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第9話「邂逅――あるいは、運営と飼育係の果てしなき議論について」

 魔王ゼノンは、河原に立っていた。


 足元から、黒い靄が立ち昇っている。


 それは瘴気ではなかった。もっと根源的な力。世界の法則そのものを書き換える権能が、物理的な圧として周囲に放出されているのだ。


 小石が浮いた。


 水面が逆流した。


 空気が歪んだ。


 レオの全身の毛が逆立った。騎士としての本能が、全力で警報を鳴らしていた。


 目の前にいるのは、これまでの敵とは次元が違う。


 隠密部隊でもない。重装甲部隊でもない。水中部隊でもない。


 これは――「運営」だ。


「……来るか」


 レオは剣を構えた。先端を齧り取られた、半分の聖剣。


「隠しステージのラストボス……! 当たり判定がおかしいぞ、立っているだけで世界が処理落ちしてやがる……!」


 ゼノンの紅い瞳が、レオを捉えた。


「お前が、騎手か」


「…………」


「この世界の物理演算を尻で破壊し、精神耐性を犬のヨダレで無効化している、バグの元凶は」


 レオの背筋に、氷が走った。


 こいつ、全部知っている。


 ウォンバットの尻も。犬の精神汚染も。全ての作戦の結末を、この男は把握している。


「……あなたは、何者だ」


「魔王ゼノン。この暗黒大陸の支配者だ。八百年ぶりの親征でここに来た」


「魔王……!?」


 レオの顔色が変わった。


 魔王。


 この世界の「最終ボス」。全てのクエストの終着点。倒すべき最後の敵。


 それが、今、河原に立っている。


 ヨダレで汚れたマントを翻しながら。


「……なぜ、魔王自らが」


「部下が全員お前の動物に負けたからだ。言わせるな」



   ◇



 レオは後退した。


 三歩。


 背負い袋に手を伸ばした。


 剣では勝てない。半分しかない聖剣で、八百年の魔王に挑むのは自殺行為だ。


 だが、レオには「それ」があった。


 背負い袋から、洗浄済みの立方体を一つ取り出した。


 完璧な幾何学。マットな質感。日光に当てて乾燥させた、最高品質の聖遺物。


「…………」


 レオは立方体を握りしめた。


 構えた。


 投擲の構え。


 ゼノンは、レオの手の中の物体を見た。


 一秒。


「……やめておけ」


 ゼノンの声は、冷静だった。


「それはウォンバットの糞だ」


 レオの動きが止まった。


「モース硬度は確かに高いが、物理攻撃力は3がいいところだ。見ればわかる。私はこの世界の全てのオブジェクトの属性を把握している」


「…………」


「サイズ:直径四センチの立方体。重量:約三十グラム。材質:植物繊維の圧縮体。攻撃判定:ほぼゼロ。特殊効果:なし。レアリティ:ゴミ」


「ゴミではない!」


 レオが叫んだ。


「これはゴート様が立方格子陣を組んでくださった聖遺物だ! 大地の魔力が結晶化した……!」


「ただの排泄物だ」


「聖遺物だ!」


「排泄物だ。目を覚ませ」


 ゼノンは一歩、前に出た。


 その一歩で、空気の密度が変わった。


「お前は今、末期の『アニマル・ハラスメント』状態にある」


「……アニマル・ハラスメント?」


「動物の行動を過大に神格化し、排泄物を聖遺物と称し、糞の洗浄を『オーバーホール』と呼ぶ。これは精神汚染の最終段階だ。カピバラという存在が、お前の認知を根底から書き換えている」


「…………」


「正気に戻れ。お前は元騎士団長だろう。それが今、何をしている。ウォンバットの糞を天日干しにし、非常口の看板を拝み、カピバラの顎を撫でて『封印術』と呼んでいる。どう見ても正気ではない」


 レオは、言い返せなかった。


 ゼノンの言葉は、全て正しかった。


 客観的に見れば、全て正しかった。


 だが。


「……あなたには、わからない」


 レオの声は、静かだった。


「ゴート様の背中に乗った者にしか、わからないことがある」


「何がわかるというんだ」


「虚無の中の安らぎが。何も語らず、何も求めず、ただそこにいてくれる存在の重みが」


「…………」


「俺は王国を失った。民を失った。騎士団を失った。剣すら半分齧られた。俺には何もない。何もない中で、ゴート様だけが――」


「待て」


 ゼノンが片手を上げた。


「お前の剣を齧ったのも、あのカピバラか」


「……はい」


「城塞を齧り、剣を齧り、今度は世界の秩序を齧ろうとしている。それが『安らぎ』か」


「…………」


「お前の世界観は完全に破綻している。だが、それは今どうでもいい。私の目的はお前ではなく、あの齧歯類だ」


 ゼノンの視線が、レオを通り過ぎた。


 河原の浅瀬に浮いている、茶色い塊を見た。


 ゴート。


 目だけ水面から出して、ぷかぷかしている。


 半開きの目。虚無の表情。


 魔王の魔圧にも、レオの絶叫にも、一切反応していない。


 ただ、浮いている。



   ◇



 ゼノンは、ゴートに向き直った。


「八百年ぶりに玉座を降りた理由が、あのネズミか」


 独り言のように呟いた。


「……終わらせよう」


 ゼノンが右手を掲げた。


 指先に、紫黒の光が凝縮する。


 「削除」。


 魔王ゼノンの固有魔法。対象の存在情報を世界の記録から消去する、最上位の殲滅術式。


 竜を消した。聖女の結界を消した。勇者の聖剣を消した。


 この世界に、消せないものはない。


 はずだった。


「消えろ。暴食の魔獣」


 紫黒の光が、指先から射出された。


 音もなく。


 水面を割り、浅瀬を貫き、ゴートの体に直撃した。


「ゴート様!!」


 レオが絶叫した。


 紫黒の光がゴートの体を包んだ。


 一秒。


 二秒。


 光が――散った。


 霧のように。


 紫黒の光が、ゴートの体毛に触れた瞬間から、急速に色を失い、透明になり、そして消えた。


 魔法が消えたのではない。


 魔法が「意味を失った」のだ。


 ゴートの体毛に触れた瞬間、削除の術式は「何を消すべきか」を見失った。


 なぜなら。


 ゴートには、消すべき「属性」がなかった。


 攻撃力がない。防御力がない。魔法耐性もない。特殊能力もない。


 ステータス画面を開いても、全ての欄が空白。


 存在はしている。だが、世界のシステムに「定義」されていない。


 削除するためには、対象が「何であるか」を定義しなければならない。


 ゴートは、何でもなかった。


 ただの、カピバラだった。


「ぬ」


 ゴートは鳴いた。


 水面に浮いたまま。


 削除の魔法を浴びたことを、おそらく認識していない。


「……な」


 ゼノンの顔から、八百年ぶりに血の気が引いた。


「削除できない……? 属性が付与されていないだと……? 存在自体がシステムからコメントアウトされているというのか……?」


 レオは、ゴートの無事を確認し、膝から崩れ落ちた。


「ゴート様……ご無事で……」


 キウィが枝の上から言った。


「ゴートは言ってるよ。『そんなことより、背中を流してくれないか』って」


「…………は?」


 ゼノンが、キウィを見た。


 キウィ。翻訳役の鳥。報告書に記載があった。


「……鳥。今、何と言った」


「『背中を流してくれないか』。入浴中なので」


「…………」


 ゼノンの額に、青筋が浮かんだ。


 八百年の魔王の最強魔法が「未定義」として霧散した直後に、「背中を流せ」と言われている。


 正気を保つのが難しかった。



   ◇



 ゼノンは、二度目の削除を放った。


 霧散した。


 三度目。


 霧散した。


 四度目。出力を倍にした。


 霧散した。


 ゴートは四度の削除魔法を浴びて、少しだけ毛並みがふわっとなった。


 ドライヤーのような効果があったらしい。


「ぬ」


 気持ちよさそうだった。


「……なぜだ」


 ゼノンの声が、掠れた。


「なぜ消えない。お前は何だ。何者だ。なぜこの世界のシステムに定義されていない」


 ゴートは答えなかった。


 水面に浮いたまま、半開きの目で、ゼノンを見ていた。


 その目には、敵意がなかった。好意もなかった。恐怖も、尊敬も、興味もなかった。


 ただ、見ていた。


 ゼノンを、風景の一部として。


 ゼノンは、その視線に打ちのめされた。


 八百年の人生で、あらゆる種類の視線を浴びてきた。恐怖。憎悪。畏怖。崇拝。挑戦。嘲笑。


 だが、「風景として見られる」のは、初めてだった。


 魔王としての自分が、石や木や空と同列に扱われている。


 存在を否定されたのではない。存在を、ただ「そこにあるもの」として受け入れられたのだ。


 それは、否定よりもずっと深い無関心だった。


 レオが知っている「虚無」は、これだった。


「……お前にも、わかるだろう」


 レオの声が、背後から聞こえた。


「ゴート様の目の前では、『魔王』も『騎士団長』も意味がない。あの目は、肩書を見ていない。存在だけを見ている」


 ゼノンは答えなかった。


 答えられなかった。



   ◇



 ゴートが、水から上がった。


 ブルブルと体を震わせ、水を弾き飛ばした。


 それからモソモソと河原を歩き、ゼノンの足元まで来た。


 ゼノンは身構えた。


 ゴートは、ゼノンの足元で止まった。


 鼻をヒクヒクさせた。


 ゼノンのマントの匂いを嗅いでいる。


 犬のヨダレの匂い。


「ぬ」


 ゴートは、犬のヨダレの匂いに反応したらしい。鼻先をマントの裾に押し当て、何度か嗅いだ。


「……何をしている」


「犬の匂いに馴染みがあるんだよ。あの方にとって、犬の匂いは『仲間の匂い』に近い」


「私のマントから犬の匂いがする、という事実をこの場で公表するな」


 ゴートは匂いを嗅ぎ終わると、鼻先を地面に向けた。


 河原の小石の間に、何かがあった。


 カワウソが置いていった石。マイ・ストーン。


 ゴートは前足でそれを転がし、鼻先でちょいと押した。


 石が、ゴロンと転がった。


 ゼノンの足元まで。


「…………」


 ゼノンは、足元の石を見下ろした。


 小さな、丸い、河原の石。


 カワウソが遊んでいた石。ゴートが懐に収めていた石。


 それを、ゴートが、ゼノンに差し出した。


「ぬ」


 その鳴き声は、静かだった。


 意味があったのか、なかったのか。


 キウィは翻訳しなかった。


 翻訳の必要がないと思ったからだ。


 ゼノンは、石を見つめていた。


 長い間、見つめていた。


 八百年の人生で、「贈り物」を受けたことは何度もあった。


 忠誠の証。賄賂。罠。条約の印。


 全てに意味があった。全てに意図があった。


 だが、この石には、何もなかった。


 意味がない。意図がない。策略がない。


 カピバラが、足元に転がってきた石を、たまたま隣にいた存在に押しやっただけ。


 それだけだ。


 それだけの、はずだ。


 ゼノンは――屈んだ。


 漆黒の鎧が軋んだ。八百年着続けた最高位の鎧が、「拾う」という動作のために軋んだ。


 石を、拾い上げた。


 手のひらに乗せた。


 小さかった。


 温かかった。


 ゴートの鼻先に触れていたから。日光に当たっていたから。


 温かかった。


「…………」


 レオは、息を呑んでいた。


 キウィは、黙っていた。


 近衛兵たちは――いつの間にか、上流の岩陰に身を隠して、息を殺してこの光景を見ていた。


 魔王が、石を拾い上げている。


 カピバラの前で。


 ヨダレまみれのマントを翻すのを忘れて。


 ゼノンの紅い瞳が、ゴートの横顔を見た。


 ゴートは、もうゼノンを見ていなかった。


 河原の別の場所を見ていた。


 何の意味もなく。何の意図もなく。


 ただ、そこにいた。


「……温かいな」


 ゼノンの声は、自分でも驚くほど小さかった。


「この世界のデータには存在しないはずの、不条理な熱だ」


 ゼノンは、ヨダレで汚れたマントを翻すのを忘れ、自分を「風景」として受け入れたカピバラの横顔を、静かに見つめていた。



第9話「邂逅――あるいは、運営と飼育係の果てしなき議論について」


――終――



【次回予告】


「……キウィ。あれは何だ」


「子カピバラ。ゴートの子供……じゃないね。カピバラは群れで子育てするから、血縁関係があるとは限らない」


「何匹いる」


「十二匹」


「十二匹!? いつの間に!?」


「さっきの草原で合流したっぽい。ゴートの後ろをずっとついてきてた」


「ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ」


「……増えた。確実に、増えた。俺の管理業務が、十二倍に増えた」


次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』


第10話「増殖――あるいは、自律型支援機の躍動について」


お楽しみに。

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