第20話 血の乾き~一節~
急がす休まず。
4/30(土)
部活申請書を完成させ、残業中の学校事務員に渡したのは昨日の夜8時のことだった。事前に他の先生方に相談しながら作成したものだから、間違いなく通る代物だといえよう。それなりの根回しが必要かと思っていたが、他の部活の練習場所を取るわけでもなし、かつ鴨中学校としては部活働を推奨する方針だから、今回は事前相談に回るだけで済んだ。日本的な文化ではあるが、当人同士の意思の調整は本来の場ではなく、その裏側にて行われるものだ。要は申請書を出した後、水面下で行われるであろう議論を先に終わらせておいた、という話である。
もう午後4時を回っている。他の部活はとうに練習を終えており、体育館には私1人しかいない。わざわざ、この時間を選んだのは……
「おーい、いぬー」
集まってきた。先頭から部井、音恋さん、加目田さん、そして律子。その手には、近所のスーパーで購入したであろう菓子類、ジュース類の入ったビニール袋が握られている。本日は、立ち上げ記念ということで、小規模ながらパーティーを行う手はずとなっている。もう体育館を使用する部活はないし、此処に来そうな教師もいない。心の共有を図るにはもってこい、というわけだ。だが、その前に……。
「ええーーっ、畳、敷くん? 聞いてないよ……どこに敷くん?」
その説明を受けて部井は、面倒くさそうに文句を垂れている。いま私が座っているのは、体育館のステージ上だ。柔道部の練習は、この壇上のスペースに約三十畳分の畳を敷き、そこで執り行う。さて、パーティーの前に柔道部についての説明を始めようか。
私はステージ下に指先を向ける。3人とも、その先が床下であることを確かめる。そこから指先を移動させていき、やがて私の指はステージへと上がる階段のところ、体育用具入れを指す。
「そこに畳が入っている。それを、毎回の練習開始前に皆で敷くんだ」
「えぇ~~!!」×3
律子は何も言わない。想定済み、というやつか。
「無意味な行為じゃない。意味がある。それに先生たちも手伝うから安心しろ。ちなみに部室は確保できなかった、すまんな。着替えは他の部と一緒に体育館の更衣室を使ってくれ。そして、練習時間は他の部活と一緒だ。すなわち、5限までの日は3時半から6時半。6限までの日は4時半から6時半だ。7時完全下校な」
「ええっ! 部室ないの!?」
「ない。結果を出したら校長に交渉してやる。ごめんな……」
部井は終始、文句を言ってはいたが、一応は納得してくれたようだ。音恋さんも、加目田さんも黙って話を聞いている。本当に納得してくれてるのだろうか。部井みたいに自己主張してもらった方が楽なんだが。
早速、青畳を敷く練習が始まった。女子3人は用具入れから青畳を取ってくる。音恋さんは1人で持てたが、あとの2人は一緒に運んでいた。私と律子はステージの上からそれを受け取り、それらを敷き詰めていく。3人とも私服で来ていたが、幸い、動きやすそうな格好なのは好運だった。
「もお、キツイ! いぬ、上と下かわって……」
「……」
そんな部井を、黙って見つめる加目田さん。加目田さん、よく見たら余裕そうだな。1人でもいけるんじゃないのか? と思ったが、年頃の女性にそんなことを言えるはずもなく。
「と、部井さん。運ぼうよ……」
「うるさいっ!」
「ご、ごめんなさい……」
指摘する必要まではないと思うが……今のは、どちらが悪いとも言えない。周りを見て取れば、畳は半分まで敷き終わっている。今度は教師が下側をやろう。
「あ~っ! 重たい~~!!」
「……」
下側の方がキツイと思ったら大間違い。上から青畳を取る方が力を要するのである。
やはり加目田さんと一緒に運んでいるのだが、あまり息が合っていないようだ。その原因は、主に……両者にある。部井はガンガン運ぼうとして加目田さんの方を見ていないし、その加目田さんは、正確に持ち運ぼうとし過ぎて、部井の方を見ていない。
その一方で、音恋さんは流石の運動神経を発揮していた。女性が青畳を持ち運ぶのに際して、例えば律子の膂力などは信じがたいものの、スポーツ推薦で大隈大学に進学できたのならば、まだ納得がいく。ところで、音恋さんはまだ中学生にもかかわらず、重さ15~20キログラムのそれをすいすいと運んでいる。律子から畳を受け取る際は、腰を曲げるのではなく、そのまま腰を垂直に落とし、畳を掴んだらそのまま身体を密着させ、脚の力を使って持ち上げるという、より少ない負担で畳を移動させるコツをすでに掴んでいた。さらにいえば、律子と作業をするのは初めてだというのに、その澱みない所作には驚かされた。
部井と加目田さんが、最後の1枚を息も絶え絶えにステージの端へと置いたのは、作業開始20分後のことであった。
「20分か。これなら、15分程度には縮減できそうだな」
「縮減できそうだな……じゃねーよっ! こんなの毎日やってたら練習にならんしっ!」
「なる」
部井は憮然とした表情で私を睨んだ。説明してみろ、とでも言わんばかりである。
「賢先生、わたしも、きつかったなあ」
音恋さん。息ひとつ乱さず、そんなことを言われても。律子も当然ながら余裕だ。
「いいか。状況にもよるが、2週間~4週間くらいは、ずっと受身の練習だ。身体的な負担は掛からない。ついでに、私の指導では筋力トレーニングの時間は設けない。やり方は教えてやるから、各自、家でやってくるんだ。そういうわけで、しばらくは耐えろ。そのうち慣れるから」
「いぬっ! ふざけんなあああああっ! 畳ぐらい、いつも敷いとけっ!!」
「いぬ先生、ひどいです……」
「賢先生、分かりました」
もの分かりの生徒たちで本当に良かった。さて、それでは月曜日からの練習の前に……。
「よし、みんなっ! そろそろ立ち上げ記念パーティーをやるぞっ!!」
待ってました、と言わんばかりに3人とも、いま買ってきたばかりの菓子類に群がり始める。
「待てっ!」
律子だった。それは柔道の待て、の号令と同じ発音。
「……畳、片付けてからね」
女子生徒3名がうな垂れる様子を私はまじまじと観察してから、ステージ下で青畳を受け取る準備を始めた。今回は下に居よう。片付けならば、ステージ上側の方が楽だからな。
片付けが終わったのはさらに20分後だった。疲労という負の効果と、慣れという生の効果が相殺し合っているのだろうか? 皆、疲労困憊した様子はない。私たちはステージ上に円を作り、その中央に菓子類、ジュース、お茶などを置いていく。私は、軟揚げポテトチップスと印字してある袋を開けて飲み物を注いでいこうと思ったのだが、さて律子が紙コップを配り始めるのを察知した。気が利くじゃねーか、と思った次の瞬間。酒席(?)は完成していた。
……沈黙。私が音頭を取らねばなるまい。
「えー、皆さん。これから辛いことの方が多いですが、それも主体的な努力……」
「乾先生、カタイ、カタイ!」
律子の指摘に気恥ずかしくなった。また沈黙が支配する。いけない、乾賢太朗の悪い癖だ。すぐふてくされるんだから……。気を取り直し、もう一度音頭を取るために私は開口する。
「えー、皆さん。これから、良いことも悪いことも沢山あります。色々なことがあります。挫けないよう努力を続けることで、良い大人になって下さい。それでは……」
「かんぱーいっ!!」
あっという間に、楽しい時間は過ぎていくのだろう。2時間もないだろうな。それでも今は、この時間を楽しみたい。なにせ教師冥利を感じる、数少ない瞬間なのだから。
トン、トン。擬音にするなら、こんな感じか。律子が指の腹で、私の肩を叩いた音である。振り向けば、律子が何やら微妙な表情でこちらを見ている。
「な、何ですか?」
「すいません、会費を忘れていました。みんなも」
ああ、そうか。いけない。大事なことを失念していたな。あとで律子にお金を渡す予定だったが、まさか生徒からも取るとは。まあ、こういうのもありか。
「幾らですか?」
「1人3千円です」
「なん……だと……」
落ち着け、これは何かある……駄目だ、先が全く読めない。そうだ、アレだ。思考が煮詰まったら、全体をぐるっと見渡してみよう……3人とも、3千円を律子に支払っている。だが、菓子類の総額は3千円ぐらいだ。生徒たちもそのことは分かっている。導き出される結論は……。
「おい、律子」
「はい、何ですか? 乾先生」
「ほら、3千円」
私(元)が大学生のとき、こういうのをやったことがある。みやこ市内の研究発表大会だった。ゼミメンバー全員がネットカフェで缶詰になるための資金を捻出するため、教授を飲み会に誘い出す。費用については1人千円しか掛かってないのだが、ゼミメンバー全員から1万円を徴収し、後で返す。教授から貰った分は返さずに、ネットカフェ代に充てるというわけだ(※1)。その代わり、教授については顔を立てる形で、これでもかというぐらいに接待しまくる。そして次回も来て頂けるよう、満足して帰ってもらうのである。これは、してやられたな。
それから私達は、小規模ながらも1時間強の時間を満喫した。恋愛や勉強など他愛もない話ばかりだったが、中学生にとっては、いや、私たち教師にとっても大切な時間であった。はっきりいって良い生徒が集まったと思う。彼女らを鍛えることで私には未来が開ける。私(元)の存在がどのようなものであったか、未だ全容を思い出すことはできない。だがなんとしても、元の自分の体にクオリアを帰還させるのだ。そして私(元)の生活を再び開始するのである。今日。今日こそが、その始まりの日なのだ。
毎週、金曜日に更新です。ゆっくりお読みください(。。)...