去る者、迫る影
朝の空気は、静かだった。
冷たく、澄んでいる。
森はいつも通りに息をしていた。
火は安定して燃え、村は動き始めている。
何も変わらない。
そう思える朝だった。
俺はいつもの場所に立っていた。
開けた地面。
踏み固められた土。
棒を握る。
構える。
呼吸。
重心。
意識する。
(……来い)
言葉には出さない。
だが、分かっている。
あの老人は、もう来ている。
気配はない。
だが、いる。
次の瞬間。
「……遅ぇ」
背後から声。
振り向かない。
もう慣れた。
「……ああ」
短く返す。
それでいい。
それで通じる。
老人は前に回り込む。
いつも通り。
隙のない立ち方。
無駄のない動き。
「やるか」
軽く言う。
俺は頷く。
構える。
踏み込む。
棒を出す。
触れる。
流す。
崩す。
――乗る。
(……いける!)
初めて、感触があった。
確かに。
相手の重心が揺れる。
ほんのわずか。
だが、確実に。
そこへ踏み込む。
押す。
崩す。
その瞬間――
空気が抜けた。
体が流れる。
逆に崩される。
足が浮く。
だが――
倒れない。
踏ん張る。
耐える。
そして、離れる。
距離を取る。
呼吸を整える。
老人が、わずかに目を細めた。
「……今のは、悪くねぇ」
初めての“はっきりした評価”。
俺は何も言わない。
だが、理解している。
(……届いた)
まだ完全じゃない。
だが、“入口”は越えた。
老人は棒を肩に担ぐ。
それで終わりだ。
いつもなら、もう一度来る。
だが――
今日は違った。
「ここまでだな」
あっさりと、そう言った。
俺は一瞬だけ、黙る。
だが、すぐに頷いた。
「……ああ」
分かっている。
ここから先は、自分でやるしかない。
教えられることは、もうない。
老人は少しだけ笑う。
「いい面だ」
短く言う。
そして、背を向けた。
本当に、それだけ。
未練も、余計な言葉もない。
歩き出す。
ゆっくりと。
だが、止まらない。
俺は、その背中を見ながら口を開いた。
「……また来るか?」
問い。
必要はない。
だが、聞いていた。
老人は振り返らない。
そのまま歩きながら――
「来ねぇよ」
即答。
そして、少しだけ間を置いて。
それだけ言って。
森の奥へ消えた。
気配ごと。
完全に。
最初からいなかったかのように。
(……終わったな)
俺は息を吐く。
棒を握る。
違う。
昨日までとは。
軽い。
馴染んでいる。
使える感覚がある。
(……崩せる)
確信にはまだ遠い。
だが、分かる。
やり方が。
方向が。
ここから先は――
俺の道だ。
昼。
村は、いつも通り動いていた。
ガルが指示を出す。
槍が並ぶ。
木剣がぶつかる。
石が飛ぶ。
声がある。
動きがある。
日常だ。
確実に。
だが。
夕方。
空気が、変わった。
(……?)
俺は顔を上げる。
静かだ。
妙に。
さっきまであったはずの音。
それが、薄い。
鳥の声がない。
虫の気配もない。
風だけが、通り過ぎる。
(……なんだ)
胸の奥がざわつく。
嫌な感じだ。
理由は分からない。
だが――
体が覚えている。
この感覚を。
(……前にもあったな)
あの時だ。
オークが来る前。
同じだ。
ガルが近づいてくる。
「……ヴァル」
短く呼ぶ。
表情が硬い。
同じものを感じている。
「……外」
指す。
俺はすぐに動く。
柵の外へ。
地面を見る。
そして――
見つけた。
足跡。
細い。
長い。
数が多い。
オークじゃない。
明らかに。
しゃがむ。
触れる。
新しい。
ついさっきだ。
(……いるな)
しかも。
近い。
桜花が隣に来る。
「……こわい」
珍しく、はっきり言った。
それだけで分かる。
これは――
ただの敵じゃない。
もっと、嫌な何か。
その時。
森の奥で、何かが動いた。
音。
一瞬だけ。
すぐに消える。
だが――
確実にいた。
見ている。
こちらを。
(……来るな)
確信に変わる。
次の戦いが。
しかも――
今までとは違う。
俺はゆっくりと立ち上がる。
村を見る。
仲間を見る。
守るものがある。
増えた。
大きくなった。
だから――
負けられない。
俺は棒を構える。
静かに。
そして、呟く。
「……来るなら来い」
宣言。
森は答えない。
ただ――
静かに、息を潜めている。
その奥で。
“何か”が、動いている。
確実に。
こちらへ。




