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第11話「微笑――あるいは、高レベル精神汚染の伝播について」

 第2部「混沌」――開幕。



 一行の構成は、以下の通りだった。


 先頭:ゴート(カピバラ・成体・80キロ)。

 二番手:レオ・ヴァルハルト(人間・元騎士団長・精神汚染度:末期)。

 三番手:子カピバラ五匹(レオ追尾組)。

 四番手:ゼノン(魔王・八百年・精神汚染度:初期だが急速に進行中)。

 五番手:子カピバラ七匹(ゼノン追尾組)。

 上空:キウィ(翻訳担当・突っ込み担当・唯一の正気)。


 合計:人間一名、魔王一名、カピバラ十三匹、鳥一羽。


 暗黒大陸を踏破する軍勢としては、おそらく史上最もふざけた編成だった。


 レオは歩きながら、何かを書いていた。


 羊皮紙の切れ端に、ミミズのような文字を綴っている。


「……レオ。何を書いてるの」


「書類です」


「書類?」


「家族構成変更届。ゴート様を筆頭に、眷属十二名を従属神として登録し、キウィを連絡係、俺を筆頭侍従として記載しています」


「……誰に提出するの、それ」


「魔王殿に」


 ゼノンが後方から声を上げた。


「提出するな」


「魔王殿。この大陸の行政権はあなたにあるはずです。家族構成の変更届は行政の管轄です。受理の義務があります」


「ない」


「あります」


「なぜ私がこの世界のバグ増殖を認める書類にサインせねばならんのだ。却下だ」


「却下するなら却下理由を文書で提出してください。行政手続きには適正な理由が必要です」


「お前は元騎士団長だろう。いつから書記官になった」


「ゴート様に仕え始めてから、事務能力が開花しました」


「開花するな」


 キウィは黙って飛んでいた。


 レオの「事務能力の開花」は、おそらくウォンバットの糞を個体番号で管理し始めた辺りから発症している。根は深い。


 ※なお、レオの書類作成能力は冗談ではなく本物だった。元騎士団長として、軍事報告書・人事異動届・戦時補給申請書を数百通処理してきた経歴を持つ。その事務処理能力が、今は「カピバラの家族構成変更届」に全力投球されている。人材の浪費としては史上最悪クラスだった。



   ◇



 荒野を半日ほど歩くと、風景が変わった。


 岩と砂しかなかった大地に、緑が増え始めた。


 草。低木。苔。


 そして、草原が広がった。


 暗黒大陸に、草原があった。


「……ゴート様」


 レオの声が震えた。


「食料です」


 十三匹のカピバラにとって、草原は「巨大な食卓」だった。


 ゴートが立ち止まった。


 鼻をヒクヒクさせた。


 そして、おもむろに口を開け、足元の草を齧り始めた。


 モソ……モソ……。


 子カピバラたちも一斉に散らばり、草を齧り始めた。


 十三匹のモソモソが、草原に響いた。


 レオは、その光景を見て、またも涙を流した。


「……神々の食事。大地の恵みを、ゴート様が眷属と共に受け取っている……」


「お昼ご飯だよ」


 ゼノンは岩に腰掛け、腕を組んで一行を監視していた。


「……あの齧歯類、一日にどのくらい食べるんだ」


「成体で三キロから五キロ。子供で一キロ前後」


「十三匹合計で」


「ざっと二十五キロ。毎日」


「…………この草原が持つのは、精々三日か」


「それも、他に草食動物がいなければ、の話だね」


 ゼノンは草原を見渡した。


 広い。だが、十三匹のカピバラの胃袋を永続的に満たすには、全く足りない。


 食料問題。


 それは、魔法でも虚無でも解決できない、最も原始的な課題だった。



   ◇



 カピバラたちが食事を終え、草原の中央で団子状に固まって昼寝を始めた頃。


 レオは草原の端を偵察していた。


 そこで、見つけた。


 草の間に、何かが立っていた。


 小さい。


 茶色い毛。丸い体。短い四肢。


 カピバラに似ている。だが、違う。


 もっと小さい。子カピバラよりも小さい。


 体長は三十センチほど。顔は丸く、耳は小さく、目は黒くて丸い。


 そして。


 笑っていた。


 口角が、きゅっと上がっている。


 目が、きゅっと細まっている。


 笑顔。


 完璧な笑顔。


 レオは足を止めた。


「…………」


 その動物は、レオを見つめていた。


 ニコッ。


 いや、もともとニコッとしていた。この動物は、常にニコッとしている。顔の構造がそうなっている。


「キウィ」


「ん?」


「あれは何だ」


 キウィが降りてきて、確認した。


「……クオッカ」


「クオッカ?」


「正式名称クオッカワラビー。有袋類。オーストラリアのロットネスト島に生息する、世界で最も幸せそうな動物。口角の筋肉の構造上、常に笑っているように見える。実際に笑っているわけではなく、あくまで形状の問題」


「形状の問題……?」


 レオは、クオッカを凝視した。


 クオッカは、レオを見上げていた。


 ニコッ。


「…………」


 レオの騎士脳が、回転を始めた。


「……あの笑顔は」


「形状だよ。口の形が――」


「あの笑顔は、『全肯定魔法』だ」


「違う」


「間違いない。あの微笑みの射程範囲に入った者は、全ての否定感情を強制的に書き換えられる。怒り、悲しみ、疑念、恐怖。全てが『肯定』に変換される。あれは精神干渉型の広域魔法だ」


「口の形だって言ってるでしょ」


「イエスマン・フィールド! あの微笑みの有効範囲に入ると、全てが『はい』になる! 何を聞かれても『いいよ』と答えてしまう!」


「それはただの可愛さの効果であって、魔法じゃ――」


「魔法だ。第4話のミーアキャットの視線が『千の瞳症候群』を引き起こしたように、この笑顔は『永遠肯定症候群』を引き起こす!」


 キウィは沈黙した。


 反論する気力を「永遠」に喪失しそうだった。


 ※クオッカの「笑顔」は、下顎の筋肉と口角の形状による構造的なものである。人間の感情としての「笑い」とは無関係だ。だが、その無邪気な外見は人間に強烈な好感を与え、オーストラリアでは「世界で最も幸せな動物」として観光資源にもなっている。なお、クオッカは警戒心が極めて低く、人間に対してほとんど逃避行動を取らない。これが「近づいてきてニコッとする」印象をさらに強めている。



   ◇



 クオッカは、トコトコと歩いてきた。


 レオの足元を素通りした。


 子カピバラの群れを素通りした。


 ゴートの横を素通りした。


 そして、ゼノンの前で止まった。


 ニコッ。


「…………」


 ゼノンは、クオッカを見下ろした。


 小さな有袋類が、八百年の魔王を見上げて、満面の笑みを浮かべている。


 正確には、笑みではない。口の形がそうなっているだけだ。


 だが、ゼノンにはそう見えた。


 笑顔。


 純粋な、混じりけのない、「あなたがそこにいることが嬉しい」と言っているような笑顔。


「……何だ、お前は」


「ぬ」


 ゴートの声ではない。クオッカの声だ。カピバラとは違う、もう少し高い鳴き声。


 クオッカは、ゼノンの足元に座った。


 そして、ゼノンの膝に前足を置いた。


 小さな、柔らかい前足。


「……触るな」


 ゼノンの声に、力がなかった。


 クオッカはゼノンの膝によじ登った。


 登り切ると、ゼノンの膝の上で丸くなった。


 そして、ゼノンの顔を見上げた。


 ニコッ。


「…………」


 ゼノンの右手が動いた。


 反射的に。


 指先に紫黒の光が宿った。削除。最上位の殲滅術式。


 だが。


 手が、止まった。


 クオッカの笑顔が、ゼノンの指先の一メートル先にあった。


 黒い丸い目。きゅっと上がった口角。小さな鼻。


 何の悪意もない顔。何の策略もない顔。


 ただ、笑っている顔。


 構造上、笑っているだけの顔。


 だが、その「だけ」が。


 八百年の殺意を、止めた。


「……くっ」


 ゼノンの手が震えた。


「この笑顔……『強制終了不可』のポップアップか……!? ×ボタンがない……閉じられない……どこを押しても閉じられない……!」


 レオが叫んだ。


「やはり! イエスマン・フィールドだ! 魔王殿の殺意が、あの笑顔に判定負けしている!」


「判定負けなどしていない……! 私は、ただ……」


「ただ?」


「…………」


 ゼノンは、膝の上のクオッカを見下ろした。


 クオッカは、ゼノンの鎧の腹部に頬を押し当てていた。


 冷たい漆黒の鎧に、温かい頬。


 ニコッ。


「……なぜ笑っている」


 ゼノンの声は、もう怒りを失っていた。


「私は魔王だぞ。世界を脅かす存在だぞ。恐れるか、逃げるか、戦うか、どれかにしろ。なぜ笑いかけてくる」


 キウィが答えた。


「クオッカは天敵が少ない環境で進化したから、警戒心がほとんどないんだよ。相手が魔王だろうと竜だろうと、近づいてきてニコッとする。それだけ」


「それだけ、で片付けるな。この笑顔には……何か……」


「何もないよ。口の形。それだけ」


「…………」


 ゼノンは、削除の魔法を解除した。


 紫黒の光が消えた。


 膝の上のクオッカは、ゼノンの鎧が温まるのを待っているようだった。体温で。


 八百年間、誰かの体温で温められたことのない鎧が。


 少しだけ、温かくなった。



   ◇



 三十分後。


 クオッカは満足したのか、ゼノンの膝から降りた。


 ニコッ。


 最後にもう一度だけ笑顔を向けて、草原の中へトコトコと去っていった。


 ゼノンは、膝の上に残された温もりを、しばらく見つめていた。


「……魔王殿」


 レオが声をかけた。


「何だ」


「大丈夫ですか」


「大丈夫だ。何ともない」


「膝、撫でてましたけど」


「撫でていない」


「撫でてました」


「…………」


 ゼノンは立ち上がった。


 マントの裾から子カピバラが二匹落ちた。いつの間にか戻ってきていたらしい。


「……あの生物は何なのだ」


「クオッカです。世界で最も幸せそうな動物」


「幸せそう、ではなく、幸せにしてくる動物の間違いではないか」


「……魔王殿。今、かなり詩的なことを言いましたね」


「黙れ」



   ◇



 クオッカが去った場所を、レオは調べていた。


 草を掻き分け、地面を確認する。


 何かの習慣になっていた。


 動物が去った後に、「何か」が落ちている。


 沼のゴートは、看板を拾い上げた。


 ハシビロコウの足元には、二枚目の看板があった。


 ならば。


「…………あった」


 レオの手が、止まった。


 草の間に、半分埋もれていた。


 金属板。


 蛍光緑。


 三枚目。


 レオは慎重に引き抜いた。


 同じ材質。同じサイズ。同じ蛍光緑の背景。


 だが、図柄が違った。


 一枚目は、走る人と扉。


 二枚目は、座る人と本。


 三枚目は――フォークとナイフのシルエット。


 そして、読めない文字。


「…………」


 レオは三枚の看板を並べた。


 走る人。座る人。フォークとナイフ。


 非常口。図書室。食堂。


 三つとも、「施設の案内」だった。


 この世界の地面の下に、何かの施設がある。


 あるいは、あった。


「……キウィ」


「なに」


「三枚目の看板だ。これは『食堂』のサインじゃないか?」


 キウィは空を見上げていた。


 長い沈黙。


 一枚目の時、キウィは黙った。


 二枚目の時、キウィは黙らなかったが、目の奥に何かを隠していた。


 三枚目。


 キウィは、レオの肩に降り立った。


 看板を、じっと見た。


 それから、かつてないほど冷たい声で言った。


「……違う。それは、この世界の『賞味期限』を示してる」


 レオの手が、止まった。


「……賞味期限?」


「ごめん。今のは忘れて」


「忘れられるわけがないだろう。賞味期限とはどういう意味だ。この世界に、賞味期限があるのか」


 キウィは答えなかった。


 飛び立った。


 高く。


 レオの手が届かない高さへ。


 ゼノンが、看板を覗き込んだ。


「……三枚目か。フォークとナイフ。飲食施設の案内表示だな」


「魔王殿。これが何を意味するか、あなたにはわかりますか」


「わからん。だが、一つだけ言えることがある」


「何です」


「この看板は、この世界の素材で作られていない。金属の組成が、この大陸の鉱物と一致しない。私は八百年、この世界の全ての資源を把握してきたが、この蛍光緑の塗料は見たことがない」


「…………」


「つまり、この看板は『外』から来たものだ」


 レオは三枚の看板を見つめた。


 走る人。座る人。フォークとナイフ。


 非常口。図書室。食堂。


 外から来た施設の案内。


 この世界の「外」に、施設がある。


 あるいは、この世界そのものが、何かの施設の「中」にある。


 その答えを、キウィは知っている。


 だが、まだ言えない。


 空の高い場所で、キウィは旋回していた。


 小さな体が、灰色の雲の隙間を縫っている。


 その目は、下を見ていなかった。


 北を。


 ゴートが歩き続ける方角を、見ていた。



第11話「微笑――あるいは、高レベル精神汚染の伝播について」


――終――



【次回予告】


「ゼノン殿。食料問題が深刻です。このままでは三日以内に群れが飢える」


「知っている。私の管轄の草原を食い尽くされることの方が問題だがな」


「ゴート様がまた看板を拾いました。今度は……矢印です。北を指してます」


「……矢印?」


「矢印の先に、何かがあります。ゴート様は知っているんだ。この大陸のどこかに、俺たちがまだ見つけていない『何か』が」


「ぬ」


次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』


【幕間】第11.5話「着席――あるいは、猫を廃人にする椅子について」


お楽しみに。

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