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インセンシティブ・センシブル  作者: サウザンド★みかん
第Ⅲ部 影響していく力―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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第22話 迫撃~三節~

「インセンシティブ・センシブル」では柔道描写が出てきます。分からない点は、こちらをご覧下さい。

柔道チャンネル

基礎知識http://www.judo-ch.jp/knowledge/

審判規定http://www.judo-ch.jp/rule/koudoukan_judge/index.shtml

 残りの試合時間は1分と少々。俺は対戦相手である優子とかいう女との鍔迫り合いの真最中だった。こちらも敢えて組みにはいかないし、相手から来ても後ろに下がって回避する。その間、俺は想念していた。勝つための手段は一本勝ちのみ。そして、一回はまともに組み合ってみる必要性を感じていた。これまでやられっ放しだったが逆転の一手を打つには敵人を把握するほかない。そのためには、まず正面から試合を成立させることだ。では、どう組むか? 鍔迫り合いの時間もないが、かといってこちらから打つ手もない。そして組み手争いでは勝てないことも分かっている。危険を冒して釣り手から取りにいくか? ……いや、相手方にそれをさせる。せんというスタイルでいくことにしよう。これまでの少ない経験から勝ちを拾いにいくための簡易な戦略を立てるのだ。


 組み手を誘う→互いに組む→まともにやり合う→起死回生の一手を思いつく→実行→勝利


 単純極まりないが、こんなもので十分だろう。細かい部分は感覚で理解している。俺は、さっと女に前襟を掴ませるべく、わざとらしく前に出ていった。女の表情から察するに、いぶかしげな感情を抱いてはいるものの? ――強烈な衝撃が俺の左胸を襲う。痛い。成功だ。さりとて、そのまま組まれる訳にもいかないから、俺はすかさず自分の釣り手と引き手を確保する。相手とほぼ正対しているから組み手争いもクソもない。大内刈りを掛ける。全く効いていない。相手の重心は高そうだったが、畳に根でも張っているかのようにビクともしない。内股……は、また返されそうだ。他の技も駄目か……? そのとき、敵の躯体が僅かに後ろへと傾き始めるのを見出す。すかさず大外刈りを仕掛けるも不発であった。ぜんぜん駄目だ。敵の体勢は崩れていないし、崩せない。こちらの技は無効。投げることは一切――いや。

 大外刈りが無残に返される感触とともに起死回生の一手が脳裏に舞い降りた。大昔の哲学者も風呂場でこんな気分に高揚していたのかもしれない。俺は、思いきり巻き込むような形を作り、そして互いの身体は一面、緑色の床へと倒れ伏す。ここから、相手はそのまま起き上がろうとするのだろう。まだ立ち上がらせるつもりはない。寝技に移行する。この場の起死回生に必要な仕込みは、ここで行う。俺は、うつ伏せ状態の相手の帯を握ってから腿の辺りに自分の足を差し込んでいく。そうしたなら、密着したままゴロリと回転。うまく身体をすべり込ませるように脱し、押さえ込む姿勢に入る。もちろん相手も海老のように飛び跳ねることでそこから脱しようとしている。対戦相手の脚は俺に絡みついたまま。審判の死角に入った。決行。


「い、いだだあああいぃっ!!」


 少しは女らしい声で鳴けるじゃないか。いま行ったのは、押さえ込みを完成させるために相手の絡み付く脚を解く技術だ。その方法は単純で、貫手ぬきてを作って敵のふくらはぎのあたりに押し付ける。そして、その状態から第二間接の骨部分で存分にえぐるのである。特に反則というわけでもない。


「おい、大丈夫か?」

「遠くで見えなかったが……」

「しばらく休むかー?」


 心配する声から、ローカルルールを適用する意見まで種々のざわめきが周囲から洩れ出でる。それでも女は立ち上がってくる。どうやら休憩は要求しないらしい。開始線まで戻りながら、俺のまなこは自然と敵の頬面を映し出す。

 片目からは落涙の痕が見える。無理もない。試合を中断させるつもりで抉ったんだからな。それを達せられなくとも、ここまで来たならばあと一歩だ。ところで、そういう思惑よりも、まるで修羅界の猛者が地獄界に殴り込むときのような。沸々とした怒りを心内に押し留めようと試みる、そんな強敵の表情に俺の内心は揺さぶられていた。


「始めっ!」


 敵は速かった。電光石火の足踏みで狙いにくるは奥襟。残り時間は僅かに50秒。敢えてそれを取らせた刹那に袖口あたりを両手で持って真下にずらすと、奥襟は前襟まで移行する。そのまま両者組み合うものの、あちらは手が出せない。というのも、俺が双手もろてを突っ張って相手の侵入を許していないからだ。このままでは指導を取られるが、現状ではそれも関係ない。そして視線を敵の面持へと遣る。さっきよりも焦りの色が増していた。推測ではあるが一本勝ちで決着を付けたいのだろう。さあ、こい。俺は手を緩めてわざと右足を半歩出す。せん、取ってみせる。

 払い腰か、大外刈りがくる筈だ。刹那。飛んで来たのは大外刈り。心も体も準備は整っている。その技に合わせて俺の引き手を離すほうが、少しだけ早かった。俺の右脚が刈られるのと、引き手をもっていた左手が相手の股下に差し込まれる瞬間というのは、等しかったと思う。俺の五体はすでに横向きとなっている。大外刈りの効果は低い。


「うおおおおおっ!!」


 俺は絶叫したが外野からも歓声が上がっている。やはり女だった。その身長ほどには重くない。その持ち上がっていく肢体を、俺は直感する。推定で70キログラム少々といったところか。女は激しくばたついて、もはやそれは空中からの蹴たぐりであった。やがて高度は頂点へと達する。その女を投げる先の青畳へと首から下を傾け、視線を向ける。

 それは風車ふうしゃ。それは独楽(こま)。それは旭光きょっこう。頭上の蛍光灯によって、光の交差。単色のプリズムのような視界が開ける最中さなか、時速数十キロメートルで対戦相手は宙を舞う――すくい投げ、開眼。


「技ありーーっ!!」


 畳へと叩き付ける衝撃音に比例してか、審判の声量も大きくなる。

 咄嗟に、俺はいまの体勢の意味を理解する。この強敵にとって、痛みで痺れている時間など無に等しい。すぐに俺は、その意図を行動に移す。


「押さえ込みっ!」


 寝技で決める。試合当初からおかしかった。この女は、俺を投げてからも寝技に移行しなかった。推測だが、それが苦手なのだ。

 掬い投げに入った時点で相手の股下を掴んでいたから、押さえ込みに移行するのは容易だった。というより、投げた瞬間に押さえ込みの形となっていた。横四方(よこしほう)固め。相手と垂直な姿勢で覆いかぶさり、右手で首下を、左手で太腿越しに帯を握って動けなくする。


「優子――っ!! まだ逃げられる!」

「お、おい千璃裏切るなっ!」

「がんばって……」


 5秒が経過した。千璃せんりと、それを咎める志上しかみの声。心配そうに見守る千奏せんかの表情が見て取れるようだ。さっきの脚への貫手ぬきてが効いているのか、優子という女は跳ねて逃げるような所作を取ることもなかった。されども両者の間に片腕を挟もうと奮闘している。油断は出来ない。


「……」


 10秒が経過した。視界の隅に律子が映る。真剣な面持でこちらに刺すような視線を送っているのであるが、ここに来て、乾賢太朗のあがり症が出始める。誰かに見られていると思うと、途端に力が抜けて、もうどうでもいいような気分になってしまう。


「ファイトーーっ!!」

「ファイトっ!!」


 20秒が経過した。揺るぎない声援の声。すっかり悪者ルードなんだろうな、と認識した時にはもう彼女の左腕は両者の間にねじ込まれていた。このままでは確実に逃げられる。あと5秒で勝利だ! 逃がしはしない。


「がああああああああっ!!」


 その雄叫びは、(およ)そ女の声とは思えなかった。俺の頚動脈に突き刺さる女の豪腕。流血したかのような触感。思わず、くるりと身体を翻して咄嗟の回避行動を取る。


「解けたっ!」


 女への惜しみない声援とともに、俺はコロリと試合場を転がる。首筋を確認した。良かった、流血などはない。

 その女を睨みつけながら開始線――白テープまで戻る。さっきと変わらず、目の前の女は、負けず劣らずの冷やっこい鬼の面をこちらに向けている。そうして、お互いの視線が交錯したのはコンマ数秒間のことだったろうが、確かに、確かに俺は女から何かを感じ取った。それは心臓にまで溶け出してくるような、チクチクとする星白色の液体としてその感覚は陰喩されたのであるが、審判が取り始めた所作が視界に入ったことで、すぐ我に返る。


「有効」


 20秒、押さえ込んだからな。続いて審判である宇野は、女を指差すような形を作りながら、


「注意!」


 相手に反則が与えられ、俺には有効相当のポイントが入る。ああ、俺の首根っこにアイアンクローをかましたやつ。あれはさすがに反則か。柔道においては、身体を密着させた状態で力を加えるのは許されているものの、明らかな突き蹴りの類は当然禁止である。ん、待てよ。ということは……これでポイントが並んだことになる。残り時間25秒。引き分けでも悪くない。なんたって、1人で3人も止めたのだから。

 さあ試合再開だ。予想では、目の前の女はさっきと同じく強引に奥襟を取りにくる。今度は恐らく大内刈りだ。それがきたなら、小外掛け――相手のふくらはぎの下あたりを外側から払う――で返しを狙う。そしてもし、払い腰がきたなら上体を切って逃れる。いずれも、その後は寝技で時間切れを狙う。簡易的な作戦を練った時間は数秒の間だったが、それで十分である。


「始め!」


 想定通り。さっきと同じ組み方だ。暴風のような右手をかわすのではなく、逆に当たりにいく。案の定、次に反則を取られると俺の勝利が確定するため、その動きが一瞬止まる。ふわりと動く、女の手。それを視界に収めたときだった、くるりと瞬転、その右手は俺の前襟へと達する。こちらもすぐに組み手を確保し、かくして互いの組み手は完成する。掛かってきた技は……大内刈り。相手がこちらに寄る動作を始めた時点で、俺は小外掛けのモーションに入った。左足をやや浮かせ、右足はしっかりと畳に根を下ろす。俺は、その瞬きほどの時間――といっても、本当にコンマ以下の秒数であるが――を待っている。その無限に分割された時間の中で、目前に迫る女は小鎌に見立てた右足で踏み込むとともに俺の左足を内側から刈る動作を――見せなかった。

 見せなかった、と思ったとき俺の五体は畳から引っこ抜かれて頭から落ちていく最中であった。無音。まるでお伽の国まで行って、そこの特殊な大気にでも当てられたかのような、そういう奇妙な脱力感に襲われていた。夢の時間は一瞬だったが、長かったようにも感じられる。首元から青畳にめり込むように落下していく俺の身体は畳に沿って走る車輪の回転を思わせた。大内刈りと見せかけた内股。完璧である。


「一本、それまで!」


 寸前でかがんだから良かったものの、そうでなかったら病院送りだ。俺たちは周りの歓声を浴びながら、作法によると、合計2回行われる立礼を完了させた。腰元から曲げて30度。時間にして数秒足らず。

 これは段々と面倒くさくなってくるのだが、この礼の意味を理解できたときスポーツ選手として一歩だけ次の次元へと到達する。だが高校生にして、それを理解しているとでも言わんばかりの優子という女性の礼儀作法に、こちらとしても完敗した気分だ。負けても清々しいなんて。こんな気分を味わったことは一度としてない。


「乾先生、格好よかった~」


 千奏、やめてくれ。俺は負けたんだ。今はそっとしておいてくれ、とでも言わんばかりに手をぱたぱたと振ってみた。その場から離れようと思った、そのとき。


「優子に何してんですかああぁーーーーっ!!」

「うげえっ!!」


 両襟を掴まれてからの千璃の揺さぶり攻撃。今の俺には吐き気を催させる。ふと視線を下げ、20センチメートル下の千璃の顔をぼうっと眺める。白シャツのもとで嵐にたなびいて揺れる椰子(やし)の果実。嫌がおうにも視界が捉えようとしてしまう。止めろ、は男なんだぞ。すぐに反応するんだよ、お前たち姉妹の尋常じゃない肢体には。


「離せっ!」

 

 強引に振りほどいて俺は、足早に一直線。目指すは……。

 道場奥。板の間スペースにそれはいた。段差があって観客が腰掛けるようになっている場所。優子はそこにいた。そばに誰もいない。みな、定例試合に夢中になっている。


「よう、強いな。驚いたよ」

「……」


 無視かよ。


「ごめんな、でも嘘はつかない。敢えてグリグリしたんだ、俺は。勝ちたかったからな」


 その言葉に偽りはない。その言葉に反応するように彼女はこちらを振り向く。


久間野くまの久間野優子くまのゆうこ


 耳元で常軌を逸する世界が砕け散っていくような気がする。俺には何も返事できなかった。汗で濡れそぼった眉目秀麗の雰囲気を抱く顔立ちに、俺の世界は砕けたのだ。途端、千璃相手には辛うじて我慢できていたものが今ではすっかり血液の固まりとなって、それは屹立の寸前であるという確信を抱かせた。この力に逆らうことは誰にでも要求できる性質ではない。俺は男の体のむっつりとした実直さとでも言えばいいのか、そういう衝動を堪えつつ、女、いや久間野さんへの返答を模索していた。


「新しい人でしょ?」


 いけない、早く返事しないと。奥底から響くものに耐え切れるだろうか。


「紹介が遅れた。いぬい。乾賢太朗だ。宜しく」

「……宜しく。あんまり、痛くしないで」

「……っつ」


 黙って振り返り、歩き出す。頭の中とか、下半身とか、ヤバイものは幾らでもあった。そうして歩いていたら、やがて板の間の柱にぶつかりそうになる。そこで腰を下ろして右手で額を抱え、しばらく思惟に耽ることにした。

 全ての試合が終わったのはそれから1時間後だった。いま、は律子の乗用車の中にいる。映りゆく信号機を見詰めながら、思う。私たちのチームは勝利を収めた。久間野さんは、いつもなら4人抜きはしており、その勢いは止められないはずだったが今回は私との試合の後でリタイアした。そのお陰か志上チームは前回の雪辱を果たせたというわけだ。あのとき。あのとき、もし別の手段を用いていたなら私は勝つことが出来たろうか。いや、ない(反語)。あのときの私はあれで限界だった。私(元)のテンションまで無理やり戻して臨んだものの、結局は敗北を喫することとなった。強い奴など幾らでもいる。選手としては理解していて当然のことなのだが、それでも悔しかった。あと一歩で、少なくとも敗北はしなかったのである――もういい。今日は早めに寝よう。明日は楽しい土曜だし、律子との用事もある。あぁっ! とにかく上手い飯でも食って、それでもう忘れるのだ。それに向き合えるだけの心の余裕が生まれたとき。そうなって初めて、存分に考え込めば良いのだ。夜のとばりは深まっていく。

 (第22話、終)

毎週、金曜日に更新です。ゆっくりお読みください(。。)...

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