至高のレシピ制作依頼 前編
私はコクリ、と生唾を飲み込んだ。
目の前には化学準備室のドア。
ここを開ければ、私の運命は、きっと変わる。
意を決して、ドアノブを掴んだ。
鍵は――開いていた。
カチャリ、という控えめな音と共にドアを開くと、少し暮れ始めたオレンジ色の光を背負って、その人は本を読んでいた。
「あ、の……」
思い切って声を出すと、その人は無表情のまま顔を上げた。
黒ではない灰色の瞳が、こちらを真っ直ぐに見つめた。
「なんだ?」
女の先輩……のはずだ。
友達の友達に聞いた。
なのに、声が低い気がする。
灰色の髪もすごく短いし、顔の印象もちょっと男子っぽい。
でもセーラー服の上から白衣着てるし……女子だよね?
私が観察していることに気付いたんだろう、先輩は少し目を細めた。
「何の用かと訊いているんだが?」
「あ、あの……!」
「?」
怪訝そうな顔をする先輩に、私は清水の舞台から飛び降りる気持ちで告げた。
「た、担々麺のレシピ! 教えてください!!」
シン、とした部屋の沈黙。
そーっと顔を上げて先輩の顔を窺うと、わずかに口を開けて呆れたような顔をしていた。
え、あ、あれ……?
た、確か……色んなレシピを教えてくれる人だって聞いたんだけど……。
先輩は私を眺めながら少し考え込んだ風だった。
そして、結論が出たんだろう、ため息を吐いてデスクの上のビーカーを手に取る。
真っ黒い液体がたぷんと揺れた。
先輩は躊躇いもなくそれを飲み込む。
「えぇ!?」
「――声が大きい」
「だ、だって、それ薬品……!」
「これはコーヒーだよ。いいから、話は聞くからそこに座りなよ」
促されるままに、私は先輩の前にある椅子に腰を下ろした。
ビーカーを置いた先輩は、しげしげと私を眺めていた。
「それで、君は?」
「あ、私、東屋芙蓉です。二年生です」
「東屋君ね……僕は三年の階上渚だ」
おお、一人称が僕の女の子のこと、僕っ子って言うんだっけ?
ちょっとオタクな友達の楓ちゃんがそんなこと言ってた。
階上先輩は「で?」と私を促した。
そうだ、ちゃんと理由を話さないと。
あの、とてもややこしい勝負のことを。
「実は……その、私、料理勝負を挑まれているんです」
「……、あー、君は料理部かなにかか?」
そういうわけじゃない。
突拍子もない話をしているのは分かっている。
先輩の目が少し据わっているのも当然だろう。
「違います。むしろ……その料理勝負の相手が料理の達人というか」
「――一介の高校生が料理の達人ねぇ? 相手はうちの生徒か?」
階上先輩の言葉にコクンと頷いた。
私の脳裏に浮かぶ、彼女の姿。
絵に描いたような高笑い、お金持ちで美人なのを鼻に掛けた態度。
――言うなれば、悪役お嬢様。
「二年生の、阿礼木さんです……」
「阿礼木……あぁ、あの目立つお嬢様か。意外だ、彼女は料理が得意だったのか」
合ってるけど違う。
そうじゃない。
「これから話すことは……その、本当に意味が分からないと思うんですけど」
「いいよ、話したまえ」
階上先輩の手が再びビーカーに伸びる。
コーヒーを飲む間なら、私の話に付き合ってくれる、ということかな?
私は階上先輩の雰囲気が、思いの外やわらかいことに安堵して話し始めた。
「切っ掛けは大したことじゃなかったんです。私が作ったお弁当を阿礼木さんに馬鹿にされたってだけで」
「ふむ……」
「でも、ちょっとカチンときちゃって。その日のお弁当、自分では会心の出来だったんです」
――思い出したら腹が立ってきた。
『いやだわ、貧乏くさい、なにこの卵焼き? 出汁巻きも作れないのかしら?』
腹立つ腹立つ腹立つ!!
作れるもん、出汁巻きぐらい!
でもお弁当の時はちょっとしょっぱい普通の卵焼きが好きなの!!
「それで、言っちゃったんです。お嬢様はご自分で作らないので分からないんですね、と」
「……君なぁ……」
呆れたような言葉を聞かなかったことにして、私は続けた。
「阿礼木さん、瞬間湯沸かし器かってくらいに真っ赤になっちゃって。私はお料理ぐらい庶民より上手に出来ます!――って」
「……すまない、僕としてはどこからツッコんだらいいのか分からないんだが」
それは申し訳ないんだけど、事実なので。
「そこからは売り言葉に買い言葉、というやつで……来週の放課後、調理実習室で料理勝負に」
堪えきれなかったのか、階上先輩はくぐもった声を零した。
笑われた……いや、分かるけど。
私も自分で言っててマンガかなって思うし。
吹き出してしまったのが不覚だったのだろう、階上先輩は咳払いをしてから口を開いた。
「それで、料理勝負のテーマが担々麺なのか?」
「はい」
「――君も阿礼木君も、脳が茹っているのか?」
仰る通りです。
私もなんで料理勝負のテーマが担々麺になったのか、まるで分りませんから。
それでも、そうなってしまったんだから仕方ないじゃない。
「馬鹿馬鹿しいと思います。でも、これは私のプライドを賭けた戦いなんです!」
「プライドを賭けた担々麺、ねぇ……」
ぼそりと呟いた階上先輩は、少しだけ考えてからデスクの上のノートを開いて、転がっているシャーペンを手に取って。
「まぁ、どういう理由か分からないが、僕に依頼を持ってきたんだ。僕のフィールドでやらせてもらおうか」
「レシピ教えてくれるんです!?」
「――教えるというより、考案する、だな。何せ、僕は担々麺を食べたことがないから」
あれ? 色んなレシピを知ってるんじゃないのかな?
それとも辛い物が苦手なのかな?
「東屋君、基本的な担々麺の情報をくれるか?」
「あ、はい! えっと、四川と日本ではもう違う料理になっていて、今回は日本式のスープありのものです」
私が知っている担々麺の情報を話すと、階上先輩は「ん?」と一つ音を零して少し首を傾けた。
手にしたシャーペンは、ノートをコツコツ叩いている。
「君の話を聞くに、芝麻醤、辣油、花椒などを使った鶏ガラや豚骨のスープで作るわけだな?」
「そうです。そこに甘辛いひき肉とか青梗菜とか……」
「……、いや、おかしいな……」
「? 何がおかしいんですか?」
階上先輩は少し渋い顔をしている。
「四川……担々麺……タンタン麺? んん?」
「?」
どうしたんだろう……担々麺担々麺って繰り返してるけど……。
私がもう一度、声をかけようと思った時だった。
階上先輩は顔を上げて真っ直ぐに私を見た。
「今回の料理勝負のレギュレーションは担々麺であることなんだな?」
「はい、そうです」
私が返事をした瞬間、階上先輩のスイッチがパチンと入ったようだった。
物凄い勢いでノートにガリガリとシャーペンで書き込み始める。
――走り出したペンが止まらない。
そうしながら、階上先輩は喋り始めた。
「材料はひき肉、ネギ、にんにく、豆板醤……細かいものはレシピを書いておく、今は気にするな。あぁ、そうだ、一点訂正する。僕は担々麺を食べたことはないと言ったが、厳密には違う。タンタン麺は食べたことがあった。今書いているのはそのレシピだ。記憶で書いているから、細かい部分は試食段階で調整していい」
ひ、ひえ……すごい勢いで喋ってる……!
止める間もない、とにかく私は聞き洩らさないように集中して聞いていた。
「阿礼木君はこれを担々麺とは認めないかもしれないが、少なくとも味では黙らせることはできる。味覚に自信があるならなおさらだろうな。そこに付け込むぞ。彼女の腕は君より上か?」
「あ、はい……多分」
「承知した。――つまり、彼女は担々麺を出されたら勝てると踏んでいる。だったら、その慢心を逆手に取る。分かるか? まずは見た目だ、次に味、最終的に相手の心理的な陥穽にぶち込めれば勝てる」
…………これ、担々麺の話だよね?
ちょっと困惑し始めた私に、カタンとシャーペンを置いた階上先輩はノートを破って私に差し出した。
「重要なのは、とろみだ。唐辛子の量と片栗粉の量を間違えるなよ」
「とろみ? なんで担々麺でとろみ?」
差し出されるままに受け取った私は、その紙に目を落とす。
びっしりと神経質そうな文字が並んでいるけど……うん? これ……担々麺じゃない?
私はぎゅんと意識が引き込まれた。
書かれている材料、手順、不思議なぐらい鮮明に全部が脳内で展開する。
あぁ、……これは、担々麺だけど担々麺じゃない。
でも、担々麺だ。
そして、そこに決定的なことが書かれていた。
料理が好きだから分かる。
これは、確かに――勝てる。
ガバッと顔を上げて階上先輩を見た。
彼女は、薄く笑っていた。
「まぁ、たまにはこんな依頼もいいだろう。朗報を待っているよ、阿礼木君に庶民の意地でも見せてきたまえ」
「あ、ありがとうございます!!」
ヒラヒラと手を振った階上先輩は、ビーカーを手にしてコーヒーを飲み込んだ。
「一つ、覚えておきたまえ。僕は毒薬嬢と呼ばれている」
立ち上がって一礼した私の背にそんな言葉が飛んできた。
フロイ……ギフト? 贈り物のことかな?
「次回があれば、そちらの方の依頼を持ってくることだな」
それだけ言って、階上先輩は置いてあった文庫本を読み始めていた。
あ、太宰治だ。
走れメロスは知ってる、教科書に載ってたし。
さっきまでの様子とちょっとギャップがあって、結構いい先輩なんだなって思った私は静かに化学準備室を後にした。




