Episode:1 奇妙なウワサ
9998……9999……10000!
広い道場の真ん中で腰を捻り、ゆっくりと身体全体に力が行き渡るのを感じて渾身の正拳突きを繰り返す。
そのあとは部屋の隅にある遺影へ手を合わせ、しばらく黙祷をする。
遺影に映っている写真は私の祖父、遊亀逍。彼は山奥の屋敷に住んでいた。そして私に遥という名前を授け、消えた両親の代わりに男手一つで支えてくれた存在だった。
この日々の鍛錬も、そんな祖父から受け継いだ習慣だ。祖父が亡くなった今でも、毎朝これを続けている。
そして、家を出た。良い汗を流した後の日光というのは気持ちがいい——だというのに、今日は生憎の悪天候——それも霧に満ちていた。
「最近多いッスねー。昨日雨降ったってワケじゃないし……山だとしてもおかしくないッスか?」
見渡す限りの濃霧——学校までの下山の道すら不明瞭であった。
そういえばこんな噂話を聞いたことがある。
『霧の深い日の夜に、青い花畑に向かうと殺人鬼に襲われる』——と。
なんとも胡散臭い話だが、どうも最近は霧の出る日が多い。それに行方不明者も出るってことだから不安がって根も葉もない噂が立ち上るのだろう。
——だが、もし仮に殺人鬼の噂が本当だとしたら、私が退治してやりたいと思う。
私が日々鍛錬しているのはそのためなのだから。亡き祖父の代わりに不安に怯える人々に笑顔を与える——それが私の求めている強さだと信じて。
放課後、さっそく私はその噂を確かめに例の場所へ向かった。
青い花畑は、家から少し歩いたところにある。祖父はその場所を『蒼の花園』と呼んでいた。
森に囲まれた野原が青白い花で満たされているという光景は、誰がいつ見ても目を奪われるものであった。
しかしその道中、私は早くも殺人鬼らしきものと遭遇するのである。
——なにかが、いる。
そう感じ取ったのは不自然な枝葉の揺れからだ。
濃霧の森林、姿を捉えることはできない。されど、音を誤魔化すことはできない。梢を揺らす音が近づくたびに大きくなる。
(来るっ!)
余波、即ち刃と拳の邂逅。
山勘で突きあげた掌底は獲物の軌道を逸らし、頭上で切断された大気が悲鳴を上げた。
拳と刃が二合三合と交わり合い、やがて霧の中から敵対者の要望が露わとなる。
「む、——汝は何者じゃ?」
霧の向こうから現れた者が呟く。その声は私と同じくらいの若い女性のものだった。
手にした武器は薙刀で、桜のように淡い赤を混ぜた白髪の女性。和風な姫カットと真紅の瞳はどこか惹き込まれるような魅力を醸し出している。
警戒的のため間合いを取ると、女は独り言のように問いかけた。
「確かに反応はここにあったのじゃが…………人違いであったか。——ハチマキ娘よ、何か知らんか?」
ハチマキ娘……私しかいないか。そういうそっちはセーラー服なのか和服なのかよくわからない珍妙な服装なんだけど、それは置いといて——。
「何か知らんかって言われても……だれのことッスか?」
「おっと、それは失念しておったの。すまぬすまぬ——この辺りで『角を生やした男』を見掛けなかったか? ということだったのじゃが」
なんとも古風な話し方をするこの人は、どうやら人を探しているらしい。
——それも角を生やした、なんていう特徴を持つ男を。だが私にはそんなもの見たことも聞いたこともない。
だが、その角の生えた男が例の殺人鬼のことを示している可能性はある。
「知らないッスねー。ただここらで殺人鬼が出る——なんて噂は出てるッスよ」
果たしてどうでるか。もしこの二つが同一人物であった場合、相手は殺人鬼の身体的特徴を知っていることになる。
それが実際に見たのか聞いた話なのかはわからないが、より情報を知っている人に聞くことができるなら上々だ。
「殺人鬼……確かにそういう見方もできるか。それで、そやつの場所なら知っておると?」
「はい、そうッス。このままこの方向を真っ直ぐ向かうと青い花畑があって、そこに例の殺人鬼が現れるって噂ッスね」
「まことか……⁉︎ 感謝するぞハチマキ娘よ」
「っと、ちょっと待つッス! その、あっしも例の殺人鬼を探してて……ついていってもいいッスか?」
「……それは駄目じゃ」
「は、なんで?」
「汝、多少は武の心得があるがその程度では妾には足手纏いじゃ。悪いことは言わん、すぐにここから離れるがよい」
そう言って薙刀を持った女は花園の方へ向かっていった。
しかし、ついてくるなと言われても……私は道を知っているし、もともと行くつもりだったんだから彼女に止めようがないのだ。なので当然、私は彼女とは違う道から花園へ向かうことにした。
*
蒼の花園に到着。
——そこだけは、何故か霧が晴れていた。
「角の生えた男……汝の目的はなんじゃ?」
既に戦いは始まっていた。私は茂みに隠れて戦いを注視する。
相対する二者。男は黒い瘴気で覆われてその貌を秘匿している。
だが、ぼんやりと——男が笑みを浮かべているのを感じた。
「答える気は……ないようじゃの!」
クラスター弾さながらに盛る火花。
私には戦いの軌跡までしか目で捉えることはできなかった。
「獲ったッ!」
一閃——。男が霧散する。
「うわ、つえー! 何やってたかも全然わかんなかったッス!」
戦闘の終了を確認すると、私は薙刀の女に駆け寄る。
——しかし、彼女はまだ警戒を解いていなかった。
「下がれ! まだ終わってないぞっ!」
その言葉が耳を通った次の瞬間には、霧散したはずの影がすぐ目の前に来ていた。
「うぁ——ッ⁉︎」
全身を震盪させる衝撃が私を吹き飛ばす。
木の幹に叩きつけられ力なく崩れ落ちる私の身体。男は薄ら笑いを浮かべながらこちらに向かってくる。
「汝の相手は妾じゃ!」
横から入る薙刀も虚しく空を掠め放り飛ばされる。
——調子に乗っちゃったなあ、私。もっと、強くならなきゃいけないのに。
脳裏に浮かぶのは祖父の背中。あれほど大きく、多くのものを背負えるような人間に私もなりたかった。
視界が影に呑まれていく。ぼんやりと空を眺めると、黒く暗い雲が低く連なっていた。
——ゴロゴロと、雷が嘶くような音を立てる。
どこを見ても光なし、悔恨と絶望の体現のようなこの世界——だが、諦めるのは私にはできなかった。
「まだ、終わりじゃない!」
死力を尽くした決死の反撃。一方的な蹂躙をする側に立っているものに——せめて、驚愕の貌を。
「————!」
ぼやけた輪郭、だけど確かにその影には驚愕のカタチがあった。私だって意地がある、覚悟がある。
男に馬乗りになって拳を構える。
打つのは渾身の痛撃だ——。集中全開、時間が圧縮されたような感覚。
「おらぁ!」
拳を振り下ろす。
だが——その永い刹那で、一条の光が私を貫いた。
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本作品の更新ペースの予定をこの場で伝えさせていただきます。
更新の方式としては「一章ごとに毎日投稿」をベースとした形をとらせていただきます。
つまり、次回から1日ごとに1話投稿するのを章が完結するまで行い、それから次の章が完成するまで休載するということです。
毎日一話ずつ追いたい人も、まとまった話で一気に読みたい人も、それぞれのニーズに応えれるようにと考えた方式です。
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