第14話「遅延――あるいは、ラグによって歪む死神について」
地下施設の奥には、さらに通路が続いていた。
自動栽培エリアを抜け、崩落したエスカレーターを降り、錆びた防火扉を押し開けた先。
空気が、変わった。
重い。
物理的に重い。
腕を動かすと、水の中にいるような抵抗を感じる。
「……何だ、この感覚は」
レオが腕を振った。
遅い。
自分の腕の動きが、明らかに遅い。振り始めてから振り終わるまでに、いつもの二倍の時間がかかっている。
「レオ。お前の動きがおかしい」
キウィが言った。
「おかしいのは俺じゃない。この空間がおかしい」
ゼノンが足を踏み出した。
一歩に、三秒かかった。
「…………」
ゼノンの紅い瞳が、鋭くなった。
「時間歪曲か。この空間では、時間の流れが遅くなっている」
「時間の流れが……」
「正確には、この空間内の物理法則に干渉する何らかの場が存在している。重力ではない。空気抵抗でもない。もっと根源的な、時間そのものに作用する力だ」
フェリクスが手を振った。
猫の反射速度を持つはずの腕が、ゆっくりと弧を描いた。
「……魔王様。私の演算速度が八十パーセント低下しています。これは……サーバーの処理遅延ですか」
「サーバーではないが、似たようなものだ。この空間では、あらゆる物体の運動速度が制限されている」
レオの騎士脳が、回転した。
遅い回転だった。
「……フレームレートが落ちている」
「は?」
「この空間のフレームレート――世界の描画速度が、限界まで低下しているんだ。サーバーの処理能力を超える負荷がかかって、全てがスローモーションになっている。フレームレート1以下。ラグだ。致命的なラグが発生している」
「……お前の脳内ではこの世界はゲームサーバーなのか」
「ゲームサーバーでなければ何だと言うんですか。重力はバグ、地面はテクスチャ、動物はNPC、そして今、処理遅延で世界が止まりかけている。これ以上の根拠が必要ですか」
ゼノンは反論しなかった。
反論する気力を、ラグが削いでいた。
そして、全員が同時に気づいた。
通路の天井に、何かがぶら下がっている。
配管に。
錆びた金属の配管に、四本の爪で掴まり、逆さまにぶら下がっている。
茶色い毛。長い四肢。丸い頭。小さな目。
そして、途方もなく――穏やかな表情。
「…………」
ナマケモノだった。
体長六十センチほどの、フタユビナマケモノ。
逆さまのまま、こちらを見ている。
いや。
見ているのかどうかすら、わからなかった。
目が半開きで、虚無の表情で、微動だにしない。
「……キウィ」
「ナマケモノ。フタユビナマケモノ。一日二十時間寝る。起きている四時間も、ほとんど動かない。一分間に約二メートルしか移動できない。哺乳類の中で最も代謝が低い動物の一つ」
「最も遅い生物が、最も遅い空間にいる……」
「ナマケモノがこのラグの原因なんじゃないかって言いたいの?」
「違うのか?」
「因果関係は逆だよ。この空間が遅いから、ナマケモノが居心地よくてここにいるだけ。ナマケモノにとって、世界がスローモーションになるのは『通常営業』だからね」
「つまり、この死神は……」
「死神じゃないよ」
「この超低速の守護者は、ラグを操っているのではなく、ラグと共生しているのか」
「守護者でもないけど、共生という点では正しい。ナマケモノは自分に最適な環境を選んでいるだけ」
ナマケモノは、ゆっくりと首を回した。
五秒かけて、レオの方を向いた。
目が、合った。
虚無の目。
ゴートと同じ種類の目だった。
だが、ゴートの虚無が「何も考えていない虚無」であるのに対し、ナマケモノの虚無は「考える速度が遅すぎて虚無に見える虚無」だった。
質が違う虚無。
レオは、その目に射すくめられた。
※ナマケモノの「遅さ」は、実は高度な生存戦略である。代謝を極限まで下げることで、少ないエネルギーで生きられる。天敵から身を守る際も、「動かないことで視覚的に検出されにくくなる」という防御機構が働く。つまり、ナマケモノは「遅い」のではなく「遅いことが最適解である環境を選んでいる」のだ。
◇
足音がした。
後方から。
速い。ラグの影響を受けているにもかかわらず、明らかに訓練された者の足音。
レオが振り返った。
遅い。体がラグに掴まれて、振り返る動作に二秒かかった。
通路の闘の中から、影が飛び出してきた。
長身。痩せ型。フードの下から覗く鋭い目。
右手に、細い刃物。
速かった。
ラグの中でさえ、この男の動きは速かった。他の全員がスローモーションの中を泳いでいるのに、この男だけが七割ほどの速度を維持している。
「――ッ!」
刃が、レオの喉元に向かって突き出された。
音速には程遠いが、ラグの中では十分すぎる速度。
レオの体は動かない。聖剣を抜く動作すら間に合わない。
終わる。
そう思った瞬間。
天井から、何かが落ちてきた。
いや、「落ちてきた」は不正確だった。
ナマケモノが、爪を離した。
配管から手を離し、重力に従って落下し始めた。
だが、その落下速度が、異常だった。
遅い。
落ちているのに、遅い。
この空間のラグの影響を最も色濃く受けているのは、この空間に最も長くいたナマケモノだった。
ナマケモノは、落下しながら、右前足の爪を伸ばした。
フタユビナマケモノの爪。
体長の割に異常に長い、鉤状の爪。
それが、ゆっくりと、弧を描いた。
三分。
文字通り、三分間かけて、ナマケモノの爪が空気を切った。
刺客の男は、ナマケモノの存在に気づいていた。
気づいていたが、回避しなかった。
なぜなら、その爪の軌道はあまりにも遅く、あまりにも緩慢で、脅威として認識できなかったからだ。
訓練された戦闘者の反射は、「速い攻撃」に対して最適化されている。
飛んでくる矢。振り下ろされる剣。放たれる魔法。
全て、「速い」。
だから回避できる。
だが、「三分間かけてゆっくり降りてくる爪」は、脳の回避判定に引っかからない。
静止オブジェクト。
男の脳は、ナマケモノの爪を「動いていないもの」として処理した。
壁の一部。天井の突起。障害物。
回避不要。
そう判定した。
判定は、間違っていた。
三分後。
ナマケモノの爪が、男の右肩に触れた。
触れた。
それだけだった。
だが、その「触れ」の中には、三分間分の位置エネルギーと、ラグによって圧縮された運動量が凝縮されていた。
通常の空間なら、0.5秒で完了する落下の運動エネルギーが、三分間に引き延ばされた結果、解放の瞬間に一点に集中した。
音がした。
鈍い音。
男の体が、横に吹き飛んだ。
壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。
「…………」
レオは、ラグの中で、目を見開いていた。
「……何が、起きた」
「ナマケモノが落ちてきて、爪が当たった。それだけ」
「それだけ? あの刺客が一撃で……!?」
「ラグ空間での落下エネルギーの蓄積だよ。ゆっくり動いているように見えて、物理的なエネルギー自体は保存されてる。解放のタイミングで一点に集中しただけ」
「…………」
レオの目が、ナマケモノを捉えた。
ナマケモノは、壁際に着地していた。
ゆっくりと。
穏やかに。
そして、何事もなかったかのように、壁の配管に爪をかけ、再び登り始めた。
「……これが」
レオの声が、震えた。
「超低周波暗殺術……! 回避判定が出る前に、存在ごと上書きする、最遅の一撃……!」
「ナマケモノが落ちただけだよ」
「ラグ・キル……! 遅延を武器に変える、究極の受動防御……!」
「だから、ただ落ちただけ――」
「名付けよう。この技を。『判定残り』。攻撃速度があまりに遅いため、敵の回避システムが脅威として認識できず、判定をスルーする。スルーした結果、回避不能の一撃が確定する。速さの極致が回避を許すなら、遅さの極致は回避の概念そのものを無効化する……!」
キウィは突っ込むのをやめた。
フェリクスが呟いた。
「……理屈としては、間違っていません。この空間の物理法則においては、ナマケモノの『遅さ』は確かに防御機構として機能しています。攻撃を攻撃として認識させない。それは、ゴート様の『虚無が属性を持たないから削除できない』という防御と、構造が似ています」
「フェリクス。お前まで」
「事実を述べただけです。命名についてはノーコメントです」
◇
吹き飛ばされた男は、壁際でうずくまっていた。
右肩を押さえている。骨は折れていないが、打撲は深い。
フードがずれ、顔の半分が見えた。
若い。レオと同世代か、やや下。短い黒髪。鋭い目。
そして、右頬に、古い刀傷。
レオは、その傷を見た。
知っている。
あの傷を、知っている。
記憶の霧が、また震えた。
「…………お前は」
「……ったく。ナマケモノに殴られるとは思わなかった」
男は立ち上がった。
レオを見た。
その目に、敵意はなかった。
嘲笑もなかった。
あったのは、もっと複雑な――懐かしさと、諦めと、苦さの入り混じった光だった。
「よう、団長。久しぶり」
「…………」
「やっぱり思い出せないか。まあ、そうなるように設計されてるんだ。この世界は」
レオの手が、聖剣の柄を握った。
「……設計? 何のことだ」
「そのまんまの意味ですよ。この世界は『設計』されてる。あんたの記憶も。俺の名前を忘れたのも。全部、設計通り」
「お前の名前は――」
「カイン」
男が、名乗った。
「カイン。あんたの元副官。ヴァルハルト王国騎士団第三中隊副隊長。……まあ、もうどれもこの世界じゃ意味のない肩書きだけどな」
レオの頭の中で、霧が渦巻いた。
カイン。
副官。
第三中隊。
言葉として理解できる。だが、記憶としては繋がらない。名前を聞いても、顔を見ても、「知っている」という感覚はあるのに、具体的なエピソードが一つも浮かばない。
「……俺は、お前を知っているはずだ。だが、何も思い出せない」
「だから言ったでしょう。設計されてるんです」
「誰に」
「この世界を作ったやつに」
カインは肩を回した。ナマケモノの一撃の痛みがまだ残っているらしい。
「……さっきは悪かった。先に攻撃したのは俺だ。だが、殺す気はなかった。あんたの反応速度を確認したかっただけだ」
「確認して、どうする」
「報告する。俺の『魔王様』に」
ゼノンが反応した。
「……魔王だと。私以外に魔王がいるのか」
「いますよ。この世界には、もう一人」
「…………」
「そいつの名前は言えない。でも、あんたとは違う。あんたはこの世界のシステムに組み込まれた管理者だが、そいつはシステムの外から来た。看板と同じだ。アスファルトと同じだ。この世界の素材じゃない」
ゼノンの紅い瞳が、鋭くなった。
「外から来た存在が、自らを魔王と名乗っている、と」
「名乗ってるっていうか……まあ、そんなとこです」
カインは、視線をゴートに移した。
ゴートは、ラグの中を歩いていた。
通常速度で。
全員がスローモーションの中を泳いでいる空間で、ゴートだけが、いつもと同じ速度でトコトコと歩いていた。
半開きの目。虚無の表情。
ラグの影響を、一切受けていなかった。
「…………」
カインの表情が変わった。
初めて、驚きの色が浮かんだ。
「……嘘だろ。ラグが効いてない?」
「ゴート様にはラグが効かない……!」
レオが叫んだ。
「やはり、ゴート様はこの世界の処理系統そのもの――ローカルホストだ! サーバーの遅延は、サーバー本体には影響しない! ゴート様は、この世界を走らせている『ハード』そのものなんだ!!」
「カピバラだよ」
キウィの突っ込みは、もう条件反射だった。
カインは、ゴートを見つめていた。
長い、沈黙。
「……あのカピバラ。やっぱりバケモンだ」
「バケモンとは何だ。ゴート様を侮辱するな」
「侮辱じゃない。事実だ。あのカピバラは、この世界のルールに縛られていない。ラグも、削除も、属性定義も、全部すり抜ける。俺の魔王様が、あのカピバラだけは『触るな』って言ってた理由がわかった」
「お前の魔王が、ゴート様を知っているのか」
「知ってますよ。たぶん、この世界の誰よりも」
カインは、通路の奥を振り返った。
「……そろそろ行く。今日は偵察だけだ。殺し合いは、まだ早い」
「待て。まだ聞きたいことがある」
「あんたの記憶のこと? それは俺には答えられない。俺も、半分しか知らないんだ」
「半分?」
「この世界が何なのか。なぜ俺たちがここにいるのか。なぜあんたの記憶が消されているのか。俺が知ってるのは、その半分だ。残りの半分は――」
カインは、通路の闇に一歩踏み出した。
「――あのカピバラが知ってる」
そして、口笛を吹いた。
短い、鋭い口笛。
通路の奥から、影が現れた。
大きい。
鳥だった。
背の高い、灰色の鳥。
長い嘴。鋭い目。そして――動かない。一切動かない。
ハシビロコウ。
第7話でゴートの前に現れ、三時間にらみ合った後に去っていった、あの動物と同じ種。
だが、同じではなかった。
このハシビロコウの体には、金属が埋め込まれていた。
翼の付け根に、鉄灰色のフレーム。関節部分に、歯車のような機構。首の後ろに、小さな管のようなもの。
生物と機械の融合。
ハシビロコウが、機械で補強されていた。
「…………」
レオの顔が、青ざめた。
「……お前、何をした」
「何って、何が」
「その鳥に。何をした」
「見てわかるだろ。補強した。この世界の魔法じゃ足りないから、『外』の技術を使って。俺の魔王様の技術で」
レオの手が、震えた。
ハシビロコウは、レオを見ていた。
第7話の個体と同じ、動かない目。
だが、その目の奥に、金属の光が反射していた。
「……運営を裏切り、チートに手を染めたか」
レオの声が、低くなった。
「魔改造。生物を機械で汚染する行為。それは、この世界の法を犯している。管理者権限の不正利用だ」
「管理者権限? あんた、自分が管理者のつもりか?」
「俺じゃない。ゴート様だ。ゴート様のルールを犯している」
「…………」
カインは、少しだけ笑った。
嘲笑ではなかった。
「あんたは変わらないな、団長。何年経っても。何回リセットされても」
「リセット?」
「……また余計なことを言った。忘れてくれ」
カインは背を向けた。
機械化ハシビロコウが、カインの後に続いた。
金属の関節が、微かな音を立てて動いた。
通路の闇に、二つの影が消えていく。
「……カイン」
レオが呼んだ。
カインは立ち止まらなかった。
「次に会う時は、もう少しマシな話ができるといいな。団長」
足音が遠ざかった。
消えた。
ラグが、ゆっくりと解消されていった。
時間が、通常の速度に戻った。
レオは、カインが消えた闇を見つめていた。
ゴートが、レオの横に来た。
鼻を、レオの手に押し当てた。
「ぬ」
温かかった。
「…………ゴート様」
「ぬ」
「……あいつの言ったこと、本当ですか。この世界が『設計』されているということ。俺の記憶が消されているということ。あなたが、全てを知っているということ」
「ぬ」
同じ鳴き声。
同じ虚無。
だが、レオの手に押し当てられた鼻先は、いつもより少しだけ、長くそこに留まっていた。
第14話「遅延――あるいは、ラグによって歪む死神について」
――終――
【次回予告】
「……カインが言った。この世界には、もう一人の魔王がいると」
「外から来た存在。この世界の素材ではない、もう一人の管理者」
「そして、その魔王は、ゴート様のことを知っている」
「知った上で、『触るな』と命じている」
「……ゴート様。あなたは、一体何者ですか」
「ぬ」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第15話「相対――あるいは、最遅の者が創り出す絶対空間について」
お楽しみに。




