第7話「静止――あるいは、時を止める眼光について」
レオ・ヴァルハルトの背中には、三つのものが括りつけられていた。
一つ目。先端を齧り取られた聖剣。騎士の誇りの残骸。
二つ目。二十三個のウォンバットの糞が詰まった背負い袋。大地の聖遺物。
三つ目。蛍光緑の金属板。走る人と扉のシルエットが描かれた、この世界にあるはずのない遺物。
レオはそれを「聖なる緑の案内人」と名付け、背負い袋の側面に革紐で固定していた。
「キウィ」
「なに」
「あの看板のこと、本当に何も知らないのか」
「……知らないよ」
「嘘をつくな。お前は昨日、あれを見て黙り込んだ。あれは『知らないもの』を見た顔じゃなかった」
キウィは答えなかった。
二秒の沈黙。
それから、話題を変えた。
「それより、ゴートの様子を見て」
レオは前方を見た。
ゴートは、沼を出てからずっと、同じ方向へ歩いていた。
モソ……モソ……。いつもの速度。いつもの無表情。
だが、何かが違った。
いつものゴートは、気まぐれに歩く。右に曲がり、左に曲がり、草を見つければ齧り、水を見つければ入り、風が気持ちよければ立ち止まる。
今日のゴートは、曲がらない。
真っ直ぐ。北へ。
まるで、目的地があるかのように。
「……ゴート様。今日はやけに迷いがありませんね」
「ぬ」
「何か……感じ取っているのですか」
「ぬ」
キウィが呟いた。
「カピバラに体内磁石があるって話は聞いたことないけど……まあ、この大陸のカピバラだからね。何があっても驚かない」
レオは驚いていた。
なぜなら、ゴートの「迷いのなさ」は、これまでのどの行動よりも「意志」に近く見えたからだ。
あの虚無の塊が、何かを目指している。
それは――少しだけ、怖かった。
◇
沼を抜けた先の地形は、枯れた湿原だった。
かつては豊かな水辺だったのだろう。干上がった地面に、白骨化した葦の茎が墓標のように立ち並んでいる。空は低く、灰色の雲が地平線まで覆い、風はない。
音がない。
虫の声もない。鳥の声もない。風の音もない。
完全な静寂。
レオの騎士としての勘が、ざわついた。
「……静かすぎる」
「うん。生き物の気配がない」
「結界か?」
「わからない。でも、何かが……」
キウィの声が止まった。
「……いる」
「何が」
「正面。二百メートル先。地面から生えてる……ように見えるもの」
レオは目を凝らした。
枯れた葦の群れの中に、一つだけ、異質なシルエットがあった。
大きい。
高さ2メートル以上。
灰色の体。長い首。太い嘴。そして――巨大な目。
金色の虹彩に縁取られた、琥珀色の瞳。
それが、こちらを見ていた。
いや。
こちらを見ているのか、遠くを見ているのか、何も見ていないのか、判然としなかった。
なぜなら、その生物は――動かなかったからだ。
「……鳥、か?」
「ハシビロコウ」
「ハシビロコウ」
「大型の鳥。魚食性。最大の特徴は――動かないこと」
「動かない?」
「獲物を待つ時、数時間にわたって完全に静止する。瞬きすらしない。動くことで獲物に気づかれるのを防ぐ、究極の待ち伏せ戦術」
レオは、ハシビロコウを見つめた。
ハシビロコウは、レオを見つめていた。
いや、見つめているのかどうかすらわからない。あの目は何も映していないようでいて、全てを映しているようでもあった。
動かない。
羽が揺れない。足が動かない。首が傾かない。
呼吸しているのかすら疑わしい。
風が吹いた。
枯れた葦が揺れた。
ハシビロコウは、揺れなかった。
風の中で、ハシビロコウだけが完全な静止を保っていた。
「…………」
レオの額に、冷たい汗が流れた。
ミーアキャットの「視線」は怖かった。数千の瞳に凝視される恐怖。
だが、これは違う。
たった一対の瞳。
たった一つの静止。
なのに、ミーアキャットの数千の視線より、重い。
「……おい待て」
レオの声が、掠れた。
「あの鳥、テクスチャがバグってるぞ。フレームレートがゼロだ。環境オブジェクトだけが動いて、あの鳥だけが止まってる。あり得ない。物理エンジンが適用されていない。あの鳥だけ、別のレイヤーにいる」
※レオの「発作」。ゲーム用語による現実の再解釈。なお、彼はレイヤーという概念を正確には理解していない。
「あの眼光……周囲の時間軸を固定して、因果律の変動を観測している。奴は『時の番人』だ。時間を止める力を持つ、世界の監視者だ」
キウィが溜息をついた。
「ただ獲物を待ってるだけだよ。あと、お前の深読みのフレームレートも落としてくれない?」
「落とせるか! あの威圧感を見ろ! 殺気がないのに殺気以上の圧を感じる! これが『静止する恐怖』か……!」
レオは剣の柄を握りしめた。
ハシビロコウは、動かなかった。
レオを脅威と認識しているのか、していないのか。
答えは――おそらく、「認識していない」。
ハシビロコウにとって、レオは景色の一部にすぎない。獲物ではないものは、「存在しない」のと同じだ。
だが、レオにはそう見えなかった。
レオには、あの琥珀色の瞳が「全てを見通している」ように見えていた。
時の流れを。因果の糸を。この世界の秘密を。
ハシビロコウは、知っているのだ。全てを。
そう思うと、動けなかった。
◇
膠着は、三十分続いた。
レオが動けず、ハシビロコウが動かず、キウィが呆れていた。
唯一、ゴートだけが通常営業だった。
モソ……モソ……。
ゴートは、ハシビロコウに向かって歩き始めた。
「ゴート様!」
レオが叫んだ。
「無防備に近づいてはなりません! あの鳥は危険です! 時間を止める力が――」
ゴートは聞いていなかった。
モソ……モソ……。
ハシビロコウの足元まで、あと十メートル。
五メートル。
三メートル。
一メートル。
ゴートの鼻先が、ハシビロコウの足に触れそうな距離に達した。
その時。
ハシビロコウが動いた。
正確には、嘴が動いた。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……。
上嘴と下嘴を高速で打ち鳴らす。乾いた、硬質な連続音。
クラッタリング。
ハシビロコウの威嚇行動。あるいは求愛行動。文脈によって意味が変わる、この鳥種特有のコミュニケーション。
だが、レオにはそう聞こえなかった。
「死の宣告だ……!」
レオの顔が蒼白になった。
「あのカウントダウンが鳴り止んだ時、何かが発動する! 時間停止か!? 即死魔法か!? ゴート様を止めなければ!」
レオは走った。
全力で。
ゴートの巨体に追いつき、横から抱きついた。
「ゴート様! 戻ってください! お願いですから!」
ゴートは止まらなかった。
80キロの体が、レオを引きずりながら前進する。
レオの手が滑った。
ゴートの首を掴もうとした手が、下にずれた。
顎の下。
柔らかい。
レオの指が、ゴートの顎の下を撫でた。
クチュ、クチュ……。
偶然の、顎の下の摩擦。
その瞬間。
ゴートの足が止まった。
「……え?」
ゴートの目が変わった。
いつもの半開きの虚無の目が、さらに細くなった。
トロン、と。
目尻が下がり、口元が微かに緩み、全身の力が抜けていく。
80キロの体が、ヘナヘナと、まるで骨が消えたかのように崩れ落ちた。
地面の上で、仰向けに。
四肢を投げ出し、腹を晒し。
完全に、溶けた。
「…………」
レオは、自分の手を見た。
今、何をした。
顎の下を、撫でた。
それだけで、ゴートが――止まった。
「……やった」
レオの声が、震えた。
「やった……! 神を、無力化したぞ……!」
レオは自分の手を見つめた。
「アゴの下にある特定のツボ……いや、これは神の機能を一時停止させる『緊急停止レバー』か! 触れた瞬間に全演算が停止した……! 禁忌の封印術……!」
キウィが頭上から言った。
「ただ気持ちよくて寝てるだけだよ」
「封印術だ」
「気持ちよくてフリーズしてるだけ」
「封印術だ」
「…………」
※カピバラの顎の下は、皮膚が特に薄く、神経終末が密集している敏感な部位である。適切な圧力で刺激されると、副交感神経が優位になり、急激なリラクゼーション反応が起こる。人間で言えば「頭皮マッサージで意識が飛ぶ」のと同じメカニズムだ。なお、カピバラの場合、この反応が極めて劇的に表れることで知られている。目が完全にトロンとなり、体がぐにゃりと崩れ、数分間にわたって「この世のものとは思えないほど幸せそうな顔」で固まる。
ゴートは、溶けていた。
地面の上で仰向けになり、四肢を天に向けて投げ出し、腹を晒している。
目はトロン。口元は緩み。
虚無の表情が消えていた。
代わりにあったのは、「うっとり」としか表現しようのない、この世の全てを許容した顔だった。
レオは、その顔を見て――泣いた。
三度目だった。
「ゴート様にも……『快楽』があったんだ……」
「最初からあるよ。あの方だって生き物なんだから」
「いや、わかってる。わかっていたつもりだった。だが、あの虚無の表情が崩れる瞬間を実際に見ると……」
レオは鼻を啜った。
「……尊い」
「まあ、否定はしない」
◇
ゴートが「溶けて」いる間、ハシビロコウは変わらず静止していた。
カタカタカタ、というクラッタリングも止まっていた。
再び、完全な静止。
レオは、目の前の光景を見つめた。
溶けて動かないカピバラ。
そもそも動かないハシビロコウ。
二つの「静止」が、枯れた湿原の真ん中で並んでいる。
風が吹いた。
二つとも、揺れなかった。
「…………」
レオは、静かに跪いた。
「時の番人が、ゴート様を『同格』と認めた」
「認めてないよ」
「あの二つの静止は、宇宙の法則がぶつかり合った結果だ。『動かない者』と『動けなくなった者』。時間の停止と、快楽による停止。この二つが同じ空間に存在する時、世界は――」
「何も起きてないよ。鳥が立ってて、カピバラが寝てるだけだよ」
「世界は一時の停滞を許される。これが……『静止の共鳴』……!」
キウィは羽繕いを始めた。
もう突っ込む気力がなかった。
十分ほど経って、ゴートが起き上がった。
ゆっくりと。のそりと。
虚無の表情が、元に戻っていた。
「ぬ」
何事もなかったかのように、北へ歩き始めた。
ハシビロコウは、ゴートの背中をじっと見ていた。
動かずに。
だが、レオは気づいた。
ハシビロコウの頭が、わずかに――わずかに――ゴートの方へ傾いていた。
それは、この鳥が三十分以上にわたって保持していた「完全な静止」を、初めて崩した動きだった。
あの頭を動かさない鳥が、ゴートを「見た」。
それが何を意味するのか、レオにはわからなかった。
だが、キウィは知っていた。
ハシビロコウが静止を破る時、それは一つの意味しか持たない。
「獲物を認識した」。
ただし、ハシビロコウが「獲物」と認識したのは、ゴートではなかった。
ゴートが去った後の地面に残された、「何か」だった。
◇
レオが気づいたのは、一行がハシビロコウのいた場所を離れてからだった。
「……待て」
レオは足を止めた。
「看板」
「え?」
「緑の案内人(非常口の看板)。背負い袋を確認する」
レオは背負い袋を下ろし、側面を見た。
看板はしっかりと革紐で固定されている。
問題ない。
だが、レオはふと振り返った。
ハシビロコウが立っていた場所。二百メートルほど後方。
ハシビロコウはまだそこにいた。変わらず静止している。
だが――足元に、何かが見えた。
緑色。
「……嘘だろ」
レオは走った。
二百メートルを全力で駆け戻り、ハシビロコウの足元に辿り着いた。
ハシビロコウは、レオが足元に屈んでも微動だにしなかった。
枯れた葦の間に、半分埋もれていた。
金属板。
蛍光緑。
沼の底で見つけたものと同じ材質、同じサイズ。
だが、描かれている図柄が、違った。
走る人のシルエットではなかった。
座っている人のシルエットだった。
椅子に座り、手に何かを持っている。本のような形の何か。
そしてその上に、読めない文字。
沼の看板とは、別の文字。
「…………」
レオは二枚の看板を並べた。
一枚は、走る人と扉。
一枚は、座る人と本。
同じ材質。同じ蛍光緑。同じ形状。
だが、伝えている内容が違う。
走る人は「出口」を示している――ように見える。
座る人は「何か」を示している――が、何を?
「……ゴート様」
レオは呟いた。
「なぜこの世界の『出口』には、別のパターンがあるんですか」
ゴートは振り返らなかった。
北へ歩き続けている。
キウィは、レオの肩に降り立った。
二枚目の看板を、じっと見ていた。
今回は、沈黙しなかった。
だが、その目の奥に浮かんでいるものは、沈黙よりも深かった。
キウィは知っていた。
あの図柄が何を意味するかを。
だが、言わなかった。
まだ、言えなかった。
第7話「静止――あるいは、時を止める眼光について」
――終――
【次回予告】
「報告しろ。影の爪はどうした。アクア・スネークはどうした。アイアン・タートルはどうした」
「ハッ……影の爪は全員、小動物と日光浴をして帰還。アクア・スネークは、敵の入浴に巻き込まれて壊滅。アイアン・タートルは、敵の尻に負けました」
「…………」
「魔王様?」
「……俺が、直接行く」
「えっ」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
【幕間】第7.5話「親征――あるいは、魔王が玉座を降りる日について」
――ゼノン、ブチ切れる。




