃げるように立ち去る私。千璃の手を引きながら。あとに残された者たちも、しぶしぶ自陣へと帰還していく。
多分、色々と嫌な思い出があるのだろうなあ。新井千璃を尊敬しているあの子たちも、もしや数ヶ月後には、すっかりアンチと化しているのだろうか。世知辛い世の中である。
毎週、金曜日から日曜日まで更新です。注釈は最終節に。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...