第23話 配慮と焦り~第二節~
100メートルはあろうかという急坂を下ると正面に石段が見えてくる。その奥に神社があることは遠目にも分かるが、そこから右に入ったところに3階建ての運動施設があるなど、想像できる者はいないだろう。試合会場は幸原道場だった。数百人を収容できる柔道場なんて市内ではここぐらいのものだ。中はすでに人の山だった。2人組みになって事前練習を始めている者はもちろん、3階の剣道場まで貸し切られて準備運動に用いられている。
音恋さん達も2階柔道場から続く更衣室で着替えた後、3階剣道場で練習を始めた。簡単な体操から始まって、技の打ち込み練習を重点的に。着替え終わった時は開会まで残り20分だったが、開会式でも全体の準備運動などをするので、今はゆっくりと正確さを意識した打ち込み練習をしている。板張りの床だが投げない限り支障はない。今回の試合では、背負い投げや払い腰などの教授は時間的な理由から諦めた。大外刈りや大内刈りなど、ちょっと練習したら何とかなる技だけで臨むつもりだ。だが一応、3人それぞれに将来的に得意となるであろう技ひとつと、その連携技のパターンだけは教えてある。ちなみに、今回も打ち込みで余った1人は律子先生と組んでもらっている。私服に上胴衣のみという光景はシュールではあったものの、別にこれでも生徒の練習は成立するのだからそれに越したことはない。
開会までは5分を切っている。さあ、そろそろあの行列も空くかな。こうして鴨中組は2階まで戻って開会を待つとともに、私は集めた参加費(1人1000円)を大会本部まで運んでいく。幸いなことに行列は掃けていた。
「おお、乾先生じゃないですかあ」
「志上先生」
こういう大会があれば、備後柔道連合の関係者でなくとも狩り出される人員というのは必ずいる。学校教員というのはそれ典型で、星河学院高校の監督である志上もその実例に洩れない。
「正直、参加費1000円って高いですよね?」
「少子化だからねえ、しょうがないね。昔は800円ぐらいだったんだけど」
かぶりを振って志上はそう答えるのであるが、このときを私は狙っていた。
「志上先生。試合が始まって暇になったら声を掛けて下さい」
「うん、いいですよ」
大事な根回しがあるのだ。今日の目的のひとつはこれでもある。そんなことを考えるうちに開会時間がやってくる。
強烈な体格の、どこかの柔道部男子主将と思しき人物が「集合!」と大声で呼びかけるとともに、会場内の受験者はたちまち集まり学校単位で列を作っていく。あの立派な体格は中学生のものではない。大方、近隣の高校だろう。受験者たちが合同で体操を行うなか、(私もそうだが)引率陣が中央奥のテーブルに集められる。これは申し合わせというやつだ。簡単に各自の持ち場と仕事の確認がなされた後で、
「それでは最後に……乾先生は今回が始めてですね」
「はい。皆さん、鴨中学校の乾賢太朗です! 宜しくお願いします」
「宜しくお願いします」と言ってるのだろうか、ぼんやりと霞んだような声で他の十数名の引率者も挨拶を返す。この場にいる人数の半分以上は近隣の中学教師だったりする。これから約一年間、それなりに長い付き合いになる。今日中に挨拶周りをして顔と名前を一致させとかないとな。私は大会の後のほうで行われる点数スタンプを押す係だったから、しばらくは会場中を歩き回ることが出来る。
「乾先生」
初老ほどの、幹部級だろうと思われる備後柔道連合の職員だった。髪も髭も真っ白だったが、若々しい角張りの輪郭がその場の空気に映えている。
「生徒さんも始めてだと思います。サポートしてあげて下さい。例えば、試合前の時間はよく視てやるといいですよ」
「はい、ありがとうございます」
「では皆さん、解散します。ちょっとでも不明な点があればすぐに本部まで」
こうして引率者はそれぞれ配置に付いていく。ああ、いけない。挨拶周りのことで頭が一杯で生徒たちのことが疎かになりかけていた。
私は、さっきの恵体な柔道部員を見遣る。体操、柔軟と終わり、今の段階は……。
「受身っ! 端に寄って!」
いつもこうして受験者合同で基礎練習をするらしい。まあ1人で来ている受験者もいるだろうし、これはしかるべき配慮なのかもしれない。前方回転受身で会場を往復した後は打ち込み練習が行われるらしい。これは各人、自由に相手を見つけて行うスタイルとなっている。もちろん受験者の誰とやってもいい。これを5本ほど行うと聞いている。さて、うちの生徒たちは……。
「1本目、始めっ」
ほとんどのそれは同校同士で行われているものの、我が校の場合は1人余る。他の先生方に挨拶をせねばならなかったが、今は生徒たちに目配せすべき場面だろう。
「ご、ろくっ! なな……」
部井と加目田さんは一緒に組んでいる。音恋さんがいない。近くにいないということは合同準備体操のときに別れたのだろうか? ふと脇を見れば、1人ポツンとしている女子がいる。髪は音恋さんより少し長いぐらいで、耳に掛かって少し下あたりか。切れ長の目蓋が睨む先は赤畳であった。雪のように白く、しかしながら同時に赤みすら帯びる彼女を見詰め過ぎては(事実そうなのだが)小児偏愛との謗りを受けても致し方ない。
「1本目、終わり!」
終わるの早いなあ。まあ20回技に入るだけだし、こんなものか。2本目の開始まで数十秒といったところだろうか? ん、あの背格好は……。
音恋さん発見。高校生と思しき男子に声を掛けるも、すでに相手はいたようだ。心なしか、断った男子の表情に無念さが滲み出ているような気がする。
「おい音恋さん。どうした?」
「声、掛けてるんですけど……」
さすがのコミュ力だ。通知表オール10はレベルが違うな。
「さっきあっちに女子がいたぞ」
「え、ほんとに」
こうして音恋さんはそちらの方に走り込む。もう次の打ち込みが始まってしまうも、ほどなくして声が聞こえた。
「お願いしま~すっ!」
「……」
爛漫な笑顔で話しかける音恋さん。大黒柱に寄りかかるその女子は不思議そうに音恋さんを見遣ったかと思うと、静かに両腕を伸ばし、音恋苹樹の前襟と中袖を摘む。
「1、2、3……」
音恋さんの打ち込みが終わって、彼女の番がきた。後ろのゼッケンには丘野という文字が刺繍されている。これはハッピーマウンテン市内で男女ともに最も強い中学校である。名前は……井上さんというらしい。そして彼女の打ち込みが開始される。これは……袖釣込腰。上級者向けの技だ、というか中学生のやる技じゃねえ。しかも様になっている。ここまで出来るなら、もう黒帯でも可笑しくないんじゃないのか? にも関わらず、なぜ……。
「2本目、終わりっ!」
そんなことを言ってる間にも打ち込み練習はどんどん進んでいく。ええと、さっき確認したところによると音恋さんは2試合目だったな、確か。それを思い出し、残り2人の試合順序も確認するために会場内を歩き回るのであった。
毎週、金曜日に更新です。ゆっくりお読みください(。。)...