【幕間】第11.5話「着席――あるいは、猫を廃人にする椅子について」
その日、一行は奇妙な場所に足を踏み入れた。
草原を抜けた先に広がっていたのは、黒い平原だった。
岩ではない。砂でもない。土でもない。
黒く、平らで、硬い。
表面にはひび割れがあり、苔が侵食しているが、元の素材は均一で、人工的な滑らかさを保っている。
「……何だ、これは」
レオが地面を踏んだ。コツン、と硬い音がした。
「石畳か? いや、継ぎ目がない。一枚の巨大な板だ」
キウィが降りてきて、地面を確認した。
「…………」
キウィは黙った。
また、黙った。
レオはもうキウィの沈黙に慣れていた。この鳥が黙る時は、「知っているが言えない」時だ。
「アスファルト、みたいだね」
「アスファルト?」
「忘れて。ただの黒い地面だよ」
黒い平原は、真っ直ぐ北へ伸びていた。
そして、等間隔で「何か」が並んでいた。
石の塊。長方形。高さは膝ほど。表面は平ら。
一つ。二つ。三つ。五十メートルおきに、同じ形の石が続いている。
「……ベンチか?」
レオが呟いた。
「形状からして、座るための構造物だ。だが、なぜ荒野の真ん中に等間隔でベンチが……」
ゼノンが後方から言った。
「この配置は、私の記憶にはない。八百年前からこの大陸にいるが、こんな構造物を作った覚えはない」
「魔王軍の建造物ではない?」
「ない。素材も配置も、この世界の建築様式と合致しない」
看板と同じだった。
この世界の「外」から来たもの。
◇
北の方角から、砂煙が上がった。
何かが全力で走ってきていた。
二足歩行。小柄。頭部に三角形の突起が二つ。
「……フェリクスか」
ゼノンの声に、驚きと呆れが混じった。
フェリクス。魔王軍参謀。猫顔の魔族。ゼノンが城の留守を任せた、最も信頼する部下。
そのフェリクスが、ボロボロだった。
参謀服は破れ、猫耳は片方が折れ曲がり、顔には引っ掻き傷が三本走っている。靴が片方ない。
ゼノンの前で膝をつき、肩で息をしながら報告した。
「ま……魔王様……!」
「フェリクス。なぜここにいる。城はどうした」
「城は……城は……」
フェリクスは深呼吸した。
「魔王様! 城内は現在、犬のヨダレによるサーバーダウン状態で、全機能が停止しております!」
「…………具体的に言え」
「はい。魔王様がお発ちになった翌日、巨大ゴールデンレトリバーが正門から玉座の間に移動し、玉座の上に座りました」
「……玉座に」
「はい。八百年間、魔王様以外の誰一人として座ったことのない、暗黒大陸の至宝たる玉座に、犬が座りました。そして尻尾を振りました」
「…………」
「尻尾の一振りで、周囲の兵士五十名が膝をつきました。自発的にです。私は制止を試みましたが、兵士の一人に『フェリクス参謀は犬に冷たい』と言われ、城内で孤立しました」
「…………」
「現在、城の運営は犬に委ねられています。犬の意思決定は『散歩』『ごはん』『撫でて』の三つのみであり、軍事的判断は一切行われておりません。訓練なし、巡回なし、炊事場は犬のおやつ製造施設と化し、武器庫は犬の玩具置き場です」
「…………犬一匹に城を落とされた」
「面目次第もございません」
「……それで、お前は逃げてきたのか」
「戦略的撤退です」
「逃げてきたんだな」
「……はい」
ゼノンは溜息をついた。八百年分の深さがある溜息だった。
「合流を許可する」
「ありがとうございます」
レオが横から口を出した。
「ようこそ、フェリクス殿。こちら側へ」
「こちら側とは」
「ゴート様の世界です。魔王軍参謀の肩書きは、ここでは何の意味も持ちません。必要なのは『動物への敬意』だけです」
フェリクスは、レオの後ろに並ぶ子カピバラの群れを見た。
そして、その先頭に鎮座するゴートを見た。
半開きの目。虚無の表情。巨大な茶色い体。
「…………」
フェリクスの猫耳が、ピクリと動いた。
猫の直感が、一つの結論を出した。
「なるほど。これが、世界を壊した齧歯類ですか」
「壊したのではありません。癒やしたのです」
「……同じことでは?」
◇
一行が平原をさらに進むと、一つのベンチの前に、看板が立っていた。
蛍光緑。
座る人のシルエット。
第7話でハシビロコウの足元にあったものと同じ図柄。だが、今回は金属の支柱に固定されて、ベンチの横に直立していた。
「……設置されている」
レオが呟いた。
「前の二枚は地面に落ちていた。だが、これは最初からここに立っていたものだ。つまり、この場所は設計段階から『座って待つ場所』として作られていた」
看板の真下に、先客がいた。
小さな茶色い動物。
マーモット。
齧歯目リス科。ずんぐりした体型。
背筋をぴんと伸ばし、前足を揃え、顔を正面に向けて、微動だにしない。
看板の「座る人」のシルエットと、完全に同じ姿勢だった。
「あのマーモットは、看板の指示に従っている」
「天敵を監視するための直立姿勢だよ。リス科の齧歯類はみんなやる」
「違う。あれは待機室の番兵だ。何百年も前から、何かが来るのを待ち続けている」
「マーモットの寿命はせいぜい十五年だよ」
「代々受け継がれている。番兵の血統だ」
キウィは反論を放棄した。
レオの解釈は常に間違っている。
だが、マーモットの姿勢があまりにも看板のシルエットと一致していて、キウィ自身も一瞬だけ「本当に番兵なのでは」と思いかけた。思いかけたことは、誰にも言わない。
◇
ゴートが、ベンチに近づいた。
鼻をヒクヒクさせた。
ベンチの表面の匂いを確認した。
三秒。
おもむろに、前足をベンチの上に掛けた。
よいしょ、と。
登った。
前足を折り畳んだ。後ろ足を体の下にしまった。全ての足が消えた。
ヌッ。
茶色い餅が、ベンチの上に出現した。
カピバラの「パン座り」。猫で言うところの香箱座り。四肢を全て体の下に折り畳み、丸い体だけが見えている状態。
ゴートは、お餅だった。
巨大な、茶色い、八十キロのお餅。
看板の下で。ベンチの上で。
目は半開き。表情は虚無。
「ぬ」
満足げだった。
「ゴート様が……着座された……!」
レオが感動に打ち震えていた。
「次元の待機室の正規利用者として、ゴート様が着座された……! あの姿勢は、『次元転送』の準備態勢だ……!」
「座り心地がよかっただけだよ」
その時。
フェリクスの体が、震えた。
「…………」
レオが気づいた。
「参謀殿?」
フェリクスは返事をしなかった。
猫耳が、限界まで直立していた。
瞳孔が、まん丸に開いていた。
視線が、ゴートの「座り方」に完全に固定されていた。
「……あの」
フェリクスの声が、普段の二倍の高さになっていた。
「あの座り方」
「座り方?」
「あの……四肢を全て格納して……最小の面積で……最大の安定を得る……あの完璧な……」
「フェリクス。落ち着け」
「落ち着いています! 落ち着いていますが、身体が……!」
フェリクスの足が、勝手に動いた。
ベンチに向かって。
「そこに箱があれば入る! 座る場所があれば座る! それが猫の義務だ!!」
「義務で座るな!」
ゼノンが怒鳴った。だが遅かった。
「いかん……身体が……当たり判定に吸い寄せられる……!」
フェリクスの体が、ベンチに吸い込まれた。
ゴートの隣に、するりと座った。
いや、「座った」のではない。「収まった」のだ。
猫の柔軟性が遺憾なく発揮され、ゴートと子カピバラの間のわずかな隙間に、成人魔族の体がぴったりと収まった。
背筋が伸びた。手が膝の上に揃えられた。猫耳がペタンと寝た。
「…………」
「フェリクス!」
「…………座れました」
声が、恍惚に満ちていた。
「この座面の温度……日光で温められた石の表面が、猫族の体温調節に完璧に適合して……さらに右側からカピバラの体温が伝わってきて……全ての演算が……停止していく……」
「演算を停止するな! お前は参謀だ! 演算が仕事だろう!」
子カピバラが一匹、フェリクスの膝に乗った。
「あ」
もう一匹が肩に乗った。
「ぁ」
三匹目が腕の中に潜り込んだ。
「………………」
フェリクスは完全に機能を停止した。
目が半開き。猫耳がペタン。口元がわずかに緩んでいる。
ゴートと同じ表情になっていた。
種を超えて、「座る」という行為の前に等しく屈服した二匹が、ベンチの上で並んでいた。
◇
レオは、フェリクスの隣に座った。正座だった。
「ゴート様が座っている以上、従者も座るのが礼儀です」
「礼儀ではない。集団催眠だ」
子カピバラたちが、次々とベンチの周囲に集まり始めた。
登れる子は上に登り、登れない子は地面でパン座りになった。
マーモットは看板の下で、変わらず直立していた。
全員が、看板の下で一列に並んで「お座り」している光景が完成した。
ベンチの上:ゴート(パン座り・餅)、フェリクス(猫座り・子カピバラ三匹装備・機能停止)。
ベンチの前:レオ(正座・聖遺物を膝の上に配置)、子カピバラ九匹(団子状態)。
看板の真下:マーモット(直立不動・番兵)。
上空:キウィ(旋回中)。
ゼノンだけが、立っていた。
「……地獄だ」
ゼノンの声は、乾いていた。
「ここが世界の終着点か。我が軍の知将までもが、ただの『背景オブジェクト』に成り下がるとは」
「魔王様。一つ空いてますよ」
フェリクスが、半開きの目のまま、ゴートの左隣を示した。
「座りませんか。座り心地は最高です」
「座らん」
「人生で一番気持ちいいです」
「情報として不要だ」
ゼノンは腕を組み、ベンチに背を預けて立っていた。
座らなかった。
最後の矜持だった。
マントの裾から子カピバラが二匹、顔を出していた。ゼノンはそれを無視した。
◇
全員が座り込んだ。
風が止んだ。
黒い平原に、音がなかった。
ゴートの呼吸。子カピバラの寝息。フェリクスの喉から漏れるゴロゴロ音。
完全な静寂。
そして。
プシュー。
音がした。
排気音。
空気が圧縮され、解放される音。機械的な。この世界に存在しないはずの音。
全員が――ゴートを除いて――同時に顔を上げた。
「……キウィ」
レオの声が、低くなっていた。
「今、扉が開く音がしなかったか?」
キウィは答えなかった。
レオは、虚空を見つめた。
ベンチの正面。黒い平原の上。
陽炎が、揺れていた。
だが、陽炎が発生する条件ではなかった。気温が足りない。
それなのに、空気が揺れている。
揺れの中に、「形」があった。
大きい。横に長い。四角い。
下部に車輪のような丸い影が並んでいる。
側面に窓のような四角い影が等間隔で並んでいる。
正面に、大きなガラスのような平面。
存在しないはずの「バス」の幻影が、陽炎のように揺れていた。
レオには、それが何かわからなかった。
ゼノンにも、わからなかった。
フェリクスは、カピバラに埋まっていて見えなかった。
だが、キウィの目は、その幻影を正確に捉えていた。
その目に浮かんでいたのは、驚きではなかった。
諦めに近い、静かな覚悟だった。
幻影は、三秒で消えた。
黒い平原と、座る人の看板と、カピバラの群れだけが、残された。
ゴートは、北を見ていた。
幻影が消えた場所を。
半開きの目で。
何かを覚えている目で。
【幕間】第11.5話「着席――あるいは、猫を廃人にする椅子について」
――終――
【次回予告】
「ゴート様。南から何か転がってきます」
「……アルマジロだ。巨大な、丸まったアルマジロ」
「バスじゃないのか?」
「バスじゃない。たぶん」
「……レオ。あの丘の上に、誰かいないか」
「丘? ……いや、何も見えないが」
「…………そう。気のせいかも」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第12話「監視――あるいは、丘の上の観測者について」
お楽しみに。




