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第12話「監視――あるいは、丘の上の観測者について」

 バスの幻影が消えてから、三十分が経っていた。


 レオは黒い地面の上に立ち、北を見つめ続けていた。


 何も見えない。何も聞こえない。


 あの陽炎のような影と、プシューという排気音は、もう二度と現れなかった。


「……夢ではなかったはずだ」


「夢じゃなかったよ。私にも見えた」


 キウィが肩に降りた。


「ゼノンにも見えてた。エネルギー残渣だって」


「なら、あれは実在する。この道を走るものが、確かに存在する。見えないだけで」


 ゼノンが腕を組んだまま言った。


「位相のずれだと言っただろう。この世界と同じ空間を共有しているが、レイヤーが違う。だから通常の視覚では捉えられない。さっきの一瞬は、何らかの条件でレイヤーの境界が薄くなったのだ」


「その条件とは」


「わからん。だが、一つ言えることがある。あの幻影は、ベンチに全員が座った直後に出現した。座る人の看板、ベンチ、そして実際に座る者。三つが揃った時に、何かが起動しかけた可能性がある」


「座ることが、起動条件……」


 レオの目が光った。


「やはりあのベンチは停留所だ。座って待つことが、あの走る箱を呼び出す条件なんだ」


「仮説としては成立する。だが、検証するには全員でもう一度座る必要がある」


「フェリクス殿。もう一度座れますか」


「座れます。というか、まだ立ちたくありません」


「お前はもういい」


 ゼノンがフェリクスを黙らせた。


 議論は中断された。


 だが、レオの中に一つの確信が芽生えていた。


 この道には、何かが走っている。見えない何かが。


 そして、ゴートはそれを知っている。


 ゴートは、ベンチの上で、まだ北を見ていた。



   ◇



 一行は再び北へ向かって歩き始めた。


 黒い平原は延々と続いていた。ベンチが等間隔で並び、白い線が地面を区切っている。


 食料問題が、じわじわと忍び寄っていた。


 草原を過ぎた後、植生は再び乏しくなった。黒い地面の割れ目から雑草が顔を出している程度で、十三匹の胃袋を満たすには全く足りない。


「……このままだと、三日以内に群れが飢える」


 レオが呟いた。


「カピバラ一匹あたり一日三キロの草。十三匹で約四十キロ。この地面のひび割れから生えてる雑草では、一日分の十分の一にもならない」


「魔王殿。この大陸の植生回復は、あなたの管轄では」


「私は破壊が専門だ。植物を生やす魔法は持っていない」


「八百年も生きて、植物を生やす魔法一つ覚えなかったんですか」


「必要なかったからな。今まで」


「…………」


 ゴートが地面を齧っていた。


 草ではない。黒い地面そのものを齧っている。


「ゴート様! 地面を!?」


「カピバラは土壌中のミネラルを摂取するために土を齧る習性がある。でも、お腹は膨れないよ」


「ぬ」


 ゴートは地面の味が気に入らなかったらしい。口をモゴモゴさせた後、黙って歩き始めた。


 食料問題の解決は、まだ先だった。


 だが、その前に。


 別の問題が、南から転がってきた。


 文字通り。



   ◇



 最初に気づいたのは、フェリクスだった。


「……魔王様。南から何か来ます」


「何だ」


「わかりません。ですが、大きい。そして……丸い」


 全員が南を振り返った。


 地平線の向こうから、巨大な球体が転がってくるのが見えた。


 茶色い。鱗のような表面。


 直径三メートル以上。


 時速四十キロ近い速度で、黒い地面の上を真っ直ぐに転がっている。


「敵か!?」


 レオが剣を抜いた。半分の聖剣。


 ゼノンが魔圧を高めた。紫黒の光が指先に宿る。


 フェリクスが構えた。猫耳が立つ。


 キウィが上空から観察した。


「…………あれ」


 キウィの声が、困惑に染まった。


「あれ、アルマジロだ」


「アルマジロ?」


「巨大なアルマジロ。ボール状に丸まって転がってきてる。アルマジロは身を守るために体を丸める習性があるけど……あのサイズは見たことない」


 球体が近づいてきた。


 確かに、鱗状の装甲板が全面を覆っている。生物だ。岩でも兵器でもない。


「……装甲走行生物か」


 レオの騎士脳が回転した。


「あのサイズ……球体直径三メートル、装甲厚推定十センチ、走行速度時速四十キロ。あれはローリング・フォートレスだ。移動型の装甲生物兵器。内部に乗員を収容できる構造の……」


「アルマジロだよ。大きいだけのアルマジロ。丸まって転がるのは防御行動であって、兵器じゃない」


「いや、あの内部空間なら十二名は乗れる。乗車定員十二名の生体装甲車だ」


「アルマジロ」


「ローリング・フォートレス」


「アルマジロ」


 巨大アルマジロは、一行の二十メートル手前で減速し始めた。


 回転が遅くなり、やがて停止した。


 ゆっくりと、球体がほどけていく。


 頭が出た。短い四肢が出た。尻尾が出た。


 巨大な——だが穏やかな顔の、アルマジロが、一行の前に横たわった。


 全長四メートル。装甲板の表面はなめらかで、日光を鈍く反射している。


 目は小さく、穏やかで、レオの方をじっと見ていた。


「……攻撃の意思はなさそうだ」


「ないよ。アルマジロは基本的に温厚な動物だから。ただ、このサイズは明らかに異常。暗黒大陸の魔力の影響で巨大化したのかもしれない」


 ゼノンが目を細めた。


「……さっきの幻影」


「え?」


「さっき見えた『バス』の幻影。四角くて、大きくて、車輪があった。だが、あの幻影の輪郭を、もう一度思い出してみろ。丸みを帯びていなかったか」


「…………」


「この生物が丸まった状態のシルエットと、あの幻影の輪郭は、似ている。完全に一致するわけではないが」


「……つまり、あの幻影の正体は……」


「この世界のレイヤーと、もう一つのレイヤーが重なった時、このアルマジロが『バス』として映った可能性がある。異なる位相のデータが干渉し合って、我々の視覚に中間形態として投影された」


 レオの顔が青ざめた。


「……バスじゃなかったのか」


「バスでもあり、アルマジロでもある。位相が違うだけで、同じ座標に存在している」


 キウィは黙っていた。


 ゼノンの分析は半分正しく、半分間違っていた。


 だが、キウィはそれを指摘しなかった。


 まだ、その時ではない。



   ◇



 アルマジロの背中から、何かが降りてきた。


 小さい。


 茶色い毛。丸い体。短い四肢。


 そして――笑顔。


 きゅっと上がった口角。きゅっと細まった目。


 満面の、完璧な、構造的な笑顔。


 クオッカ。


 第11話の草原で出会った、あの動物と同じ種。


 だが、個体は違った。第11話のクオッカより一回り小さく、毛色がわずかに明るい。


 クオッカは、アルマジロの背中からぴょんと飛び降り、レオの前に着地した。


 ニコッ。


「…………」


「……お前、また来たのか。いや、別の個体か」


「ぬ」


 これはゴートの声だった。


 ゴートが、クオッカの方へ歩いていった。


 鼻先を近づけた。


 クオッカも鼻先を近づけた。


 鼻が触れた。


「ぬ」


「きゅ」


 挨拶が成立した。


 クオッカは嬉しそうだった。最初から嬉しそうだったが、さらに嬉しそうになった。顔の構造上、そう見えるだけかもしれないが。


「……あのクオッカ、アルマジロの背中に乗ってきた。つまり、あの二匹は共生関係にある」


「共生というか、クオッカが勝手に乗ってただけだと思うけど」


「いや、これは明確な戦術的連携だ。ローリング・フォートレスの装甲内部に、精神汚染型の生物兵器を搭載して運搬する。到着後、クオッカが降りて笑顔を展開し、敵の戦意を奪う。完璧なコンビネーション・アタックだ」


「アルマジロの背中が暖かいから乗ってただけだよ」


 クオッカは、レオの足元を素通りした。


 子カピバラの群れを素通りした。


 フェリクスの横を素通りした。


 そして、ゼノンの前で止まった。


 ニコッ。


「……またか」


 ゼノンの声に、疲労が滲んでいた。


 第11話で一度経験している。この笑顔の破壊力を、ゼノンは知っていた。


「来るな。私は学習した。お前の笑顔は口の形状による構造的なものであり、感情の表出ではない。つまり、この微笑には『意味がない』。意味のないものに動揺する私ではない」


 クオッカは、トコトコとゼノンの足元に来た。


 ニコッ。


 そして、ゼノンのマントの裾に頬をすり寄せた。


「…………」


「意味がない。意味がないのだ。構造的な笑顔だ。私は知っている。キウィから教わった。これは――」


 クオッカが、ゼノンを見上げた。


 ニコッ。


「…………くっ」


 ゼノンの口元が、震えた。


「……なんか……いい気分に……」


「魔王殿!?」


 レオが振り返った。


 ゼノンの顔が。


 八百年の威厳を湛えた、魔王の顔が。


 ほんのわずかに。


 ニコッ、としていた。


「……な」


 レオは絶句した。


「魔王殿が……笑って……」


「笑っていない」


「笑ってます。口角が上がってます」


「口の形状による構造的な――」


「それはクオッカの理屈です! 魔王の顔には適用されません!」


 フェリクスが、ゼノンの顔を見た。


 確かに、笑っていた。


 意志ではなく、反射で。クオッカの笑顔を至近距離で浴びた結果、顔面の筋肉が勝手に反応している。


「……伝染ですね」


 フェリクスが冷静に分析した。


「あの笑顔は、視覚を通じて相手の表情筋に直接作用しています。ミラーニューロンの強制活性化。目の前の笑顔を見ると、脳が無意識にそれを模倣する。人間の――いえ、知性体の基本的な神経反射です」


「つまり、魔法ではなく」


「魔法ではありません。もっと根源的なものです。共感の強制起動。あの笑顔の前では、笑わない方が不自然になる」


「……イエスマン・フィールドの正体は、共感だったのか」


「共感です。……そして、極めて厄介です。魔法なら防壁で防げますが、共感は防壁を通過します。感情は、防御の対象外ですから」


 フェリクスは冷静に分析し終えた後、自分もニコッとしていることに気づいた。


「……あ」


 猫耳がペタンと寝た。


「……かかりました。私にも」


「フェリクス!?」


「くっ……猫は……猫は愛想笑いなどしない種族の――はず――」


 だが、口角が下がらなかった。


 クオッカの笑顔が、フェリクスの視界に入っている限り、表情筋は「笑い」を維持し続けた。


「……駄目です。閉じられません。このポップアップ、×ボタンがありません」


「フェリクスまで同じことを言い始めた……!」



   ◇



 五分後。


 河原は異様な光景に包まれていた。


 ゼノン:ニコッ。


 フェリクス:ニコッ。


 レオ:ニコッ。


 子カピバラ十二匹:もともと虚無なので変化なし。


 キウィ:鳥なので表情筋がなく、笑えない。だが、羽がわずかに膨らんでいた。リラックスの兆候。


 全員が、ニコニコしていた。


 暗黒大陸のど真ん中で、魔王と参謀と元騎士団長が、ニコニコしていた。


「……戦闘意欲が消失しています」


 フェリクスが、ニコニコしながら報告した。


「あの笑顔を見ていると、全てがどうでもよくなります。世界征服も、カピバラの討伐も、食料問題も。全てが『まあ、いいか』に変換されます」


「全肯定状態……」


 レオがニコニコしながら呟いた。


「やはりイエスマン・フィールドだ……あの笑顔の射程内に入った者は、全ての否定感情が肯定に変換される……」


「今回ばかりは、レオの命名が正しい気がする」


 キウィが言った。


「共感の強制起動による全肯定状態。確かに、フィールド魔法に近い効果がある」


 ゴートだけが、いつもと変わらなかった。


 半開きの目。虚無の表情。


 クオッカの笑顔を正面から浴びても、ゴートの表情は一切変化しなかった。


「……ゴート様だけが、かかっていない」


「カピバラはもともと究極の癒し系だからね。クオッカの笑顔が放つ『癒しの波動』は、ゴートにとっては日常の範囲内。抗体を持ってるようなもの」


「つまり、ゴート様はあの笑顔の上位存在ということか」


「上位存在じゃなくて、同カテゴリーの動物だから効かないだけ。インフルエンザの患者がインフルエンザに二重感染しないのと同じ」


「ゴート様がインフルエンザ……?」


「たとえ話だよ」


 クオッカは満足したのか、ゴートの横に座った。


 ニコッ。


 ゴートは半開きの目で、クオッカを見た。


「ぬ」


 クオッカは、その「ぬ」を「いいよ、ここにいなよ」と解釈したらしい。


 ゴートの脇腹に寄りかかった。


 ニコッ。


 新しい仲間が、また一匹増えた。



   ◇



 笑顔の効果が薄れ始めた頃、レオは我に返った。


「……危なかった。今、完全に戦闘意欲がゼロだった。もし敵が来ていたら全滅していた」


「敵って、誰」


「……わからない。だが、この大陸には魔王軍以外にも脅威がある可能性が……」


 レオは言葉を途中で切った。


 何かの気配がした。


 一瞬だった。風が変わったのか、音がしたのか、あるいは騎士としての勘が反応したのか。


 レオは北東の丘陵を見た。


 黒い地面が途切れ、荒野に戻る境界線の向こう。岩場の影に、何かがあった。


 人影。


 立っている。


 こちらを見ている。


 距離は三百メートル以上。詳細は見えない。だが、シルエットの特徴はわかった。


 長身。痩せ型。右肩に何かを担いでいる。武器か、あるいは道具。


 そして、その立ち方。


 レオは知っていた。


 あの立ち方を。


 右足を半歩前に出し、重心を左に預け、右肩を少し下げる。


 ヴァルハルト王国騎士団の、偵察兵の基本姿勢。


「…………」


 レオの目が、鋭くなった。


 笑顔の余韻が、一瞬で消えた。


「……キウィ」


「ん?」


「あの丘の上に、誰かいないか」


 キウィが高度を上げ、丘陵を見た。


「…………」


 三秒の沈黙。


「……いた。今、岩陰に隠れた。人型。武装してる」


「魔族か」


「わからない。距離が遠すぎる。でも……」


「でも?」


「動き方が、魔族っぽくない。もっと……訓練された動き。軍人の動き」


 レオの拳が、震えた。


 あの立ち方を知っている。


 知っている、はずだ。


 だが、名前が出てこない。


 記憶の霧の向こうに、誰かがいる。


「……気のせいかもしれない」


 レオは拳を解いた。


「今は、食料の確保が先だ」


 レオは歩き始めた。


 だが、丘の方を振り返ることを、やめられなかった。



   ◇



 丘陵の岩陰で、人影は動いていた。


 長身。痩せ型。フードの下から覗く鋭い目。


 その目は、レオの一行を追っていた。


 カピバラ。子カピバラ。魔王。参謀。元騎士団長。鳥。


 そして、アルマジロの横で笑っている小さな動物。


「…………」


 人影は、口元を歪めた。


 笑いではない。嘲笑でもない。


 もっと複雑な、もっと古い感情の残骸のような表情。


「へえ……」


 低い声が、岩陰に落ちた。


「あのカピバラ、クオッカにも効かないのか」


 人影は、フードの位置を直した。


「面白い」


 目が、細くなった。


「魔王様に報告しないとな」


 ※ゼノンは今、あの一行と一緒にいる。では、この人物が「魔王様」と呼んでいるのは、誰だ。


 人影は、岩陰から身を翻し、北東の荒野へ消えた。


 レオの記憶の霧の中で、何かが微かに震えた。


 名前。


 思い出せない名前。


 思い出してはいけない名前。


 あるいは、思い出させてもらえない名前。



第12話「監視――あるいは、丘の上の観測者について」


――終――



【次回予告】


「食料がない。水はある。だが草がない。十三匹の胃袋が限界に近い」


「ゴート様が、地面の下に鼻を突っ込んでます」


「地下に何かあるのか?」


「ぬ」


「……掘ってる。ゴート様が、前足で地面を掘ってる。あのアスファルトの下に、何かが……」


「土だ。黒い土。そして……根っこ? 植物の根が、地面の下に残ってる」


「この大陸は、かつて緑に覆われていた」


次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』


第13話「飢餓――あるいは、十三匹の胃袋と枯れゆく大地について」


お楽しみに。

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