第10話「増殖――あるいは、自律型支援機の躍動について」
魔王ゼノンは、河原に座っていた。
漆黒の鎧。紫光を放つ額の紋章。八百年の威厳。
そして、手のひらの上の、小さな石。
カワウソがゴートに預け、ゴートがゼノンの足元に転がした、何の変哲もない河原の石。
ゼノンは、その石を握ったまま、三十分ほど動かなかった。
近衛兵五名は、上流の岩陰に隠れたまま、主の様子を窺っていた。
だが、その精鋭たちの表情にも、動揺が滲んでいた。
魔王が。
八百年の魔王が。
河原で石を握って座り込んでいる。
マントは犬のヨダレで汚れ、裾は裂け、さっきカピバラに四回も最強魔法を無効化されたばかり。
これが、彼らが命を懸けて仕える主の、今の姿だった。
◇
レオは、ゼノンの隣に座った。
三メートルの距離を保って。
「……魔王殿」
「…………」
「あの石、温かいでしょう」
「…………黙れ」
「わかります。俺も最初はそうでした。ゴート様に初めて触れた時、あの毛皮の温度に戸惑った。八百年の知性をもってしても、あの温かさの正体は解析できないでしょう」
「黙れと言っている」
「ですが、慣れます。やがてそれが『当たり前』になり、ゴート様のいない世界が想像できなくなる。俺がそうでした」
ゼノンの紅い瞳が、レオを睨んだ。
「お前は今、私を『汚染』しようとしているのか」
「汚染ではありません。教育です」
「教育だと?」
「ゴート様に仕える者としての、基礎教育です」
ゼノンの額に、青筋が浮かんだ。
「……私は魔王だ。カピバラに仕える予定はない」
「最初は皆そう言います」
「皆とは誰だ。お前一人だろう」
「犬に懐かれたヴォルク中将も、ミーアキャットに視線で屈した影の爪の隊長も、今ではゴート様の信者です。あなたも時間の問題です」
「ならんッ!」
ゼノンが立ち上がった。
魔圧が噴出し、河原の小石が宙に浮いた。
「私は八百年の魔王だ! カピバラに石を渡されたくらいで動揺する器ではない! この石は……これは、ただの河原の石だ! 何の意味もない!」
「……握りしめてますけど」
ゼノンは自分の右手を見た。
石を、ぎゅっと握っていた。
立ち上がった時も、怒鳴った時も、一度も手放していなかった。
「…………」
ゼノンは、石をマントの内側にしまった。
「……証拠品として保管するだけだ。対象の行動分析に必要な資料だ」
「はい。わかります。俺もウォンバットの糞を最初は『資料』と呼んでいました」
「一緒にするな!!」
◇
膠着状態が続いていた。
ゼノンはゴートを消せない。レオはゼノンに勝てない。ゴートは何も気にしていない。
三者が河原に留まり、それぞれが別のことを考えていた。
ゼノンは「なぜ削除できないのか」を考えていた。
レオは「魔王をどうやってゴート様の信者にするか」を考えていた。
ゴートは何も考えていなかった。河原の草を齧っていた。
キウィは枝の上で羽繕いをしていた。
「……なあ」
キウィが言った。
「ゴートの様子が変だよ」
「変?」
「さっきから、上流の方をじっと見てる」
レオはゴートを見た。
確かに、ゴートは草を齧る手を止め、上流の方に顔を向けていた。
鼻がヒクヒクしている。
「匂いを嗅いでいるのか」
「うん。何かの匂いに反応してる」
「敵か?」
「わからない。でも、ゴートの様子は……警戒じゃない。どちらかと言うと……」
キウィは首を傾げた。
「……嬉しそう?」
レオはゴートの顔を注視した。
虚無の表情。いつもと変わらない。
だが、鼻のヒクヒクが、いつもより速い。
そして――尻尾が、微かに動いていた。
ゴートの尻尾は、普段は動かない。存在すら忘れるほど、何の反応も示さない小さな尻尾。
それが、振れている。
「ゴート様の尻尾が……動いている……!?」
レオは息を呑んだ。
この旅で初めて見る反応だった。
ゼノンも気づいた。
「……何か来るのか」
「わかりません。ですが、ゴート様がこの反応を見せるのは初めてです」
三人の視線が、上流に向いた。
河原の向こう。岩場の陰。
何かが動いた。
小さな影。
茶色い。
丸い。
低い。
一つ。
二つ。
三つ。
「…………」
レオの目が見開かれた。
四つ。五つ。六つ。
岩場の陰から、次々と小さな影が現れた。
七つ。八つ。九つ。十。
十一。十二。
止まらない。
茶色い毛並み。丸い体。短い四肢。小さな耳。そして――半開きの、虚無の目。
カピバラだった。
小さな、カピバラだった。
体長三十センチほど。大人のゴートの四分の一サイズ。
子カピバラ。
その群れが、完璧な等間隔で一列に並び、トコトコトコトコと河原を歩いてきた。
一匹の隙間もなく。一歩の乱れもなく。
まるで軍事パレードのように。
いや。
レオの目には、そう見えなかった。
「…………」
レオの口が、半開きになった。
脳内の全ての回路が、高速で回転し始めた。
「……あれは」
声が震えた。
「あれは……自律型支援機だ」
キウィが溜息をついた。
「子カピバラだよ」
「違う!!」
レオが叫んだ。
「見ろ、あの完璧な隊列! 等間隔! 等速度! 個体間の距離が寸分の狂いもなく統一されている! あれは親機から射出された自律型支援機――ファンネルだ!!」
「子カピバラの群れだよ。親について歩く習性があるだけ」
「嘘をつけ! あの数を見ろ! 十二匹! 十二基のファンネルが展開されている! 一斉にバラけたら、全方位包囲殲滅陣が完成するぞ!!」
ゼノンの目が細くなった。
「……援軍、か」
「違うよ。子供だよ」
ゼノンはキウィの言葉を無視した。
「サイズが小さい。あのサイズなら、城壁の隙間から侵入して内部から崩壊させることも可能だ。我が城の防御設計は、あの個体サイズを想定していない」
レオが振り返った。
「魔王殿! あなたもわかりますか!?」
「わかる。あれは多弾頭独立目標再突入体だ。親機から分離した後、それぞれが別の目標に向かって自律誘導される」
「MIRV! やはりそうだ!!」
キウィは羽繕いを再開した。もう突っ込む気力がなかった。
レオとゼノンは、共通の「妄想言語」を持っていた。
ゲーム用語と軍事用語の融合体。
二人とも、動物を動物として見ることができないという、同じ病を患っていた。
※なお、子カピバラの「等間隔の隊列」には生物学的な理由がある。子カピバラは視覚よりも嗅覚で親を追尾するため、前の個体の「臭い」を最も効率的に検知できる距離を本能的に維持する。その結果、群れは自然と等間隔の一列になる。軍事とは一切関係がない。
◇
子カピバラの群れが、ゴートのもとに到着した。
十二匹の小さなカピバラが、ゴートの周りに集まった。
ゴートは動かなかった。
ただ、鼻をヒクヒクさせて、子カピバラたちの匂いを確認した。
一匹。二匹。三匹。順番に、鼻先を触れ合わせていく。
「ぬ」
「ぬぬ」
「ぬ」
「ぬぬぬ」
挨拶だった。
レオは、その光景を見て、涙を流していた。
「……ゴート様に、眷属がいたとは……」
「眷属じゃないよ。この辺りに生息する群れの子供たちだよ。カピバラは社会的な動物だから、大人の個体を見つけると子供が寄ってくるんだ」
「ゴート様の元に集う、小さき神々……」
「子カピバラ。ただの子カピバラ」
挨拶が終わると、子カピバラたちは散開した。
だが、散開の仕方が問題だった。
十二匹が、バラバラの方向へ一斉に走り出した。
トコトコトコトコ!
小さな足が、河原の石の上を駆け回る。
右へ三匹。左へ四匹。前方に二匹。後方に三匹。
「散開した!! やはりファンネルだ!!」
「遊んでるだけだよ!」
「全方位に展開して包囲網を形成している! 見ろ、あの個体は高台に移動した! 観測手だ!」
「高い所が好きなだけだよ!」
子カピバラたちは、確かに遊んでいるだけだった。
だが、五匹がレオに群がった。
背負い袋に突進し、足にすり寄り、膝に乗り、肩に這い上がり、全身をフカフカの体温で包囲した。
「なっ……こら、離れ……今は戦闘中……」
「ぬぬ」
「だから……くすぐ……足の爪が……」
「ぬぬぬ」
「…………」
レオは河原に仰向けに倒れた。
五匹の子カピバラが、胸の上と腹の上に乗っている。
体重は合計で十五キロほど。軽い。
だが、破壊力は攻城車を超えていた。
「…………尊い」
レオは白目を剥いた。
「キュン死……物理的精神ダメージ……戦線離脱……」
キウィは見ていた。
「言わんこっちゃない」
◇
残りの七匹は、ゼノンの方へ向かった。
ゼノンは立ち上がった。
漆黒の鎧。紫光の紋章。八百年の殺気。
「来るな」
低い声で言った。
子カピバラたちは、止まらなかった。
「来るなと言っている。私は魔王だ。暗黒大陸の支配者だ。お前たちの『可愛さ』とかいう未定義の属性は、私には通用しない」
子カピバラたちは、トコトコとゼノンの足元に到達した。
一匹が、鼻をヒクヒクさせた。
ゼノンのマントの匂いを嗅いでいる。
「…………」
「ぬ」
小さな鳴き声。
そして、その一匹が、ゼノンのマントの裾に潜り込んだ。
「おい」
二匹目が続いた。
「やめろ」
三匹目。
「出ろ」
四匹目。五匹目。六匹目。七匹目。
七匹の子カピバラが、ゼノンのマントの裾から内側に侵入し、鎧と体の隙間、マントの裏地、膝の裏、腕の内側といった「暖かい場所」に次々と潜り込んでいった。
「…………」
ゼノンの体が、硬直した。
全身から、小さな体温が伝わってきた。
フカフカ。
その感覚を、ゼノンは知らなかった。
八百年の人生で、一度も経験したことのない感覚だった。
殴られたことはある。斬られたことはある。燃やされたことも、凍らされたことも、呪われたこともある。
だが、「フカフカ」は初めてだった。
「……何だ、この……」
声が震えた。
「この感覚は……属性不明……システムに登録されていない……『フカフカ』という未定義の属性が、防御の隙間からバイパスして直接浸透してきている……」
一匹が、ゼノンの首元に顔を出した。
小さな顔。半開きの目。虚無の表情。
親と同じ顔。
「ぬ」
「…………」
ゼノンの口元が、わずかに震えた。
「……いかん」
声が掠れた。
「ログアウトを……管理権限を……精神防壁を……」
もう一匹が、鎧の隙間から顔を出した。
「ぬぬ」
「やめろ……鳴くな……その声は……何だ、その声は……なぜ、こんなに……」
三匹目が、ゼノンの手のひらの上に乗った。
さっきまで石を握っていた、その手のひらの上に。
石よりも、温かかった。
「…………」
ゼノンの膝が、折れた。
八百年の威厳が。
三大陸を制した覇王の膝が。
子カピバラの「フカフカ」に、折れた。
河原に膝をつき、マントの中で蠢く七匹の温もりに包まれ、ゼノンは動けなくなった。
「ハピネス・バースト……」
レオが、子カピバラに埋もれたまま呟いた。
「ゴート様が眷属を通じて放つ、広域幸福飽和攻撃……直撃すると、対象の精神が『幸せ』で満たされ、あらゆる敵意と殺意が消滅する……」
「子カピバラが暖かいところに潜り込んでるだけだよ」
キウィの突っ込みは、もう誰にも届いていなかった。
◇
ゴートは、河原の浅瀬に座っていた。
子カピバラたちがレオとゼノンに群がっている間、ゴートは一匹で水辺にいた。
半開きの目。虚無の表情。
何も考えていないように見えた。
だが、キウィだけは気づいていた。
ゴートの目が、一瞬だけ、子カピバラたちを見ていたことに。
それは、虚無の目ではなかった。
何と呼ぶべきか、キウィにもわからなかった。
第6話の沼の底で「非常口の看板」を拾った時の目とも、第7話でハシビロコウの前を通り過ぎた時の目とも、違っていた。
もっと古い。もっと深い。
何かを覚えている目だった。
「…………」
キウィは、それ以上考えないことにした。
まだ、その時ではない。
◇
一時間後。
河原は、奇妙な平和に包まれていた。
レオは、子カピバラ五匹を膝に乗せたまま、聖遺物の天日干しを再開していた。
ゼノンは――マントの中に七匹を収容したまま、岩に背を預けて座っていた。
動けなかった。
物理的に動けなかった。
子カピバラが温かくて、動きたくなかったのだ。
だが、ゼノンはそれを認めなかった。
「……言っておくが、私はお前たちの仲間になったわけではない」
レオが答えた。
「わかっています」
「このバグが世界にどう影響を及ぼすか、近距離で監視する必要があると判断しただけだ」
「監視ですね」
「そうだ。監視だ。観測データを収集し、適切な対処法を策定する。それが管理者としての義務だ」
「……なるほど。つまり、しばらく一緒に旅をしてくださると」
「旅ではない。監視任務だ」
「はい。監視任務ですね」
「…………」
ゼノンは、マントの中で蠢く子カピバラの一匹が、自分の指に鼻を押し当てているのを感じた。
温かかった。
「……近衛兵は城に帰還させる。この任務は私一人で行う」
「了解です。……あ、魔王殿」
「何だ」
「マントの裏から子カピバラが三匹はみ出してます」
「黙れ」
キウィが呟いた。
「陥落、速かったね」
「陥落していない」
「してるよ」
「していない」
「してる」
「…………」
ゼノンは反論を諦めた。
反論しようとするたびに、マントの中の子カピバラが「ぬぬ」と鳴くのだ。
鳴かれると、反論の言葉が消える。
これが「フカフカ」の破壊力か。
八百年の知性を、「ぬぬ」の二文字で沈黙させる。
恐るべき兵器だった。
◇
夕暮れ。
河原が、橙色の光に染まった。
ゴートが立ち上がった。
北へ向かって歩き出した。
いつものように。迷いなく。
レオが続いた。子カピバラ五匹が、レオの後ろをトコトコと追いかけた。
ゼノンが立ち上がった。マントの中から子カピバラ七匹がポロポロと落ちた。落ちた子カピバラたちは、迷うことなくゼノンの後ろに並んだ。
行列ができた。
先頭、ゴート。
二番目、レオ。
三番目、子カピバラ五匹(レオ追尾組)。
四番目、ゼノン。
五番目、子カピバラ七匹(ゼノン追尾組)。
六番目、キウィ(上空)。
暗黒大陸の荒野を、カピバラ十三匹と、騎士と、魔王と、鳥が、一列で歩いている。
世界で最も意味のわからない行軍だった。
「……なあ、レオ」
ゼノンが、前方に声をかけた。
「何ですか、魔王殿」
「この大陸は、今、どういう状態にある」
「荒廃しています。かつて人間の王国がありましたが、魔王軍の侵攻で滅びました。今は魔族と魔獣の領域です」
「…………」
「ですが、ゴート様が歩いた場所では、動物たちが戻ってきています。犬も、ミーアキャットも、ウォンバットも、カワウソも、ハシビロコウも。ゴート様が通った後に、生き物が集まる」
「……それは」
「わかりません。理由はわかりません。ですが、俺には一つだけ、確信していることがあります」
レオは、前を歩くゴートの背中を見つめた。
大きな背中。茶色い毛皮。短い尾。
何も語らず、何も求めず、ただ北へ歩き続ける背中。
「俺は、この大陸を再生させてみせる」
ゼノンは答えなかった。
ただ、歩いた。
マントの裾から子カピバラが一匹、顔を出していた。
夕陽に照らされた河原を、行列は北へ進んだ。
第1部「確立」――完。
第10話「増殖――あるいは、自律型支援機の躍動について」
――終――
【次回予告】
「キウィ。食料が足りない」
「知ってるよ。十三匹のカピバラと、人間一人と、魔王一人。この群れの食料消費量、計算した?」
「した。一日あたり、生草約六十五キロ。この荒野に、そんな量の植生はない」
「そうだね」
「ゴート様。食料問題について、ご意見は」
「ぬ」
「……食べてる。そこに生えてた最後の草を、今食べた」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第11話「微笑――あるいは、高レベル精神汚染の伝播について」
――第2部「混沌」、開幕。




