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6 蝉桜 前編

 じぃーっじぃーっ。みぃーんみーんみんみんみん…暑い。

 旧盆も過ぎたのに、暑い。

 板張りで天井の高い吹きさらしの本堂に座っていても、暑い。


 風がないのだから当たり前である。裏山から聞こえてくる焼けつくような蝉の声が暑さを助長する。

 俺はご本尊様を相手に、檀家から差し入れられた酒を飲んでいた。


 「照恕(しょうじょ)さま」


 いきなり弟子の声を背後から浴びせられて、どきりとした。こいつはいつも気配を殺して動き回る。忍者みたいな奴だ。


 「なんだよ、英二。用がある時はスマホへ掛けろって」

 「綺仙洞(きせんどう)さまがお越しになりましたので、座敷へお通し致しました」


 英二の手にあるものを見て言葉を途切らせた俺に恭しくスマホを差し出しながら、弟子は淀みなく用件を述べた。

 憮然として瓶を置き、スマホを受け取り袂へ入れる。盃に残った酒を一気に呷り、瓶を抱えて座敷へ向かった。

 綺仙洞は古い友人で、骨董品を商っている。庭に面した座敷へ入ると、出された菓子を食い尽くして茶を啜っていた。俺の顔を見て呆れた様子になる。


 「この暑いのに、一升瓶を抱えているのか」

 「そうか。飲むから暑いのか」


 部屋の隅にある扇風機の涼風が、汗ばんだ肌に心地よく通り過ぎる。俺は瓶と盃を卓の端に置いた。うまい具合に、開け放した障子の陰から英二が冷茶を持って出てくる。

 先日、叔父から貰った西瓜もついてきた。早速齧り付く。よく冷えていて美味い。しゃきしゃきとした食感、あっさりとした甘味が夏らしい。口の中で実と選り分けて、ぷぷぷぷ、と種を小皿へ吐き出すと、全部命中した。部屋を下がりかけた英二が目を丸くする。


 「すごいだろう」

 「はい。あの、綺仙洞さまから水饅頭を頂きました。ご馳走さまです」

 「おう、いつも悪いな」


 英二が去ってからも俺達は西瓜を食い続けた。チンチンチン、種が皿に当る小さな音が蝉の鳴き声の合間を縫って座敷に響いた。食い終わってお絞りで手を拭くと、一仕事終えた気になった。ガラスの器に入った冷茶を啜る。


 「で?」


 綺仙洞は丁寧に指を拭っていた。お絞りが、西瓜の汁で赤く染まった。


 「用もないのに、来たら悪いのか」

 「そうか、用がないのか」

 「ある」

 「じゃ、最初から言えよ」



 二、三日後に、俺は綺仙洞に連れられて、その女のマンションへ行った。女はさる豪農の所謂愛人で、夜の店も持っていたが、これは自分の稼ぎで出したものだという。開店の際、骨董品を買いつけた縁で、綺仙洞の顧客となったのであった。問題となっているのは、綺仙洞から買った物ではなくて、その愛人から貢がれた物らしい。


 「そいつもお前の店で買えば、おかしな物を掴まされなかったのに」

 「値段が判るのを嫌ったんだろう」


 マンションというだけあって、女の住居はなかなか瀟洒な作りだった。こんなところを坊主がうろうろしていたら怪しまれそうだった。幸いインターホンにすぐ応答があって入り口が開いたので、俺達はそそくさと中へ入った。


 女の部屋は最上階の角部屋で、表札には「薄井」とあった。出てきたのは俺よりやや年上ぐらいの目鼻立ちのはっきりした女で、寝起きで慌てて支度したらしい恰好をしていた。化粧を施すには間に合わなかったようであるが、化粧をしなくても割合見られる顔立ちであった。

 薄井は部屋の扉を開けて俺の顔を見て一瞬ぎょっとし、綺仙洞に気付いてほっとした様子で部屋へ上がるよう勧めた。


 「ごめんなさい。約束は覚えていたんだけど、寝坊しちゃって。まあ、散らかった部屋ですが、その辺に座ってくださいな。今コーヒーでも淹れますから」

 「薄井さん、どうぞお構いなく」


 綺仙洞が俺には見せないお澄まし顔で言うのを、薄井は遮った。


 「あたしが飲みたいのよ。一杯やらないと目が覚めないの」


 そこでソファに並んで座り、待つことにした。通された部屋の中は本人が言うほど散らかってはいなかった。ただ隅にレースカーテンで作ったような下着が干してあるくらいである。骨董品は純粋に店のためだけに揃えたようで、ここには一瞥した限り、それらしい品々は見当たらなかった。

 そして、閉まった奥へ続く扉の向こうまで触手を伸ばしても、怪しい気配はない。


 「何もいないぞ」


 薄井はなかなか戻って来なかった。綺仙洞は欠伸で応えた。


 「昼間はいないみたいだぜ」

 「だって、夜は仕事で留守なんだろう」


 誰が何を見たというんだ。


 「聞いてみればいい」


 漸く薄井がコーヒーを持って戻ってきた。髪を整え、薄化粧を施していた。こうして見ると、俺より幾分若い年齢らしかった。


 「今、例の品物を持ってきますから、どうぞ先に飲んでいてくださいな」


 言い置いて奥の部屋へ消え、今度はすぐに戻ってきた。変哲のない黒い紙箱を携えている。彼女は俺達と向かい合って座ると、コーヒーには手をつけずに箱の蓋を開け、中身を取り出してテーブルの上に広げた。


 びろうど張りの台の上に、金の指輪が鎮座していた。年嵩の人間に好まれる双頭の蛇を模しており、小さなダイヤモンドとエメラルドをびっしりと身に纏った蛇の目は、炯炯としたルビーの石で作られていた。


 「どうぞ、お手に取って見てください」


 綺仙洞が手を伸ばした。台ごと顔の前まで持ち上げ、いつの間に取り出したのか、ルーペで熱心に眺める。一通り検分すると、指輪だけ俺に回してよこした。近くで眺めても、おかしな気配は感じられなかった。


 「なかなかよい品ですね、細工も丁寧です。これが、お話の指輪でしょうか」

 「そうなんです」


 薄井は綺仙洞に持ち物を褒められてもさして嬉しそうな顔もせず、指輪を手に入れた経緯から話し始めた。



 薄井の愛人を、仮にA氏とする。薄井が独立する前からの関係であったが、店の経営が安定してからは以前より疎遠になっていた。A氏が久し振りに店へ顔を出した夜、客が途切れたのを見計らってポケットから箱を取り出した。


 「やるよ。開けてご覧」


 A氏からの贈り物も久し振りだったので、薄井は期待に胸を膨らませながら箱を開けた。中に収まっていた指輪は、薄暗い店内の照明に照らされて星屑のように微かな、しかし確かな煌きを放った。


 「まあ、ありがとう。嵌めてもいい?」


 頷くA氏の前で薄井は指輪を箱から出し、身に付けた。指輪がきらりと光り、眩しさからか、彼女はちょっと目眩を覚えた。


 「高かったでしょう」

 「いや、今流行りのアンチークとかいう奴だから、それほどでもない。出先で勧められて買ったんだ。ちょっと変わったデザインだろう」

 「そうね。本当にありがとう」


 さして珍しいとも思わなかったものの、礼儀から彼女は相槌を打った。その晩A氏は彼女のマンションへ泊っていった。


 次の夜、薄井は早速A氏から貰った指輪を嵌めて店へ出た。店は一人で切り盛りしているから開店準備から暫くは大変忙しい。また週末に差しかかっていたため、普段より客も多かった。常連ばかりでなく、一見さんの若者グループもいて、彼女は息つく暇がなかった。

 最初は、そんな客の一人かと思った。社会に出たばかりで自分の酒量を掴んでいない若者が、度を過ごして酔いを醒ましているのかと思ったのである。


 「ちょっと……」


 消えた。薄井はぞっと背中に冷や水を浴びせられたようになった。よく見ると、そこは店の奥とは言っても人の入る余地のない場所であった。彼女は後じさりしながら明るい方へ戻り、店内を見渡した。考えてみれば若者達はさっき支払いを済ませて帰ったところだ。店には常連と、他に年配の客しか残っていなかった。


 「ママ、ボトル一本入れて」

 「は~い」


 その夜はそれきりおかしな事もなかった。


 また次の夜、やはり薄井は指輪を嵌めて店へ出た。忙しく立ち働いて一息つくと、視線を感じた。ふと見れば、昨日の若い男である。薄井は総毛立った。


 手にアイスピックを隠し握り、カウンターを回ってもう一度見ると、もう消えている。

 そんなことが三夜続いた。


 そこではた、と気付いた。彼女はこれまで、幽霊の類を見た事がなかった。急に幽霊が現れるようになったのは、A氏からもらった指輪を嵌めてからである。


 彼女は翌晩、指輪を部屋に置き店へ出た。すると、ぴたりと幽霊は見えなくなった。

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