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第13話「飢餓――あるいは、十三匹の胃袋と枯れゆく大地について」

 空腹が、限界に近づいていた。


 黒い平原を歩き始めて丸一日。周囲の植生は枯れた雑草の残骸だけで、カピバラの主食となる生草はほぼゼロだった。


 子カピバラたちが、ピルピルと鳴いていた。


 いつもの「ぬぬ」とは違う。甲高く、か細い、不安の鳴き声。


 レオの心臓が、その度に軋んだ。


「…………」


 レオは歩きながら、羊皮紙に何かを書いていた。


 枝の先を焦がして即席の炭ペンを作り、文字と数字を刻んでいる。


「……キウィ。カピバラ成体の一日あたりの草の消費量は」


「三キロから五キロ」


「子カピバラは」


「一キロ前後」


「成体一匹、子体十二匹。最低消費量で計算して、一日あたり十五キロ。余裕を見て二十キロ。三日分で六十キロ」


 レオは数字を書き終え、羊皮紙をゼノンの前に突き出した。


「魔王殿。緊急避難措置に伴う共有地占有届です。署名を」


「……何だそれは」


「この平原の植生利用権を一時的に確保するための行政文書です。管理者であるあなたの署名が必要です」


「だから、私は行政官ではないと何度――」


「ここに署名欄。ここに日付欄。ここに承認印の代わりに魔力刻印を。なお、不受理の場合は異議申し立て書を提出します。フェリクス殿、異議申し立ての書式は」


「はい。軍規第七十四条に基づく行政不服審査請求書ですね。三部提出が必要です」


「フェリクス、お前まで加担するな」


 フェリクスは猫耳をぴくりと動かした。


「加担ではありません。行政手続きの適正化です。魔王様、署名された方が早いかと」


「…………」


 ゼノンはペンを奪い取り、署名した。


 魔力が紫黒に光った。


「……これで満足か」


「ありがとうございます。では、この文書に基づき、半径五キロ以内の植生利用権はゴート様の一行に帰属します」


「帰属する植生がゼロだという問題を解決しろ」


「…………」


 レオは、黒い大地を見下ろした。


 植生利用権を確保しても、利用する植生がなければ意味がない。


 書類では、胃袋は満たせなかった。



   ◇



 子カピバラの一匹が、レオの足元に寄ってきた。


 ピルピル。


 小さな鼻が、レオの靴をヒクヒクと嗅いでいる。


 靴についた草原の匂いを探しているのだ。


 食べられるものの匂いを。


「…………」


 レオは膝をつき、子カピバラの頭を撫でた。


「……すまない。もう少しだけ待ってくれ」


 子カピバラは、レオを見上げた。


 半開きの目。虚無の表情。


 だが、その小さな腹が、キュルル、と鳴った。


 レオの中の何かが、折れかけた。


 ゴートが、立ち止まった。


 いつもの「立ち止まり」とは違った。


 鼻を、下に向けていた。


 地面の方に。


「……ゴート様?」


 ゴートは黒い地面に鼻を押し当て、ヒクヒクと嗅ぎ始めた。


 長い。いつもより、ずっと長い時間、嗅いでいる。


 そして。


 前足を持ち上げた。


 振り下ろした。


 ガッ。


 硬い音がした。


 黒い地面に、亀裂が走った。


「えっ」


 もう一度。


 ガッ。ガッ。ガッ。


 ゴートが、前足で地面を掘っていた。


 黒いアスファルトを。


 粉砕していた。


「ゴート様が……地面を……!?」


「カピバラは土壌中のミネラルを摂取するために土を掘ることがあるけど……アスファルトを掘るのは聞いたことがない」


「あの前足は時速五十キロで走るための脚力だ。その筋力を垂直方向に転換すれば、アスファルトの二枚や三枚――」


「アスファルトを『枚』で数えるな」


 ゴートの前足が、リズミカルに地面を叩いた。


 ガッ。ガッ。ガッ。ガッ。


 黒い破片が飛び散り、穴が広がっていく。


 直径五十センチ。一メートル。一メートル半。


 アスファルトの下から、茶色い土が露出した。


「…………土だ」


 レオが呟いた。


「黒い地面の下に、土がある」


 ゼノンが穴を覗き込んだ。


「当然だ。この舗装路は地面の上に敷かれたものだ。剥がせば下に地層がある。だが……」


「だが?」


「この土の色。栄養分を含んだ、肥沃な土壌だ。そして……」


 ゼノンが手を伸ばし、土の中から何かを摘み上げた。


 白い。細い。分岐している。


「……根だ。植物の根が、地面の下に残っている」


「根……!」


「この大陸は、かつて緑に覆われていた。アスファルトの下に封じ込められた形で、植物の根系が生き延びている」


 レオの目が輝いた。


「地下にリソースが残っている……! 地表のテクスチャを剥がせば、深層に眠る植生データをサルベージできる……!」


「日本語で言え」


「アスファルトを剥がせば、草が生える可能性があります!」


「……最初からそう言え」


 ゴートは掘り続けていた。


 だが、カピバラの前足だけでは限界があった。穴は広がるが、深さが足りない。根はあるが、地上に芽を出すには時間がかかる。


 その時。


 地面の下から、音がした。


 カリカリカリカリ。


 速い。ゴートの掘削よりもずっと速い。


 穴の底に、小さな顔が現れた。


 丸い頭。短い髭。黒い目。


 マーモット。


 第11.5話のベンチの下で「座る人のシルエット」と同じ姿勢で直立していた、あのマーモット。


 いや、一匹ではなかった。


 二匹。三匹。五匹。八匹。


 穴の底から、次々とマーモットが顔を出した。


「……番兵が来た」


 レオが呟いた。


「ゴート様の掘削命令を受けて、地下部隊が出動したんだ」


「マーモットは巣穴を掘る動物だよ。ゴートが土を掘り返したから、自分たちの巣を拡張するチャンスだと思って集まってきただけ」


「違う。あの動き、完全に工兵隊の統率だ。等間隔で配置され、交互に掘削し、排出した土を後方に送っている。完璧なトンネル工事だ」


「…………」


 キウィは反論しなかった。


 なぜなら、マーモットたちの掘削は、本当に驚くほど効率的だったからだ。


 八匹のマーモットが、交互に前足で土を掻き、掘り出した土を後方に送り、空いたスペースに次の個体が入って掘り続ける。


 リレー方式の地下掘削。


 穴は急速に広がり、深さも増していった。


 三十分後。


 穴は、トンネルになっていた。



   ◇



 トンネルの先に、空間があった。


 大きな空間。


 天井が高い。壁がある。床がある。


 人工物だった。


 レオが松明代わりに聖遺物――ウォンバットの糞――を掲げた。


 なぜか光っていた。


 いつもは光らない聖遺物が、この地下空間に入った瞬間から、淡い緑色の蛍光を放ち始めていた。


「……聖遺物が反応している」


「糞が光ってるだけだよ」


「聖遺物がこの空間のエネルギーに共鳴しているんだ! この場所には、何かがある!」


 緑色の光に照らされた地下空間は、異様だった。


 タイルの床。部分的に崩落した天井。等間隔に並ぶ太い柱。


 そして、壁際に並ぶ金属の箱。錆びて朽ちかけているが、形状は読み取れる。


 改札口。


 レオはその単語を知らないはずだった。だが、その形状を見た瞬間、脳の奥から「改札口」という言葉が浮上した。


「……ここは、駅だ」


「駅?」


「わからない。わからないが、知っている。この場所は、何かに乗る場所だ。何かを待つ場所だ。上のベンチと、同じ機能を持つ場所の、地下版だ」


 ゼノンが柱を調べた。


「……コンクリート。鉄筋。この大陸には存在しない建築技術。看板と同じ文明の遺構だ」


「外の世界の」


「そうだ。この大陸の地下に、別の文明の施設が丸ごと埋まっている」


 フェリクスが天井を見上げた。


「……魔王様。上のアスファルトの平原と、この地下施設。どちらが『先に』あったのでしょうか」


「…………」


「つまり、この地下施設の上にアスファルトが敷かれたのか。それとも、アスファルトの下に地下施設が建設されたのか」


「前者だろう。地下施設が先にあり、その上をアスファルトで覆った。隠すように」


「誰が」


「わからん」


 答えが出ないまま、一行は地下空間を進んだ。


 改札口を抜けると、階段があった。


 下へ。


 さらに下へ。


 空気が変わった。


 湿度が上がった。温度が上がった。


 そして――匂いが変わった。


「……草の匂いだ」


 レオの鼻が反応した。


「草。生きている草の匂い。大量の、新鮮な――」


 階段の先に、光があった。


 蛍光灯ではない。太陽光でもない。


 紫色の人工光。


 植物育成灯の光だった。


 レオはその名前を知らなかったが、光を見た瞬間に「これは植物を育てるための光だ」と理解した。足の裏が覚えていたのと同じように、目が覚えていた。


 階段を降りきった。


 目の前に広がっていたのは。


 ジャングルだった。


「…………」


 全員が、足を止めた。


 地下に、ジャングルが広がっていた。


 天井から床まで、緑が埋め尽くしていた。


 巨大化した葉物野菜。レタスのような、だが人間の背丈を超える巨大な葉。セロリのような、だが太さが腕ほどある茎。見たことのない蔓植物が柱に巻き付き、天井を覆い、床を這っている。


 全てが、紫色の人工光の下で、異常に成長していた。


「……何だ、これは」


 ゼノンの声が、珍しく揺れていた。


「自動栽培システムの暴走だ」


 キウィが言った。


 全員が、キウィを見た。


 キウィは一瞬だけ口を噤んだ。言い過ぎたことに気づいたような間。


「……この施設には、植物を自動で育てるシステムがあった。水と光と栄養を循環させて、人の手を借りずに野菜を栽培する仕組み。それが壊れて――いや、壊れたんじゃない。管理する人がいなくなって、制御を失ったまま動き続けた。何十年も。何百年も。だから、こうなった」


「……キウィ。お前、なぜそれを知っている」


 レオの声が、静かだった。


「…………」


「お前は、この施設を知っているのか」


「……知らない。知らないけど、推測できる。この設備の構造と、さっきの改札口と、上のアスファルトから推測すれば、答えは一つしかない」


「推測か」


「推測だよ」


 レオは、それ以上追及しなかった。


 今は、それよりも先に。


「……ゴート様」


 ゴートは、すでに動いていた。


 巨大なレタスの葉に、かぶりついていた。


 モソ……モソ……モソ……。


 幸せそうだった。


 虚無の中にも確かに存在する、「食」の幸福。


 子カピバラたちが、雪崩のようにジャングルへ突入した。


 十二匹の小さな体が、巨大な葉の間に消えていく。


 モソモソモソモソモソモソモソモソモソモソモソモソ。


 十三匹分の咀嚼音が、地下空間に反響した。


 レオは、泣いていた。


「……地下に隠されたリソース・サーバー。ゴート様は、この世界のキャッシュを掘り当てたんだ……」


「地下に放置された自動農場だよ」


「神の食卓……」


「農場」


 ゼノンは壁に背を預け、腕を組んだ。


「……助かったな」


「はい。ゴート様のおかげです」


「カピバラが地面を掘ったおかげだ。神は関係ない」


 フェリクスが巨大なセロリの茎を爪でバリバリと引っ掻いていた。猫の習性で、硬い表面を見ると爪を研ぎたくなるらしい。


「……フェリクス。お前は食べないのか」


「食べています。爪を研ぎながら、セロリの皮を剥いています。猫族にとってこれは食事と身だしなみの同時処理です」


「……もういい」



   ◇



 食事が一段落した後、レオは地下施設の奥を探索し始めた。


 聖遺物は相変わらず淡い緑の光を放っている。


 松明の代わりとしては十分な明るさだった。松明の代わりがウォンバットの糞であるという事実からは、全力で目を逸らした。


 改札口の先。階段を降りた場所。自動栽培エリアを抜けた先に、通路があった。


 壁にはタイルが貼られている。床は平坦。天井は低い。


 そして、通路の突き当たりに。


 看板があった。


 蛍光緑ではなかった。


 白地に青い図柄。男女のシルエット。


 トイレの案内板。


 地上で見つけた三枚の看板とは、色も形式も違う。だが、「施設内の案内板」という点では同じだった。


 非常口。座る人。フォークとナイフ。そして、トイレ。


 四枚目。


 レオはトイレの案内板に近づいた。


 案内板の横の壁に、何かが書かれていた。


 殴り書き。


 赤い。血ではない。塗料だ。何かの顔料を指先に塗って書いたような、荒い文字。


 だが、読めた。


 文字体系は、看板の「読めない文字」とは違った。この世界の共通語で書かれている。


 殴り書きの文字は、こう記していた。



 「ここは俺がチェック済みだ。——カイン」



「…………」


 レオは、その名前を見つめた。


 カイン。


 人名だ。


 この地下施設に、誰かがいた。誰かが探索し、チェックし、署名を残した。


 レオは、その名前をなぞった。


 指先が震えていた。


 知っている。


 この名前を知っている。


 だが、思い出せない。


 記憶の霧の中で、何かが蠢いている。名前の輪郭はあるのに、中身が空白だ。


 第12話の丘の上にいた人影。あの立ち方。ヴァルハルト王国騎士団の偵察兵の基本姿勢。


 カイン。


 繋がっているのか。繋がっていないのか。


「……キウィ」


「…………」


「この名前を知っているか」


 キウィは、レオの肩に降りた。


 看板を見た。


 殴り書きを見た。


 そして、レオの肩を、強く掴んだ。


 鳥の爪が、肩に食い込んだ。


「痛っ……キウィ?」


「……レオ。この人を追っちゃダメ」


 レオはキウィを見た。


 キウィの目が、揺れていた。


 いつもの冷静さが、消えていた。


「……なぜだ」


「理由は言えない。でも、ダメ。この名前に、近づかないで」


「キウィ。お前は何を知って――」


「ゴートが呼んでる。戻ろう」


 キウィは飛び立った。


 逃げるように。


 レオは、壁の殴り書きをもう一度見た。


 カイン。


 その名前が、網膜に焼き付いた。



   ◇



 レオが自動栽培エリアに戻ると、ゴートと子カピバラたちは食事を終え、団子状態で丸まっていた。


 十三匹の茶色い餅。満腹の幸福に浸る、暖かい塊。


 ゼノンは壁に背を預けたまま、目を閉じていた。マントの中に子カピバラが三匹潜り込んでいるが、もう気にしていないらしい。


 フェリクスは柱の根元で丸くなっていた。完全に猫だった。


 平和な光景。


 だが、レオの中に、平和はなかった。


 カイン。


 その名前が、頭の中で鳴り響いていた。


「ゴート様」


 レオは、カピバラの団子の中心にいるゴートに近づいた。


「……この場所を、あなたは知っていましたか。地面の下に、これがあることを」


「ぬ」


「あの殴り書きの名前。カイン。あなたは、その名前を知っていますか」


「ぬ」


 同じ鳴き声。


 同じ虚無。


 だが、レオには見えた。


 ゴートの目が、一瞬だけ、「ぬ」の奥にある別の色を見せたことを。


 第10話で子カピバラを見た時と同じ。


 何かを覚えている目。


「…………」


 レオは、ゴートの横に座った。


 温かかった。


「……わかりました。今は聞きません」


 目を閉じた。


 暗闇の中で、カピバラの咀嚼音の残響と、聖遺物の緑の光と、壁の殴り書きが、ゆっくりと回転していた。


 カイン。


 その名前を、俺は知っている。


 だが、思い出せない。


 まるで、誰かに思い出すことを禁じられているように。


 眠りに落ちかけた時。


 音がした。


 足音。


 カピバラの咀嚼音とも、マーモットの掘削音とも違う。


 靴底が、タイルの床を踏む音。


 等間隔。一定のリズム。訓練された者の歩行。


 近づいてくる。


 暗がりの奥から。


 レオは目を開けた。


 手が、半分の聖剣に伸びた。


 通路の闇の中に、シルエットが浮かんだ。


 長身。痩せ型。右肩に何かを担いでいる。


 第12話の丘の上にいた、あの人影と、同じシルエット。


 シルエットが、口を開いた。


「…………思い出さなくていいですよ」


 低い声。


 聞き覚えのある声。


 聞き覚えがあるはずなのに、名前が出てこない声。


「団長」


 レオの心臓が、止まった。


 団長。


 自分を「団長」と呼ぶ者は、この世界にもう一人しかいないはずだった。


 ゴートの目が、開いた。


 虚無ではなかった。



第13話「飢餓――あるいは、十三匹の胃袋と枯れゆく大地について」


――終――



【次回予告】


「……誰だ、お前は」


「酷いなぁ、団長。俺ですよ。俺」


「…………」


「……やっぱり思い出せないか。まあ、そうなるように設計されてますからね。この世界」


「設計? 何のことだ」


「ゴート様。お久しぶりです。……いや、お久しぶりって言うのも変か。あなたにとっては、まだ『始まったばかり』だもんな」


「ぬ」


次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』


第14話「遅延――あるいは、ラグによって歪む死神について」


お楽しみに。

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