1. メガソーラー問題は、再エネ賛否の話ではない
メガソーラー問題を語るとき、多くの議論は最初の段階で失敗している。
それは、この問題を「再生可能エネルギーに賛成か、反対か」という単純な構図に押し込めてしまうからである。
太陽光発電は、たしかに発電時に二酸化炭素をほとんど排出しない。燃料を燃やす必要もなく、石油や天然ガスのように海外から燃料を輸入し続ける必要もない。住宅の屋根、工場の屋上、駐車場、すでに開発された土地などに適切な規模で設置するなら、一定の合理性を持つ場合もある。
しかし、そこからただちに「だから日本でメガソーラーを推進すべきだ」とはならない。
ここに大きな論理の飛躍がある。
太陽光発電そのものに利点があることと、日本の国土で大規模メガソーラーを推進してよいことは別問題である。さらに言えば、住宅用太陽光、工場屋根の太陽光、遊休地活用の太陽光、山林を切り開くメガソーラー、外資や海外部材に依存する大規模発電事業は、すべて同じ「ソーラー」として扱うべきではない。
本書が問題にするのは、太陽光発電そのものではない。
問題にするのは、日本の国土条件、災害リスク、保守負担、廃棄責任、盗難リスク、供給網依存、そして利権構造を十分に検討しないまま進められる、山林開発型・大規模設置型のメガソーラーである。
日本は、広大な砂漠や荒地を持つ国ではない。国土の多くは山地と森林であり、平地は限られている。居住地と山林の距離も近く、斜面開発は土砂災害や水害のリスクと無関係ではない。さらに日本は、台風、豪雨、地震、火山噴火、火山灰、積雪といった多様な自然災害を抱える国である。
そのような土地に、広大な面積を必要とする低密度の発電設備を置く。
その設備は、夜間には発電せず、天候に左右され、灰や雪が積もれば機能不全に陥る。
設置後も、草刈り、清掃、点検、パワーコンディショナーの交換、配線の修理、盗難対策、災害復旧、廃棄処理が必要になる。
しかも、その部材や交換品の供給が海外、特に中国系サプライチェーンへ依存しているなら、エネルギー政策でありながら別の依存構造を深めることにもなる。
このとき、単に「CO₂が少ないから良い」と言うだけでは、あまりに評価が浅い。
本来問うべきなのは、こうである。
その発電量は、失われる森林機能に見合うのか。
その電力は、災害時にも安定して使えるのか。
その設備は、二十年後、三十年後に誰が管理し、誰が撤去するのか。
故障したとき、部品はどこから来るのか。
盗難や災害で止まったとき、誰が費用を負担するのか。
事業者が撤退した後、荒れた土地と廃棄物だけが地域に残らないのか。
環境対策の名で、別の環境破壊を作っていないのか。
メガソーラーの問題は、発電設備だけの話ではない。
それは、国土利用の問題であり、地域社会の問題であり、災害対策の問題であり、労働配分の問題であり、廃棄物処理の問題であり、エネルギー安全保障の問題である。
さらに言えば、利益と負担の分配の問題でもある。
メガソーラーによって利益を得る者はいる。発電事業者、施工業者、部材輸入業者、土地所有者、投資家、金融機関、環境ビジネスに関わる事業者などである。一方で、その土地の景観、水源、災害リスク、将来の撤去費用、盗難対策、放置設備の後始末を背負うのは、地域住民や自治体、そして将来世代である可能性がある。
利益は特定の主体に集中し、リスクは広く薄く社会へ押し出される。
これが起きるなら、それは持続可能な環境政策ではなく、環境対策の名を借りたリスクの外部化である。
もちろん、すべての太陽光発電が悪いわけではない。屋根上太陽光や既開発地への設置には、条件次第で合理性がある。問題は、太陽光発電という大きな看板の下に、性質の違う事業をすべてまとめてしまうことである。
「再エネだから良い」
「脱炭素だから正しい」
「中国もやっているから日本もやるべき」
「環境アセスメントがあるから問題ない」
「発電時CO₂が少ないから環境に優しい」
これらの言葉は、一見するともっともらしい。
しかし、どれも単独では日本におけるメガソーラー推進の正当化にはならない。
中国で大規模太陽光が成立しているとしても、それは中国の国土条件、送電網、産業政策、国内製造能力、国家主導の土地利用があっての話である。日本に同じ構造を持ち込めるとは限らない。成功例は参考資料にはなるが、移植可能性の証明ではない。
環境アセスメントが存在することも、環境破壊や災害リスクが存在しないことの証明ではない。制度があることと、問題が完全に防がれていることは別である。労働基準法があってもブラック企業が存在するように、道路交通法があっても危険運転が存在するように、環境アセスメントがあるからといって、すべての環境負荷が消えるわけではない。
本書は、太陽光発電を感情的に否定するための本ではない。
また、再生可能エネルギーをすべて拒絶するための本でもない。
本書の目的は、メガソーラーをめぐる議論を、単純な賛否から引き戻すことにある。
見るべきものは、発電量だけではない。
見るべきものは、発電時CO₂だけではない。
見るべきものは、企業の採算だけではない。
見るべきものは、設置した瞬間の美しい説明だけではない。
見るべきものは、設置された後に続く二十年、三十年の現実である。
故障、保守、盗難、災害、廃棄、撤去、原状回復、供給網依存、地域負担。
そこまで含めて初めて、メガソーラーが本当に合理的かどうかを判断できる。
本書では、メガソーラーを「環境によい発電設備」としてではなく、より広い社会構造の中で捉える。
それは本当に日本の国土に合った発電方式なのか。
それは本当に将来世代の負担を減らすものなのか。
それは本当に地域社会に利益をもたらすものなのか。
それとも、低密度で不安定な電力を得るために、国土、労働、保守、治安、廃棄、供給網リスクを長期的に背負わせる仕組みなのか。
この問いに答えないまま、メガソーラーを「環境対策」として推進することは危うい。
環境対策とは、本来、未来の負担を減らすためのものである。
もしそれが、別の形で未来へ負担を押しつけるなら、それは環境対策ではなく、問題の先送りである。
本書はその先送りを疑うところから始める。




