アイザックの笑み
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マイネンシュトシュ公爵家はロッタ王国の建国以来存在している、押しも押されぬ大貴族だ。
しかしながらその領地から上がってくる収益は、赤字になることこそないものの他の公爵家と比べれば明らかに少なかった。
その理由は、現在公爵家が蛮族達の居住区域と魔物達が暮らす魔境と接しているためである。
これは言わば領内に常に二つの戦線を抱えているようなものであり、これら二つにかかる戦費はそこから得られる多少の利得では到底埋め合わせができないほどに大量の赤字を垂れ流している。
かといって戦いを終えることもできず、騎馬民族達が暮らしている北方に関しては公爵自らが出陣しなければならないという厳しい状況が続いていた。
だがそんな公爵領に、ここ最近新たな変化があった。
誰であろう、書面上の契約夫人ことヴァイオレッタである。
ヴァイオレッタが造り上げた蒸留器と、そこから作ることができた蒸留酒。
焼酎によって得られた売り上げは、当の本人であるヴァイオレッタすらも知らぬうちにとんでもない量に積み上がっていた。
「これは……凄まじいな……」
「はい、私もそう思います……」
アイザックとカビアが開いた巨大な金庫の中には、堆く積み上がっている金貨の山がある。
その数は帳簿の数が正しければ、締めて金貨百二十万枚。
公爵家の年間の収益以上の金額が、光を反射してギラギラと輝いている。
「たった数ヶ月でこれか……」
大貴族であるアイザックは金貨数万枚程度であれば右から左に流すことができるが、そんな彼であってもさすがにこれほど大量の金貨を見ることはあまりない。
これは公爵家が現在実質的に専売している焼酎からやってきた上がりである。
ボトル一本金貨五十枚。
一見すると法外な値段にも思えるかもしれないが、この世界で初めて生まれた蒸留酒の値段としては、決して高くはない。
むしろ安いと思って買いが殺到したからこそ、ヴァイオレッタはああして酒造りに奔走することになっていたのだ。
(その結果として更に蒸留酒の生産ができる蒸留器を造ってくるとは、さすがに俺も思っていなかったが)
一日の二度の蒸留で造れるボトルの本数は、およそ二千本。
そのうちのほとんど全てに買い手が付くため一日で金貨十万枚の売り上げになる。
当然ながら掛けや証文による売り上げも多いため、ここにある以外にも公爵家には大量の金が眠っていることになる。
「これは、現代の錬金術だな……」
売値から考えれば、原価はおそろしいことに安い。
ボトルはワインのものを流用し、使われている原材料はマイネンシュトシュ家で生産している大麦とライ麦、コーンの三つだけ。
木材に関しても自領の職人に頼み作ってもらえれば済むため、材料費など本当に微々たるものだ。
これを錬金術と呼ばずして、一体なんと呼べばいいのか。
「個人的にはこれで作物を買い叩かれる必要はなくなったのが、大きいかと思います」
ライ麦に関しては黒パンの材料として使われるが、大麦もコーンも基本的には食用というより飼料用の穀物だ。
そのせいで寒冷地帯故小麦を生産しづらいマイネンシュトシュ家は、何度も歯がゆい思いをしてきた。
豊作の時などは二束三文で売らなければならないようなこともあり、商人から明らかに舐められた価格設定をされることも一度や二度ではなかった。
先代達が軍馬の調教法を確立してくれていなければ、今頃財政は赤字に転じていたかもしれない。
だが少なくともこれからは、カビアが言うように大麦の過剰生産を心配する必要はない。
どれだけ作っても蒸留器にかけて酒にしてしまえば消費できるし、また蒸留酒にしてしまえば腐ることもなく長期保存が可能だ。
連続式蒸留器が開発され使用される穀物のペースが想定より遥かに早まったため、むしろ今後は大麦の増産をどんどんと奨励していく必要があるだろう。
無論その際には自分達だけではなく農家の人間にも利潤が渡るよう、大麦の買い取り価格はしっかりと上げるつもりだ。
今までにつらい思いをさせてきた分、彼らの生活を少しでも楽にしてあげたいという気持ちは強かった。
「カビア、信じられるか? ヴァイオレッタからすれば、この焼酎は本番の前の前座なのだそうだ」
「前座……でございますか」
「ああ、彼女はそっちに夢中になっていて、俺が言わなければこの焼酎を市場に出すつもりもなかった」
「なんと……それは将来が楽しみでございますなぁ」
「そうだな……その通りだ」
ここ数年、アイザックは良くも悪くも以前と変わらぬ日々を送っていた。
父を失い公爵位を継いでからというもの、未来に関して明るい希望を持ったことは一度としてなかった。
けれど彼女が……ヴァイオレッタが屋敷にやってきてからというもの、彼は明らかに以前よりも物思いに耽ることが少なくなった。
ヴァイオレッタが破天荒なことをしでかすおかげで公爵家の屋敷にどこか漂っていたくらい雰囲気も一蹴され、全体的に使用人達の表情も明るくなってきている。
公爵領の未来のことを明るく語ることができるようになったのは、アイザックには何よりも大きな変化であるように思えた。
焼酎事業によって、今年の公爵領の黒字は大きく増えることになるだろう。
(……ヴァイオレッタと、一度きちんと話をしなくてはな)
適当でいいですよと焼酎産業に関してはヴァイオレッタがほとんど興味もなく全てをこちらに任せてしまったため、具体的な利益の分配は決めていない。
ウイスキー造りではきっちりと契約書を巻いたのに、こっちは適当に口約束で済ませているのだ。
そのお金への執着のなさは、アイザックの方が心配になってきてしまうほどである。
金とは結婚を構成する要素のうち、もっとも密接に結婚生活と関わっているものだ。
浪費癖のある母を持つアイザックはそう思っていた。
愛するつもりはないと宣言をしたのは、無駄に浪費をして社交に金を使い家計を圧迫する妻にならぬよう忠告の意味合いもあった。
だが今になって思えば、そんなことにはまったく意味はなかったのだと思う。
これほどまでに公爵領に利益を(結果的にとはいえ)もたらしてくれた彼女に告げる言葉としては、あまりにも心ないものだったかもしれない。
(ままならないものだ)
無論アイザックはきっちりと分け前をヴァイオレッタに渡すつもりである。
まあおそらく彼女はそうして得たお金も、よりよいお酒と料理のために使ってしまうのだろうが。
彼女の食と酒への飽くなき探究心が、こうして巡り巡って公爵領を豊かにしてくれている。
連続式蒸留器によって生産量が増えていることを考えればいずれは値段も落ちるだろうが、それはその分供給量が追いつくということでもある。
そうなった時には蒸留酒はビール、ワインに次ぐ第三の酒として庶民達の手に行き渡っているはずだ。
そしておそらくその日は、そう遠くはないだろう。
「そういえば、連続式蒸留器で作った新しい焼酎ができたんだが、カビアも飲むか?」
「それでは一本いただいてもよろしいでしょうか。今日の寝酒にさせていただきます」
まったくヴァイオレッタ様々だな、と二人は言葉を交わし書類仕事へ戻るのだった……。
♢♢♢
夕食後も書類仕事をしていたアイザックは、執務室を後にし自室へと戻った。
窓の外は完全に夜の帳に包まれている。
彼はプライベートのオン・オフきっちりと分け、私室に仕事を持ち込まない質だった。
部屋に戻ると、ゆっくりと首を左右に曲げる。
長時間同じ姿勢で動き続けていたせいか、肩と首がバキバキと音を鳴らした。
少し肌寒くなってきた部屋に暖炉を付けると、そのまま使用人を下がらせる。
パチパチと音を鳴らして爆ぜる火を見つめながら、手元にあるグラスへ焼酎を注ぐ。
王都の有名なガラス工房から取り寄せたグラスは無色透明度で、中に入っている焼酎がよく見える。
公爵領で作るグラスはやや緑がかったものになってしまうのだが、一体この差はどこにあるのだろうか。
「ん……」
また仕事に戻りそうになっていく頭を、喉を通ってゆく酒精の強さがぼかしていく。
今彼が飲んでいるボトルは、敢えて入れる水を減らして度数を高めてある焼酎だった。
焼酎やニューメイク、バーボンといろいろな蒸留酒を飲んだアイザックだったが、彼は一つの結論を出していた。
――お酒の度数は、高ければ高いほどいい。
度数が高すぎるお酒は逆にアルコール感が強くともそういうものかと飲むことができるし、何かで割る場合も度数が高ければ割りものに負けることがない。
一杯目を飲み二杯目を飲む。
おつまみにはヴァイオレッタがどこからか取り寄せてきたという、ドライフルーツをつまませてもらう。
今日のつまみはパパイヤと呼ばれる黄色の果物だった。
細長く切られたそれを半分に噛み千切れば、濃厚な果実の甘味がアルコールによってひりひりとしていた口の中の粘膜を和らげてくれる。
「美味いな……」
水分を飛ばした分、果汁が濃縮されてこれほど濃い味になるのだろうか。
何個も食べていればそれだけで口の中が甘ったるくなるほどの強烈な甘味。
けれど口の中が甘々になれば、また焼酎を入れてリセットすればいい。
そして焼酎に口の中が支配されたタイミングでパパイヤを食べるということを繰り返せば、気付けばボトルの中身がどんどん減っていく。
甘いものが得意ではないアイザックも、ヴァイオレッタが持ってくるものであれば不思議と美味しく食べることができる。
彼女は酒に合うものを見つける天才だ。
きっと酒の神に愛されているに違いない。
ビールやワインなどと比べると、焼酎は酔いが回る速度が段違いに速い。
やはり蒸留酒はいいな……暖炉に乾燥した薪をくべながら、アイザックはしみじみと感じ入っていた。
「……」
暖炉の炎を見つめながら酒を飲むのは、公爵になってからの彼のルーティーンの一つだった。
以前よりも上質な酒が手に入り、それに合うつまみも完備されている。
だが、どうしてだろうか。
こうして一人でする寝酒が、以前と比べてさほど楽しくないように感じるのは。
アイザックはボトルを手に持つと、そのままおもむろに立ち上がった。
なんとなく、ダイニングに向かいたくなったのだ。
するとダイニングには未だ灯りが付いていた。
見ればそこには小さな皿の上に見たこともないグロテスクな物体を乗せているヴァイオレッタの姿があった。
内臓のようなピンク色をしたそれを見て、アイザックは眉間にシワを寄せながら近付いていく。
ヴァイオレッタがまた何か、面白いことをしている……それを見ただけで、先ほど一人でいる時に感じた寂寥が消えていた。
「アイザック様、お疲れ様です」
「ヴァイオレッタもな。それは一体……なんなんだ?」
「これはイカの塩辛ですね。イカの身と内臓を塩漬けにして発酵させた料理です」
「イカの内臓を……?」
どうやら本当に内臓だったらしい。
イカは食べたことがあるが、輪切りになっているそれはアイザックが食べてきたものと比べて明らかに新鮮だった。
どうやら魔法使いに直接指名依頼を出し、陸揚げしてからここまで氷漬けにして運んできてもらったのだという。
一体それだけでどれだけのコストがかかっているのか……彼女の食に関するこだわりは相変わらず凄まじい。
そこまでして生のイカを持ってきて、塩辛にする意味はあるのだろうか。
だが歴戦の飲んべえであるアイザックには、目の前の塩辛を見ただけで、それが酒の肴に適した料理でことがわかってしまう。
「結構匂いがするので一人でこっそりと食べようと思ってたんですが……もしよければ一緒に食べますか?」
「……ああ、いただこう」
近付くとわかる発酵臭に少し逡巡したが、ちょうど飲み足りないとは思っていたので良い機会だろう。
手にしてみると味噌や醤油ともまた違う、少し饐えたような香りがしてくる。
料理からこんな香りがすれば、まず間違いなく腐っていると思って捨ててしまうだろう。
アイザックはゆっくりと塩辛を見つめる。
ピンク色をして、ぬるぬるとしたイカ。
彼が食べるイカは干物を戻したものかせいぜいがボイルしたものであり、このように鮮度の高いものを食べるのは当然ながら生まれて初めてだ。
ゆっくりと口に含む。
噛み切れないほどに高い弾力。
そしてその後にやってくる、なんとも形容しがたい味わい。
内臓を使っているからか、やはり苦みのようなものはある。
だが意外なことに生臭さは控えめで、不思議とそこに嫌みがなかった。
塩辛さは強烈で、噛みしめるとイカの甘味も飛び出してくる。
苦みと甘みと塩気が混じり合い、互い違いに押し寄せてくる。
なんとも複雑な味わいで、一度食べただけでは評価が難しかった。
二口、三口と食べ進めていくとその塩味と苦みから喉が渇き、それを焼酎で流し込む。
すると先ほどまであった苦みが一気に消え、イカの甘味とわずかな塩気だけが残る。
(なるほど、酒を飲む前と後のこの落差で酒が進むわけか)
苦みも強くこれ単体で食べるには少々クセの強い珍味だが、酒と合わせるとなかなかどうして悪くない。
プレーンな焼酎と複雑な塩辛。
てっきり食事とのペアリングは似た味わいのもので行うものとばかり思っていたが、どうやら酒の道はまだまだ奥が深いらしい。
「どうですか、悪くないでしょう?」
「ああ、実に悪くないな」
アイザックはそのままダイニングで、ヴァイオレッタとゆっくりと酒を楽しむことにした。 そこで焼酎の利益の話になったのだが、案の定これで生魚がたくさん食べられるとヴァイオレッタがとんちんかんな喜び方をしていた。
そんな彼女を見て、君は本当に変わらないなと、アイザックは呆れと感嘆とアルコールの混じった息を吐き出すのであった。
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