第20話 血の乾き~二節~
我が家(メゾン滝口)に帰ったのは午後7時であった。今日は楽しかったが、来週からの練習開始に向けて指導計画を立てねばならない。律子にも協力を頼んであるが、それは指導の後半の方だ。女子柔道の組み手や近未来的に得たる技の種類など、応用的なことを指導してもらう予定となっている。よくよく考えるに、柔道の名門大で参段を取るほどの女性が指導してくれる環境なんて、岡山県内、いや全国的に見ても珍しいんじゃないか? とすると、音恋さん達は相当に恵まれていることになる。まあ私も律子も指導するのは初めてなので、お互いにお手並み拝見というやつだ。
そういえば、立ち上げたばかりの柔道部について何かアドバイスをくれるような人がいればいいな。当たり前だが、市内の中学校の先生方にもコネはないしなあ。アドバイスをくれる誰か、誰か……あっ! と想念するやいなや、私は心中に願力を発する。
「遅いっ!!」
タキプレウス。もう一週間は呼んでいない。誰かを忘れているなと思ったら、それは彼女であった。そうだ、私には相談役が付いているんだ。
「ごめんな」
「謝れば済むと思ってるだろ」
「思ってないよ、思ってない」
憮然とした表情のままタキは、そのままコタツの中に入っていく。もう春も半ばだし、電源コードは仕舞ってある。
「さーむーいー!!」
ぱちくりとした、切れ長をなす眼。鼻は低く、口吻はやや細い。漆黒に煌くロングヘアーに、これまた魔女が着てるようなワンピースタイプの衣装の腰元には、薔薇の形をあしらったリボンが主張している。まごうことなき、美少女というやつだ。可愛いから絵になるが、本来は蹴り飛ばしたくなるのだろうな。それから4回ほど謝って、ようやく許しをもらえた。
「それで、悩みは柔道部のことだな?」
彼女は人の心を読むことが出来るという。私も、ついうっかり良からぬ妄想をしていまい、タキの琴線に触れたことが幾度もある。
それはそうと、私は一週間前に書き留めたメモに視線を遣った。それは冷蔵庫のドアに貼ってある。
「それは違う。また迷ったら相談するよ。聞きたかったのはな、うん。クオリアの働き方についてなんだ」
「違うのか? まあ、質問してみろ」
タキと私は、コタツの卓越しに1メートルほど離れた位置に対座している。彼女の読心については攻略法があって、要するに、心の表面に何か別のことを思い浮かべればいいのだ。そうすることで、ある程度は思いを隠すことができる。
「乾賢太朗の脳って……入れ物みたいなものなんだろ? 確か、素質の器とかいったか」
「そうだ。あらゆる体組織、すなわち血肉の果たす役割は思考なり運動なり、その機能を意志に対して提供すること。意志とはつまり、霊魂とも呼べるもの。クオリアのことだな」
「ああ、それでさ。思考や運動という機能を提供してるんだよな? でも、実際に思考とかしてるのって、脳だよな?」
「……まあ、そうだな。クオリアの働きとともに、脳内で化学物質が活動しているのは確かだ。物質界の働きだな」
そこで私は一旦、タキに向き合った。残り時間は、あと10分程度。時間は充分にある。タキは私の思考を読めるわけだから、私が言霊を発するより少し前に心を開放することで、少しでも回答し易くなるのでは、という個人的配慮だ。
「んん~~?」
タキがコタツから脱する。そのまま卓に膝を乗せ、こちらへと顔を近づけて来る。
「良く分からないな~」
そう言って、私の数十センチメートル先まで迫り来る。乾賢太朗の素質の器が行動を起こそうとしている。彼女の吐息を嗅ぐためである。その本来的な欲求をぐっと堪える。
胸元が危なかった。いや、実際に覗こうと思えば出来たろう。だって、彼女のバストなんか無いに等しいんだから。問題は、なぜいつも私の考えを覗こうとして、こんな――ぶしえええええええっ!!
「なにを考えてる? 精神的セクハラは禁止だって言ったろうがっ!!」
詰めが甘かった。つい想像してしまったのだ。膨らんでいるか、いないか。それぐらいの大きさの、彼女の乳房をイメージしてしまった。言葉的な想像だけなら、まだ何とかなったかもしれない。だが実際に弄くった際の肉感まで想像してしまったのだ。そりゃあバレもする。
「すまなかった! でも、タキが近づいてきたの……げあぁっ!!」
さっきの一発目は左のストレート。二発目は膝蹴りだった。しかも、両手で私の後頭を掴んでの攻撃。私はなす術も無く、鼻穴からの流血を止めるべく卓上のティッシュに手を伸ばす。と思ったら、タキに思考を読まれたらしく、その手を左の腿肉で押さえ込まれる。タキの体勢はコタツ机の上に乗ったままだった。右足はコタツ机を跨ぐような格好となっており、その両手は私の両肩へと乗せられている。
「言い訳するなよ、ん?」
私の脳内で、戦心がその芽を急速に育みつつあった。駄目だ、勝てない。こいつは人間じゃあない。神の使い。勝てないんだ、少なくとも今の私では。
視界の中心は自然とタキの脚だった。太いな、意外と。成人女性の平均並みか? 身長は部井よりも少し高い程度なんだけどな。おい、こんなこと考えていいのか? いいのだ。だって、もう何度殴られようが同じことだし。とは言いつつ、痛みを感じたくないのもまた事実だから、今の私の心の表象は、ずっと授業の週間指導案の表紙ページであった。
「また、変なこと考えてるな?」
タキの太腿は、さっきと変わらず私の右肘を押さえ付けており、はみ出した脂肪は、だらしなく机上に寝そべっている。その状態で、私よりずっと背が高くなったタキが真上から見下ろしている。ああ、タキもずっと、こんな気分だったんだな。無意識だった。その脚の曲線に視線を遣る。ここにいるのは、小さな女だ。私は、見上げるのがこんな美少女で良かったと、心の底から思っていた。
「……」
「……」
私の思考を読んでいるに違いない。手を出してこないのは何故だろうか。まさか試している? さっきの鼻への一撃が効いている。未だに血が溢れ出て止まらない。ポタポタとコタツ布団に垂れていく我が血液だったものを見詰めながら、私は思う。
このままでは、絶対にいけない。断じて行えば、鬼神も之を避くという。今はこんな故事しか頼れるものはないが、それでもやる。一矢報いてやる。いま私は、そうすることを、決めた(・ ・ ・)。そして私は、脳裏でインスタントな策略を想起しつつ、心の表面部分ではタキに対する褒め言葉をこれでもかというぐらいに積み重ねていく。
「瞳孔が綺麗だ、肌が瑞々しい、清楚な雰囲気を醸している、肢体の流線にそそられる、足踏みを窃する仕草が可憐だ、徒ごとに興じる様が愛らしい、清流の流れのように涼やかな髪、あとは……」
さっきから、タキの表情は少しずつ緩んできている。そしてインスタントな策を、いま仕方思いついた。そのまま私は、タキに対して下卑た視線と笑みを送ることにする。可能な限り、卑猥な妄想を脳内展開してやる。それは数瞬後のことだった、タキの拳が振り下ろされたのは。それを後ろに仰け反るように交わして私は、タキの左太腿、私の右手を押さえ付けている――それに齧り付く。
「あアァァッ、痛い、いたいぃっ!!」
柔らかい。そのまま食いちぎっても栄養になるんじゃないか? かと思えば、吐き気がする。急に気分が悪くなった。何なんだ、この感覚は? 太腿の肉……とは関係ないはずだ。当然、食いちぎってなんかいないし、全身に毒が回るとしても早すぎる。やがて、タキの感触が消えたことを察する。これは以前やられた、気配どころか存在までを消す技だ。いけない。このままでは確実に……もうこれは失敗だ、やられる。
その両手は、私の両頬を掴んだ感じがする。タキの気配がよみがえる。その場所は変わらず、コタツ机の上。その瞳を見る勇気はない。体温が、どんどん下がっていく感じがする。鼻血が出ていることもすっかり忘れていた。相変わらず、両の鼻から流れ出るそれは、絶えず布団に赤黒い影を残し続けている。タキの気配が近付いてくる。そして再び、その吐息が私に掛かり始めた。私は、理解する。タキは、さっきの仕返しとばかり、私を噛み返すつもりだ。一体、私のどこを噛み切るつもりなのだろうか……。その感触は、あたかも水分のようであった。いや、水分だという確信が私にはあった。何かが。何かが、私の鼻の回りを拭い続けている。そして、それに感づくには10秒以上を要した。その感触の正体は、タキが私の鼻に口付けして、その血を舌で拭き取る光景であった。その小さな舌は、鼻の穴の奥まで潜り込み、鉄の味がするであろう液体を丁寧に舐め取り続けている。時間の感覚は機能していない。
タキプレウスの長い接吻が終わる。その口吸いの仕草が終わる間際、タキの口吻が鼻腔を離れる際に伝う淫らな液体が、おぼろげに視界へと入ってくる。不思議な気分だった。タキは、満足そうな顔で私に語りかけようとしている。
「……分かったか?」
「……え?」
「いま、私に対抗するという意志を決めただろう。心内の諸概念について、その真の在り方を確定する。それがクオリアの役割だ。そこから先は、また本人の素質の器による」
「要は、何かを決めるのがクオリアってことだろ。回りくど――うぐっ!」
タキのベアークロー攻撃が私の首筋を捉えている。ふと、彼女の左腿を見遣る。そこには紫色した動物の歯型が刻まれていた。間近に迫る少女を写真に収めたならば、そこには見まごうことなき、児童虐待の痕跡。
「お前の、そういう反骨精神。嫌いじゃなかった。ああ、乾賢太朗のことじゃないぞ。元のお前のこと」
そう言って、タキは時計を指差す。もうお別れの時間か、早いものだ。タキは私に視線を戻す。
「嫌いじゃないといったな。いや、むしろ好きだと思ってる」
「ああ……そう」
タキプレウスの姿が霧のように映ったかと思うと、私以外、もう誰もいなかった。
(第20話、終)
※1……この場合、その1人の負担分について、1人当たり金額をP、人数をn、少なく出す人の割引率をrと置けば、
多く出す人の負担額=P(1+r(n-1))
が成り立ちます。今回の場合、r=100%なので、この公式はP×nとなって、酒席代を乾先生1人で背負うことになります(。。)…
筆者の大学時代を回想していますが、人間関係が壊れるので、あんまりやらない方がいいです(。。)…
毎週、金曜日に更新です。ゆっくりお読みください(。。)...




