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【幕間】第7.5話「親征――あるいは、魔王が玉座を降りる日について」

 魔王城「テルミヌスの杖」。


 作戦会議室。


 長机の上に、三通の報告書が並んでいた。


 魔王ゼノンは、最初の一通を手に取った。



   ◇



 【作戦報告書 第一号】

 部隊名:影のシャドウ・クロー

 指揮官:セルペンテ

 任務:暴食の魔獣の暗殺


 結果:失敗。


 概要:

 対象への接近に成功。しかし、対象の周囲に展開していた小型哺乳類(種別不明・約3000体)の「視線」により、精神的制圧を受ける。部隊員全員が「心の闇を見透かされた」と報告。うち6名が任務中に涙を流し、2名が「もう殺しはしない」と誓願を立てた。


 セルペンテ個人の補足:

 「あの視線は、母の目に似ていた。任務続行は精神的に不可能」


 損害:死傷者ゼロ。精神的損害:甚大。

 現在の部隊状態:全員が城内の日当たりの良い廊下で座禅を組んでいる。



   ◇



 ゼノンは、報告書を机に置いた。


 置いた、というより、叩きつけた。


「……フェリクス」


 右手に控える副官が、一歩下がった。


 下がった理由は、ゼノンの額の青筋が、もう血管ではなく地形に見えるほど膨張していたからだ。


「ハッ」


「セルペンテの部隊は、暗黒大陸で最も冷酷な暗殺集団だったはずだ」


「はい」


「感情を外科的に除去した、完璧な殺人機械だったはずだ」


「はい」


「その殺人機械が、座禅を組んでいるのか」


「……日当たりの良い廊下で、はい」


 ゼノンは二通目を手に取った。



   ◇



 【作戦報告書 第二号】

 部隊名:アイアン・タートル重装甲部隊

 指揮官:ドラグノフ三等将

 任務:暴食の魔獣の物理的排除


 結果:失敗。


 概要:

 峡谷にて対象を補足。攻城車による正面突撃を敢行。衝角が対象の――


 ゼノンの目が、次の一語で止まった。


 ――対象の「尻」に衝突。


 続きを読んだ。


 ――衝撃エネルギーが全反射。攻城車が自壊。


 さらに続きを読んだ。


 ――なお、対象の尻に損傷は確認されず。


 ゼノンは報告書を置いた。


 今度は、そっと置いた。


 怒りが一周して、静かになっていた。


「フェリクス」


「ハッ」


「この報告書の『敵の尻に衝突し全損』という記述は、私の読解力が不足しているのか、それとも報告者が発狂しているのか。どちらだ」


「ハッ。物理法則が休暇を取った結果かと思われます」


「物理法則は休暇を取らない」


「この大陸では取るようです」


 ゼノンは三通目を手に取った。



   ◇



 【作戦報告書 第三号】

 部隊名:アクア・スネーク水中隠密部隊

 指揮官:ガザル

 任務:腐蝕沼アケロンにおける待ち伏せ・殲滅


 結果:失敗。


 概要:

 対象が腐蝕沼に自ら飛び込んだため、水中での迎撃に切り替え。


 ゼノンは、「自ら飛び込んだ」の部分を三回読み直した。


 続き。


 対象は瘴気の影響を一切受けず、水中を遊泳。その際に発生した水流により、部隊員12名全員が吹き飛ばされ無力化。


 さらに続き。


 なお、対象は我々を攻撃する意思を持っていなかったと思われる。単に泳いでいただけと推測される。


 最後の一行。


 ガザル個人の補足:

 「敵は泳いだ。我々は負けた。以上」


 ゼノンは三通目を机に置いた。


 静かに。


 とても静かに。


「…………」


 フェリクスが、もう一歩下がった。


 ゼノンの静かさは、怒りを通り越した先にある「何か」だった。八百年の人生で三度しか到達したことのない、意識の深淵。


「……まとめると」


 ゼノンは、ゆっくりと口を開いた。


「暗殺部隊は小動物に精神を破壊された。重装甲部隊は尻に負けた。水中部隊は入浴に巻き込まれた」


「……端的にまとめると、そうなります」


「三部隊を投入して、一匹も殺せていない」


「はい」


「死傷者は?」


「ゼロです。敵は一切の攻撃を行っていません」


「…………」


 ゼノンの右目が、ぴくりと痙攣した。


「攻撃を受けていないのに、負けたのか」


「はい」


「それは……もはや『戦争』なのか?」


「……哲学的な問いですね」


「哲学の話をしているんじゃない」



   ◇



 作戦会議室を出たゼノンの耳に、廊下の向こうから声が聞こえてきた。


 兵士たちの声だ。


 だが、それは軍事的な報告や訓練の掛け声ではなかった。


「いやぁ、あのアゴ撫でな……あれ見た時、涙出たわ」


「わかる。ゴート様がトロンってなった瞬間な。あの虚無の目が崩れるの、尊すぎて心臓止まったわ」


「俺も撫でたい。一回でいいから撫でたい」


「お前らわかってないな。アゴ撫では『禁忌の封印術』だぞ。素人が手を出していいもんじゃねぇ」


「いや、ただ気持ちよくてフリーズしてるだけだろ」


「それを言うな! ロマンが死ぬ!」


 ゼノンは、足を止めた。


 廊下の角に、十数名の兵士が車座になっていた。


 武器は壁に立てかけられている。誰も戦闘態勢ではない。


 その中心に、一匹の動物がいた。


 巨大なゴールデンレトリバー。


 城内に侵入して以来、ずっと居座り続けている犬だ。


 犬は仰向けに寝転がり、腹を見せていた。兵士の一人がその腹を撫でている。犬の尻尾が、メトロノームのように左右に揺れている。


「……お前ら」


 ゼノンの声が、氷のように廊下に落ちた。


 兵士たちが凍りついた。


「ここはダークファンタジーの最終拠点だ」


 ゼノンの魔力が、廊下を震わせた。


「なぜ魔王城の廊下で犬の腹を撫でている」


 兵士の一人が、震えながら答えた。


「ま、魔王様……。こ、これは情報収集でありまして……敵の使役する神獣の弱点を探るための……」


「腹を撫でることが情報収集か」


「は、腹を撫でると尻尾の振動数が上がるという知見を得まして……」


「それは戦術的に何の意味がある」


「…………かわいいです」


「正直になるな!」


 犬が、ゼノンを見た。


 尻尾の振動数が、さらに上がった。


 犬は立ち上がり、ゼノンに向かってトコトコ歩いてきた。


「来るな」


 犬は来た。


「来るなと言っている」


 犬は、ゼノンの手に鼻を押し当てた。冷たく湿った鼻。


「……ッ」


 ゼノンは手を引いた。


 犬は尻尾を振った。もっと振った。全身で振った。


「離れろ。私は魔王だ。世界の半分を支配する者だ。犬に懐かれている場合では――」


 犬が、ゼノンのマントの裾を咥えた。


 ハムハム。


 噛んでいるのではない。甘噛みだ。赤ん坊がおもちゃを口に入れるような、力の入っていない、ただの口遊び。


「……離せ」


 ハムハム。


「これは最高級の呪いがかかった魔王の正装だぞ。呪術師が三年かけて織り上げた――」


 ハムハム。ヨダレがジワリと染みた。


「ヨダレでベタベタにするなァァァ!! 当たり判定が……ヨダレの当たり判定が消えないだと!? なぜ最高位の呪術防壁を犬の唾液が貫通するんだ!!」


 兵士たちが、小声で囁き合った。


「魔王様も結局、犬には勝てないんだな……」


「誰も勝てねぇよ、犬には……」



   ◇



 ゼノンは、玉座の間に戻った。


 マントの裾は犬のヨダレで光っていたが、誰もそれを指摘しなかった。指摘した者の寿命が縮むことは明白だった。


 ゼノンは、玉座に座った。


 八百年間、この玉座から動かなかった。


 動く必要がなかった。


 配下の軍が全てを片付けてきた。人間の王国を滅ぼし、勇者を退け、大陸の半分を制圧した。


 全て、この玉座に座ったまま。


 だが、今。


 ゼノンの軍は、カピバラ一匹を止められない。


 暗殺部隊は座禅を組み、重装甲部隊は尻に負け、水中部隊は入浴に巻き込まれた。


 残った兵士は犬の腹を撫でている。


 城内に犬が住み着いている。


 報告書に「敵の尻」という三文字が出てくる。


「…………」


 ゼノンは、考えた。


 このままでは、自分は「ラスボス」ではなくなる。


 物語の中心から外れ、ただの「背景」になる。


 いや、もっと悪い。


 「ツッコミ役」になる。


 読者にとっての「感情移入先」が、魔王であるゼノンに移ってしまう。魔王が読者の代弁者になるという、構造的な逆転現象。


 それは、八百年かけて築いた「恐怖の象徴」としての自分が、「共感の対象」へと堕ちることを意味する。


 許せなかった。


 ゼノンは、立ち上がった。


 八百年ぶりに。


 玉座が、軋んだ。ゼノンの体重を支え続けた石造りの椅子が、主人の不在を予感して悲鳴を上げた。


「フェリクス」


「ハッ」


「近衛兵を集めろ。まだ汚染されていない者だけを」


「汚染……犬の幸福に汚染されていない者、ということですか」


「それ以外の何だ」


「……確認しますが、現時点で犬と接触していない兵士は、城内に――」


 フェリクスが、手元の名簿を確認した。


 長い沈黙があった。


「……七名です」


「七名」


「はい。うち二名は先週から体調不良で寝込んでおり、残る五名は地下牢の看守です。犬がそこまで降りていないため、まだ無事です」


「……五名か」


「はい。かつて数千を誇った魔王軍の、現在の戦闘可能兵力は五名です」


「…………」


 ゼノンの額の青筋が、限界を超えた。


「いい。五名で十分だ。私がいる。魔王がいれば、五名で世界を滅ぼせる」


「ハッ」


「出陣する。暴食の魔獣――いや、あのカピバラとかいうネズミを、私が直接仕留める」


「御意」


「これは『負けフラグ』ではない。運営による強制介入だ」


「畏まりました。ですが魔王様」


「何だ」


「……出陣の前に、マントのヨダレを拭いた方がよろしいかと」


 ゼノンは、マントの裾を見た。


 犬のヨダレが、魔王の紋章の上で乾き始めていた。


「…………」


 八百年の威厳が、犬のヨダレで台無しになっていた。



   ◇



 魔王城の正門。


 夜。


 ゼノンは、五名の近衛兵を背後に従え、門の前に立っていた。


 八百年ぶりの外の空気。


 冷たく、乾いている。


 遠くで瘴気の柱が空に立ち上っている。暗黒大陸の夜景。彼が支配する世界の半分。


「行くぞ」


 ゼノンが一歩を踏み出した瞬間。


 背後で、音がした。


 パタパタパタパタ。


 足音。


 四本足の、軽やかな足音。


 ゼノンは振り返らなかった。


 振り返りたくなかった。


 だが、マントの裾に、あの感触があった。


 ハムハム。


「…………」


 巨大ゴールデンレトリバーが、マントの裾を咥えて、ゼノンの横に並んでいた。


 尻尾を振っている。


 「一緒に散歩に行ける」と思っているのだ。


「フェリクス」


「ハッ」


「この犬をどうにかしろ」


「どうにか、とは」


「どうにかだ!」


 フェリクスは犬に近づいた。


 犬は、フェリクスにも尻尾を振った。フェリクスの手を舐めた。


「……魔王様。この犬、どうにもなりません」


「なぜだ」


「かわいいからです」


「お前もか!!」



   ◇



 魔王ゼノン。八百歳。


 暗黒大陸の半分を支配する、最強の魔族。


 その男が、ついに玉座を降りた。


 カピバラ一匹を仕留めるために。


 近衛兵五名と、なぜかついてきた犬一匹を引き連れて。


 この親征が、世界のパワーバランスをさらに「おかしな方向」へ加速させることを、まだ誰も気づいていなかった。


 犬を除いて。


 犬は、ただ散歩が楽しかった。



【幕間】第7.5話「親征――あるいは、魔王が玉座を降りる日について」


――終――



【次回予告】


「キウィ。あの動物は何をしている」


「石でお手玉してるね」


「お手玉……? 待て、あの速度……肉眼で追えない……! 一秒間に何回投げてる!?」


「コツメカワウソ。器用な前足で石を転がしたり投げたりして遊ぶ習性がある」


「遊び!? あれが遊びだと!? あの軌道は完全に対空迎撃パターンだぞ! 超高速軌道爆撃じゃねーか!」


「ぬ」


「ゴート様、あっちに行っちゃダメだ! 被弾する! ……あ、石をキャッチした。え、ゴート様が石を咥えて返した? 今度はカワウソが投げ返した。……キャッチボール?」


次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』


第8話「弾道――あるいは、お手玉という名の終末兵器について」


お楽しみに。

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