【幕間】第3.5話「深淵の会議――あるいは、誰もいなくなった作戦室」
その頃、魔王城では。
◇
暗黒大陸の中心に聳える魔王城「終焉のカドゥケウス」は、建築学的にも魔法工学的にも、この世界の頂点に立つ構造物だった。
黒曜石と竜骨を編み込んだ城壁。呪力で駆動する自動防衛システム。城の周囲には常に暗雲が渦巻き、その内側では時間の流れすら歪んでいると言われる。
その最深部。謁見の間。
天井高30メートル。壁面を埋め尽くす戦勝旗。禍々しい紫の炎が灯る燭台。
そして、黒き玉座。
そこに座る者の名は、ゼノン。
暗黒大陸を統べる魔王。
齢八百。闇の魔術の極致に至り、五大陸のうち三つを制圧した、文字通りの「世界の半分」の支配者。
その顔は、精巧な彫刻のように整っている。銀灰色の長髪。深紅の瞳。額に浮かぶ第三の紋章。威厳という概念があるとすれば、それはこの男のために用意された言葉だろう。
ゼノンは、苛立っていた。
「……遅い」
低く、静かな声。だが、その一言で謁見の間の空気が三度下がった。
「ヴォルク中将の殲滅部隊が出発して、すでに四日。報告は一つもない。たかがネズミ一匹に、これほどの時間をかけるとは何事だ」
玉座の横に控える側近――猫の顔をした魔族、フェリクス参謀が、恭しく頭を下げた。
「ハッ。恐らくはオーバーキルしすぎて、死体の片付けに手間取っているのかと。中将は効率厨――いえ、殲滅においては妥協を知らぬ方ですからな」
「ならばとうに報告があるはずだ」
「……仰る通りです」
ゼノンの指が、玉座の肘掛けを叩いた。
コツ。コツ。コツ。
その音が止まった時、謁見の間の大扉が、軋みを上げて開いた。
◇
帰ってきたのは、三人だった。
殲滅部隊・二十名のうち、帰還できたのは三人。
その先頭に立つのが、ヴォルク中将――のはずだった。
「……何だ、その格好は」
ゼノンの声が、低くなった。
ヴォルク中将の姿は、出発前とは別人だった。
最高位の戦闘ローブは脱ぎ捨てられ、代わりに簡素なシャツ一枚。その全身には、乾いた「何か」がこびりついている。テカテカと光る粘液。そして――黄金色の毛。大量の、黄金色の毛が、全身に張り付いている。
杖は持っていなかった。
代わりに、そこらへんで拾ったらしい「いい感じの枝」を、大事そうに抱えている。
だが、最も異常だったのは、その目だった。
ヴォルク中将の瞳から、光が消えていた。
いや、違う。
光が消えたのではなく、光の種類が変わっていた。
殺意も、野心も、恐怖もない。
ただ、穏やかで、温かくて、何もかもを許すような――「悟り」の光。
五百年の戦歴を持つ魔族の目が、完全に死んでいた。
いや、逆だ。
初めて、生きていた。
「ヴォルク」
ゼノンが名を呼んだ。
「報告しろ。暴食の魔獣は討伐したのか」
ヴォルクは、ゆっくりと顔を上げた。
「……魔王様」
「何だ」
「戦いは、もう終わりです」
謁見の間が、静まり返った。
ゼノンの紅い瞳が、わずかに細まった。
「……終わり、だと? 討伐したのか」
「いえ」
「では、敗北したのか」
「いえ。そうではなく……」
ヴォルクは、枝を胸に抱きしめた。
「……私たちは、最初から間違っていたのです」
「…………」
沈黙。
ゼノンの指が、肘掛けを握りしめた。
「……精神攻撃を受けたのか」
「いえ」
「洗脳か」
「いえ」
「ならば何だ。古の呪法か。禁忌級の即死呪文か。何に負けた」
ヴォルクは、遠くを見る目で答えた。
「『お手』です」
「…………」
「あの方は、とても……いい子でした」
「…………」
ゼノンの顔に、生まれて初めて「理解不能」という表情が浮かんだ。
八百年を生き、五大陸の三つを制し、あらゆる種族の叡智と狡猾さを見てきた魔王が。
部下の報告を、理解できなかった。
「フェリクス」
「は」
「通訳しろ。この男が何を言っているのか、俺にはわからん」
フェリクス参謀は咳払いをした。
「恐らくですが……中将は、何らかの動物と触れ合い、その結果として戦意を完全に喪失した――と」
「動物だと?」
「はい。その……全身に付着している黄金色の毛は、おそらく大型犬の――」
「犬」
ゼノンの声が、硬くなった。
「犬に負けたのか。我が軍最強の魔導師が」
「負けた、というよりは……」
「……というよりは?」
「……懐かれた、と表現するのが正確かと」
謁見の間に、重い沈黙が落ちた。
◇
ゼノンは、追加の報告を求めた。
帰還した三名のうち、残りの二名にも聴取を行った。
全員が同じ症状だった。
全員の目から殺意が消えていた。
全員が「いい子だった」と繰り返した。
全員の体に、黄金色の毛が付着していた。
そして全員が、報告の最中に何度も「枝」に手を伸ばし、投げたそうにしていた。
「……状況は理解した」
ゼノンは玉座から立ち上がった。
「要するに、暴食の魔獣――カピバラとやら――の周囲には、何らかの広域精神汚染を発生させる従属種がいるということだな」
「犬、です」
「犬。そうだ、犬。犬が我が軍の精鋭を無力化したと。そういうことだな」
「はい」
「…………」
ゼノンは、謁見の間の窓から外を見た。
暗雲の向こうに、暗黒大陸の大地が広がっている。
そのどこかに、カピバラと犬と、頭のおかしい人間の騎士がいる。
「あの人間の騎士は何者だ」
「レオ・ヴァルハルトと名乗る男です。聖フォルティア王国の元騎士団長」
「元、か。今は?」
「カピバラの……飼育係、だと自称しているようです」
「…………」
ゼノンの額に、青筋が浮かんだ。
「飼育係が、魔獣を操り、犬で我が軍を汚染し、城塞を一つ潰した。そういうことか」
「いえ、おそらく本人にはそのような戦略的意図は――」
「あるだろ」
ゼノンは断言した。
「これは計算された侵略行為だ。まず最前線の城塞を物理的に破壊し、次に追撃部隊を精神的に無力化する。段階的なエスカレーション。完璧な二段構えだ。あの騎士は、動物を兵器として運用する天才だ」
フェリクスは「違うと思いますが」と言いかけて、飲み込んだ。
魔王の推論は間違っている。
だが、魔王の推論を否定する根拠もない。
なぜなら、「カピバラが歯を研ぎたかっただけ」で城塞が落ち、「犬がただ嬉しかっただけ」で精鋭が壊滅したなどという真実は、あまりにも馬鹿げていて、正気の者には信じられないからだ。
合理的に考えれば、魔王の推論の方が「まとも」なのである。
世界は、まともな方から壊れていく。
◇
ゼノンが対策会議を召集したのは、その日の夕刻だった。
魔王軍の最高幹部が、円卓を囲む。
破壊将軍・ガルド。全身が岩のような筋肉で覆われた、暴力の化身。
毒蛇参謀・セルペンテ。細身の魔族で、眼鏡の奥の目は常に計算している。
氷結姫・グラシア。名前に反して全く冷たくない、温厚な性格の魔族。
そしてフェリクス参謀。
四名の幹部が、円卓についた。
ゼノンが口を開いた。
「暴食の魔獣に対する討伐作戦の第二段階を策定する。まず、ヴォルク中将の報告を共有する。フェリクス」
「はい」
フェリクスは、ヴォルクの報告を簡潔にまとめた。
城塞の破壊。犬による精神汚染。中将の戦意喪失。
報告が終わると、円卓に沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、破壊将軍ガルドだった。
「…………犬に、負けたと?」
「はい」
「犬を、殺せなかったのか?」
「殺す以前に、中将たちは犬に『遊ばれた』とのことです」
「遊ばれた」
「はい。犬たちにとって、禁忌魔法は『ボール遊び』だったと」
「…………」
ガルドの岩のような顔に、困惑が浮かんだ。
「俺はなぁ、面倒くさいことは嫌いなんだ。よくわからんが、要するに『殴れば死ぬ』んだろ? 犬も齧歯類も」
「理論上は」
「なら俺が行って殴る。以上だ」
ゼノンが遮った。
「ガルド。ヴォルクの咬合力は12トンだ。お前は8トン。ヴォルクに噛みつかれても平気だった齧歯類に、お前の拳が効くと思うか」
「…………」
ガルドは腕を組んだ。
「……効かないな」
「そうだ。物理は通じない。精神攻撃(犬)にも耐性が要る。今回必要なのは、別のアプローチだ」
毒蛇参謀・セルペンテが、眼鏡を押し上げた。
「魔王様。一つ提案がございます」
「言え」
「隠密部隊『影の爪』を派遣してはいかがでしょう。彼らの精神は戦闘訓練によって感情を完全に切除されています。犬の『好意』も、カピバラの『虚無』も、感情を持たない者には効果がないはず」
「感情がなければ犬に懐かれても平気だと?」
「理論上は」
ゼノンは頷いた。
「……いいだろう。影の爪を出せ」
その時。
氷結姫グラシアが、控えめに手を挙げた。
「あの……一つ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「その、ヴォルク中将がお持ちになった……犬の毛なんですけれど」
グラシアは、円卓の上に置かれた「証拠物件」――ヴォルクが持ち帰った黄金色の犬の抜け毛を指差した。
「……触っても、いいですか?」
「だめだ」
「ちょっとだけ」
「だめだ」
「指先だけ」
「グラシア」
「……はい」
グラシアは手を引っ込めた。
だが、その目は犬の毛から離れなかった。
ゼノンは嫌な予感がした。
◇
会議は続いた。
だが、空気が変わり始めていた。
原因は、円卓の上に置かれた犬の抜け毛だった。
それは「証拠物件」として提出されたものだが、時間が経つにつれ、そこから微かな「匂い」が広がり始めていた。
日向の匂い。
温かくて、柔らかくて、どうしようもなく幸福な匂い。
犬の匂いだった。
最初に陥落したのは、グラシアだった。
「……あぁ」
小さな吐息。
円卓に頬杖をつき、犬の毛をじっと見つめている。その目が、潤んでいた。
「あの……昔、飼ってたんです。実家で。白い、小さな犬を。名前は、ユキ……」
「グラシア。会議中だ」
「すみません。でも、この匂い……ユキと同じ……」
次に陥落したのは、破壊将軍ガルドだった。
「…………」
ガルドの岩のような顔が、わずかに緩んでいた。
鼻が、ヒクヒクと動いている。
「……俺はなぁ。面倒くさいことは嫌いなんだ」
「ガルド。お前もか」
「だがなぁ……この匂い……。実家のチワワを思い出す……」
「お前の実家の話は聞いていない」
「小さかったんだよ。手のひらに乗るくらい。名前は……ゴツ……」
「名前も聞いていない」
「ゴツだぞ。俺がつけた。かわいかったなぁ……ゴツ……」
ガルドの目から、岩の隙間を伝う雨水のように、涙が流れた。
ゼノンは頭を抱えた。
「お前ら! シャキッとしろ! ここはダークファンタジーの総本山だぞ! ほのぼの日常系にジャンル変更するつもりか!?」
セルペンテだけが冷静だった。
「魔王様。この犬の毛には残留する精神汚染効果があるようです。即刻、この場から除去すべきかと」
「そうだ。フェリクス、この毛を処分しろ」
フェリクスが犬の毛を回収しようとした瞬間、グラシアの手が伸びた。
「だめ」
「……グラシア殿」
「それは、ユキの匂いがする。捨てないで」
「ユキ殿はここにはいらっしゃいません」
「いる。この毛の中に、いる」
「いません」
「いるの!」
八百歳の魔族が、駄々をこね始めた。
ゼノンの額の青筋が、限界に達しつつあった。
◇
その時、謁見の間の外から、音が聞こえてきた。
足音。大量の足音。
だが、整然とした行軍のリズムではない。
バタバタバタバタ! と、統制のない走り方。
「何事だ」
ゼノンが扉に視線を向けた瞬間、一般兵が駆け込んできた。
「報告! 魔王様!」
「何だ」
「城の監視部隊が……全員……」
「全員?」
「城のベランダで……謎の小動物と一緒に日光浴を始めて……職場放棄しています!」
「…………小動物?」
「は、はい! 二本足で直立する、小さな茶色い……目が大きくて……」
「……それは後回しだ。監視部隊を持ち場に戻せ。それから、なぜ外がこんなに騒がしい」
一般兵の顔が、引きつった。
「それが……兵舎の兵士たちが、武器を放り出して走り出しまして……」
「どこへ」
「『お散歩の時間だ!』と叫びながら、城の外へ……」
「…………」
「現在、城内に残っている兵力は、この会議室の皆様を含めて……二十三名です」
沈黙。
ゼノンは、静かに立ち上がった。
「……フェリクス」
「はい」
「我が軍は今、何と戦っているんだ」
「……犬、です」
「犬」
「と、カピバラ。あと、その飼育係を自称する元騎士団長」
「人間は一人か」
「一人です」
「一人と一匹と犬に、我が軍が壊滅しかかっている」
「…………はい」
ゼノンは深く、深く息を吐いた。
「……このままでは、この物語のラスボスが俺ではなく、ただのデカい犬になってしまう」
※第4の壁にヒビが入る音がした。
「影の爪を直ちに派遣しろ。セルペンテ、お前が指揮を執れ。カピバラを暗殺する。犬は無視しろ。本体さえ倒せば、この『精神汚染』も止まるはずだ」
セルペンテが眼鏡を押し上げた。
「了解しました。感情を持たない影の爪ならば、犬の好意も通じません。確実に仕留めます」
「頼んだぞ。俺はもう、これ以上部下が犬に懐いて帰ってくるのを見たくない」
「お任せを」
セルペンテが退出した。
会議室に残されたのは、ゼノン、フェリクス、グラシア(犬の毛を抱きしめている)、ガルド(泣いている)の四名。
ゼノンは玉座に深く腰掛け、目を閉じた。
「……犬か」
八百年生きてきた。
勇者と戦った。聖女を退けた。竜を従え、神に叛逆した。
だが、犬とは戦ったことがなかった。
それは盲点だった。
「犬だけは、想定していなかった……」
呟きは、誰にも聞こえなかった。
◇
夜。
会議が解散し、幹部たちが退出した後。
ゼノンは一人、玉座に座っていた。
暗い謁見の間で、紫の炎だけが揺れている。
静寂。
この城が最も「魔王城らしい」時間。
ゼノンは目を閉じ、明日からの戦略を練り直そうとしていた。
その時。
玉座の影から、何かが顔を出した。
金色の毛並み。垂れた耳。濡れた鼻。
そして、この上なく嬉しそうに振られる尻尾。
一匹の巨大ゴールデンレトリバーが、玉座の裏に隠れていた。
いつからいたのかは、わからない。
どうやって魔王城に入ったのかも、わからない。
犬は、ゼノンを見上げた。
尻尾を振った。
「ワン!」
魔王の絶叫が、城全体に木霊した。
「なぜここにいるんだァァァァァ!!!」
犬は、尻尾を振った。
もっと振った。
お前に会えて嬉しい、という顔をしていた。
八百年生きた魔王に対して。
犬は犬だった。
【幕間】第3.5話「深淵の会議――あるいは、誰もいなくなった作戦室」
――終――
【次回予告】
「なぜ三百匹の小動物が、全員同じ方向を向いて直立しているんだ……?」
「ミーアキャットです。集団で見張りをする習性が」
「全員こっちを見てる! 全員! 瞬きしてない! 怖い!」
「ぬ」
「ゴート様は気にしてないのか!? ……いや待て、なぜゴート様の方だけ見ていない? まさか、あれは――『畏怖』か?」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第4話「千眼――あるいは、全てを見通す者たちの沈黙について」
お楽しみに。




